大学入試物語10-第四章 入試が大学を食い荒らす(5)

9 許可するという立場の快感

前項の「トム・ソーヤー現象」について、ちょっとだけ、つけ加えておく。
もともと、やりたくも何ともなかった側が、しぶしぶ引き受けたら、今度はそれを「やらせていただく」ために粉骨砕身しなければならず、それをしている内に何だか必死になって、いつのまにか「やりたくてたまらなかった」気分にさせられて行く、という、この腹立たしい過程を何度見たか知れないのだが、実は文科省と大学の間だけではなく、大学の中でもこれと似た図式がわりとよく登場する。
たとえば、「学際的な授業を」とか「地域との連携を」といった、これまで誰もやったことのないような新しい形式の授業を開設することが要求されるとする。文科省の指導か社会の要請か、何か知らないが、「そういうことをするのが望ましいと、求められている」ような話が講座会議でくり返されて、まあ何かそういうようなものを一つぐらいは、やらなくてはなるまいなあ、という雰囲気にだんだん、しぶしぶなって来たとする。
そういう時に、誰か一人、ちょっとやる気のある先生がアイディアを出して「こういうことなら自分はできそうだから、やってみたい」と言ったとする。「それはありがたい、やってもらいましょう」と皆も賛成したとする。

問題はそこから先だ。
例によって私の印象だが、講座会議でも大学全体でも、これからどういうことが起こるかというと、その「やってもいいですよ」と言った人が、ものすごい労力と手間ひまと時間をかけて、案を作って計画を練って提案し、認めてもらわなければならない。
もちろん、その人のアイディアだから、どうしてもその人にやってもらうしかない部分は基本的にはあるのだが、私が見ていていつも驚き、ほとんど絶望的になるのは、他のメンバーはいつの間にか、その人の希望でその人が発案して皆に許可をもらおうとしている、という感覚になっているとしか思えないことだ。
計画の実現のためには、いろいろなチェックを行ない議論をすることは当然必要だろうが、何かいろいろかん違いしているのではありませんか、と言いたくなるのは、まず、その「やってもいい」と引き受けた人は、もともと特にやりたくなかったのを皆のためにやろうとしたのであり、それは余分な授業が増えることで、もちろん給与などはまったく増えない、言ってみりゃ究極のボランティアであり、しかもその授業に他のメンバーが何の協力もできるわけではないということである。

これがもし本当に、その人がどうしてもしてみたい実験的な授業とか言うのだったらまだしも、上からか周囲からか押しつけられたノルマ達成に、その人が犠牲になってくれただけの話であり、よっぽどその人が信用できないとでも言うならともかく、「じゃおまかせします」と言って、やってもらうのが一番おたがいエネルギーの無駄にならない。
それをあれこれ熱心に皆で討議し、その人に何度も訂正や修正や補充をさせているのを見ると、本末転倒ということばしか私の頭には浮かんで来ない。こんなことなら絶対に、何かアイディアがあっても出したりはしないぞと思ってしまう。
しかし、あまりに要求されていることが私ならやれそうなことだったので、一度だけ私も、「こういう授業ではどうでしょうか」と案を出して見たことがあった。すると担当の委員会から、いくつもの修正や補充が求められてきたので、私は「それなら撤回します」と言ってすぐ引っこめてしまった。「時間をかけて議論したのに」と委員会のメンバーはかなり気分を害したようだが、いったんそういう「あなたがやりたくてやるのだから」スパイラルに入ったが最後、泥沼だと思ったから、やめるなら最初に何か言われた時にやめるしかないと、私は判断した。

私の言いたいことはわかってもらいにくいかもしれないし、その前にまちがっているかもしれない。
だが、これは会社や企業や地域でもきっとよくあることなのだろうと思うが、何か新しい企画が提出されたとき、それがいいか悪いか、成功か失敗か見抜くのは上司や周囲の能力だ。だめと思えばつぶせばいいし、いいと思えばフォローして、発案者にはできるだけ余分な負担をかけないようにするべきだ。
理解できない人間にあれこれ、ひねくりまわされている間に、新鮮なアイディアは鮮度が落ちて死んでしまう。少なくとも企画の実現にあたって、もっとも戦力となってもらわねばならない人材を、スタート以前の段階で疲弊させてしまってどうするのだ。
もちろん基本的な説明やプレゼンは必要だろう。だが、ここはもう感覚の問題だが私が見ていてやりきれないのは、もちろん全員ではないが、いろいろな注文をつける人たちの中には、「自分では到底思いつけなかったアイディアだから、せめて何か言うことで参加した気分になりたい」「どうせ責任は担当者が取るのだし、実務は自分にふりかかって来ないから、気軽に何でも文句が言える」といった、どうしようもない発想がかいまみえることだ。
しょせん自分は仕事をしなくていい、という無責任さと、何か自分の存在を示しておきたい、という無意味なプライドが、新しい企画をすりへらし、発案者を消耗させる。
しかも、あまりいいことではないが、大学改革の中で求められるこのような新企画は、それこそ選り好みはしていられない、とにかく何かやらなくてはならないといった性質のものである。せっかく無償で犠牲的精神でそれをやってくれると言っている人に対して、ぜいたくなことを言っている場合ではあるまい、というのが私の実感だった。

ちなみに私は出版や講演で、編集者や主催者などといくつもの仕事をしてきたが、企画が実現するかしないかが決まるまでのやりとりは、いずれも無駄がなく納得できるものだった。文科省とのやりとりや大学内部で、ともすれば起こる「トム・ソーヤーの壁塗り現象」、つまり、こちらから頼んでおいて、それに応じた側がいつの間にか頼みこむかたちになる、奇妙な逆転現象は起こらなかった。そもそも真剣に企画を実現させようと思うなら、そんなねじくれた無駄な儀式をやっている余裕はなかった。
これはいったい何なのだろう。猟師や猛獣がねらった獲物の風上に回り込むように、「相手が許可を求める」体制にしたがり、「許可を与える」ことがすなわち相手の優位に立つことと感じたがる感覚とは。これもまた、大学や世の中を非常に効率悪くしている、あなどれない要素だと私は感じている。

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