大学入試物語3-第一章 そもそものはじめから、まともじゃない

1 文学者風の体感

私は大学院卒業とほぼ同時に就職し、私立、公立、国立の各大学に勤務して二年前に定年退職した。就職できたのは幸運だったし(それなりの苦労もあったが、まあ今はそのことはさておくとして)、一応無事に定年を迎えられたのは更に幸運なことである。これはとおりいっぺんの決まり文句ではなく、切実な実感だ。そのことについても、また後でふれる。
大学在職の全期間、大学入試に関わった。共通一次、センター入試といった全国規模の業務にも従事してきた。最初にこのような全国一斉の入試が行われるようになったいきさつを私はあまり記憶していない。私の学生時代にはそういうものはなく、今の個別入試だけだった。
とはいえ、就職してから、そのような全国的な入試制度について学内で議論した記憶もないので、おそらく私が大学の教員になる前後に、それは実施されるようになっていて、議論する段階ではもうなかったのだと思う。

若い新米の教員として、当時は共通一次だったが、このような全国規模で一斉に行われる大学入試に対して私が抱いた感想は、率直に言って、非常に薄気味悪い異常なものだという感覚だった。どう考えても、まともじゃない、というのが正直な感想だった。
またしても一見関係ない無駄話をするが、私が名古屋の公立大学の教員だった頃、友人の誘いで作家の井上光晴を囲む会に出席したことがある。どこかのセンターか何かの建物の小さいへやで、氏を囲んだ若い聴衆(私もまだ三十代だった)は二十人もいなかったろう。井上氏はその私たちに向かって現代社会の問題と私たちの生き方についてのようなことを話された。中心は原発の話だった。自分が原子力の発電所を見学に行ったとき、トイレに行ったら美しい花が飾ってあった、なぜかそれがすごい違和感で異様な気がして、自分は原子力の平和利用に疑問を感じた、というようなことを言われた。
もしかしたら数字や資料もあげられたかもしれないが、記憶に残っていない。理路整然と論理で攻めるのではなく、豊富な資料で圧倒するのでもなく、「便所の花がおかしい」と言われても、多分私だけではなくそこにいた誰もがあまりぴんと来なかった。あいまいな反応しかしなかった私たちに氏は、少しいらだたしそうに、もっと切実でわかりやすい問題はたくさんある、戦争と平和の問題も受験戦争や格差や差別の問題も大変深刻な事態だが、だが自分は今あえてエネルギー問題を話したいのだ、と言われた。

氏がその時に話されたことで記憶に残るもうひとつは、先日故郷に帰ったら古いボタ山に木が生えていた、それはまったく昔は考えられないことで、自分はそれを見て、ボタ山に緑が生まれるのなら、もう何でも起こり得ると感じた、ということで、便所の花と同様いかにも感覚的な話だが、だがそれから何十年もたった今でも私はこうして覚えているわけで、さすがは作家だと思わないでもない。
何を言いたいかというと、つまり私はこうして語っていて、全国一斉の大学入試に違和感や気味悪さを感じたなどと言ったところで、数字も資料も皆無のそんな印象批評に、これを読んだ人はきっとあの時井上氏の話にいらだたしさとじれったさを感じた私と同じような、「だからそれがどうしたって?」とキツネにつままれたような印象を抱くのだろうなあと思ってしまうということだ。
しかし、統計も資料もその気になればけっこうな操作ができるし、理路整然とすっきりまとまる話こそ逆に怪しいこともある。そう考えると井上氏が、あのような表現でしか表現できなかったことを、あえて話した気持ちも今ではわかる。氏は、その感覚がまちがってはいないという自信があったのだと今ならわかる。
だから私も、そのような自分の感覚から伝えたい。同様の感覚をどれだけの人と共有できるかわからないが、やってみる価値はある。

2 「全国一律」を生で知るために

大学の教員や事務職員など実施している当事者なら、全国一斉の入試が実際にどのように行われるかを知っている。受験生なら自分の受験する教室の実情は体感できる。だが、それ以外の人たちは全国規模の統一入試と聞いても知っても、漠然とした印象しか持てまい。その時点ですでに、何だか不自然、趣味に合わないと感じる人もいるかもしれない。そのような人たちが少数か多数か私にはわからない。いずれにせよ、もっと感覚を共有するため、やや具体的に話してみる。
共通一次の時代も現代のセンター入試も、二日にわたって全国まったく同じ日程で行われる。試験問題はもちろん同一だし、試験開始や終了や休憩や待機の時間もすべて全国一律である。試験開始をつげる言葉も、受験生に与える「筆記用具以外のものは机上に出すな」「気分が悪くなったら申し出るように」などの諸注意も、全国すべての会場で一言一句皆同じだ。
大抵の大学では試験官は大学教員である。事務職員も膨大な作業量をこなすし、試験官になることもある。しかし、試験会場の教室で監督をつとめるのは主として教員である。教室の大きさによって受験生の数も多少があるから、試験監督の人数も二名から数名とはばがある。
その試験官たちが試験問題を配布し回収し枚数を確認し、各受験生の机上におかれた受験票を確認し、人数を数え、欠席者を報告書に記入するといったさまざまな作業も、すべて全国の会場でまったく同じ手順で行われる。
もちろん、こういうことを可能にするためには分刻みで、試験官の行動と発言を規定した細かい分厚いマニュアルがある。そこには、しゃべるべきこと、するべきことが、すべてきっちり書きこまれていて、何一つ欠かしてはいけないのと同様、何一つつけ加えてはいけない。試験官個人の、独自の判断で何かを言ったりしたりすることは許されていない。

私のような人間は、すでにこのような状況を想像しただけでひどく不愉快になり背筋が寒くなって吐き気を催すのだが、そういう人間はもちろん少数だろう。言っておくが大学教員の中でも少数だろう。逆に、このような情景を予想し、全国でいっせいに声をそろえて同じ時刻に同じことばが読み上げられているのだということを空想するだけで、もう何かしらわけもなく、うっとりし陶酔し喜びの涙がにじむ人もきっと世の中にはいくらもいるにちがいない。それも別に悪くはない。趣味の問題だ。とにかく、こういう現状だということは、それが嫌いな人も好きな人も、一度実感してほしい。知っている人でも、それがどういうことか、あらためてかみしめてもらいたい。

ちなみにこの分厚いマニュアルは、試験官は試験会場で皆手にしているし、受験生はそれを見ているから、存在自体は機密でも何でもあるまい。そして入試に関する新聞テレビの報道、識者の発言いずれもが、このマニュアルを見たこともないままになされているようなのが、私は不思議でしかたがない。もちろん公開は許されていないのだろう。しかし、数年前のさしさわりないと判断できるものでもいいから関係機関に要求して、このくらいは見せてもらうぐらいの意気込みがなければ入試の実態など、とてもつかめないはずだ。
見たところで暴露される機密などはまずないはずだ。公開してもカンニングその他に利用される恐れのあるような内容でもない。言いかえれば、そんなに苦労して見るほどのものでもない。それでも私が、少なくとも報道関係者や評論家ぐらいの方々に、これをぜひ見てほしいのは、やはり、「生の実感」を得てほしいからだ。私には気味悪さ、ある人々には快感を呼ぶ、「全国一律の入試」の実施とはどんなものかを、一人でも多くの方に肌でつかんでいただきたいからだ。

3 派遣社員のように

しつこくくり返すが、私はこういう全国で同じ時間にいっせいに同じことが寸秒たがわず、一字一句まちがいなく足並みそろえて行われるということ自体が、非常に不健康で異常に思えてしかたがない。外国のことは知らないが、こんなことをしている例が他国でも昔でもあったという話を私は聞いたことがないが、どこかに存在するのだろうか。
これはたとえば空港の管制塔や新幹線のダイヤなどの過密で超こまかいスケジュールの実施や、チャップリンの「モダン・タイムズ」が描くような、画一的で機械的な工場の生産工程などと、一見似ていて共通する要素はあるにしても、やっぱりちがう性格のものだ。そういった作業には、それなりのぬきさしならない現実的な必要性があり、だから本当に緻密ですきがない。大学入試は、これだけ細かく規定され、整然と行われているようで、実はまったくそうではない幻想の上に存在している、現実無視の空中楼閣、黙って皆が夢を見ているような白昼夢のような無気味さが、一段と私を不快にさせ、関係者一同が皆で狂っているような感覚に陥らせる。
私はまた、わかりにくい話をしているのかもしれないから、その感覚については、次の章でおいおい話そう。

このような不快感、非現実感がどれだけ私個人のものか、私は検証していない。つまり全国一斉大学入試のこういった形式や実態について、どう思うかどう感じるか、たいがいいろんなおしゃべりをする同僚たちとも私は話したことがない。多分ほとんどすべての大学教員がそうだろう。
何十年もこのような入試にたずさわってきて、今あらためて思うのは、共通一次やセンター入試は本当に誰からも愛されていなかったのだなあということだ。私たち大学教員は、学生指導や授業計画、卒論指導などについてはけっこう熱心に会議でも酒席でも喫茶店でも意見交換し、議論する。同じ入試でも大学が独自に行う個別試験については、きちんと関心を持ち議論もする。
だが、センター試験や共通一次試験に関しては、作業には緊張して真剣に従事していても、まったくそういうことがない。また感覚的な言い方をすると、本当に冷たく無視している。この制度をどうしたらいいとか、ここを改善したいとか積極的に熱く語る気にはなれない。誰もが、そんなことなどまるでしていないかのように、センター試験に携わったことを話題にしないし、ごくごく自然に共通の記憶から抹消している。

それも当然である。全国一斉入試の場合、私たち大学教員のする仕事は、どこをとってもすべて、何しろあれだけ克明なマニュアルがあるのだから、有能な事務職員どころか、一般の社会人、シルバー人材センターからの派遣、高校生や中学生のバイトでもできる作業であり、ロボットが開発されればそれで十分な仕事ばかりである。物理学、経済学、美学、国文学、などなど各方面の専門家の能力を発揮する面など、そこには何ひとつ存在しない。
よく海外のドラマや映画など見ていると、亡命してきた優秀な学者が掃除婦や道路工事で働いていたりすることだし、今さら「普通にきちんとした人なら誰でもできる」仕事をさせられるからと言って、研究者や学者の誇りが傷つくかどうか、それも私はわからない。

ずっと以前、東京のどこかの公的な研究機関から、私のいた地方大学が所蔵する膨大な貴重書を撮影するのに、ページをめくる時間がどれだけかかるかを調べたいから、撮影隊が行く前に大学院生にページをめくる(だけの)作業をさせて時間を計測してくれという依頼が来たことがあったようで、この時にたしか私たちは、「人をなめとんのか、だから中央のやつらはもう」みたいなノリで、さんざっぱら悪口を言って、結局その仕事は断ったような記憶がある。私がこの話をぼんやりとでも覚えているのは、その時に皆といっしょに悪口を言いながら、私自身は漠然と「しかしまあ、センター試験で、あれだけ誰でもやれる単純作業の下請け仕事を、文句も言わずに毎年やってるんだから、これにだけ今さら文句を言うのもおかしいか」と考えていた記憶があるからだ。
その時のことを考えても、大学教員たちの中に、「何で自分がこんな仕事を」という感覚がまったくないわけでもないだろう。それが、ローマ帝国かどっかに征服された国の民が奴隷になって働いていて、主人に対して抱くような白けた冷たさを無意識に持つことにつながっているのかもしれない。
そんな当事者のひそかに屈折した心情があるかないかを別にしても、適材適所という点では無駄な人材の使い方をしているとは思う。専門的な研究や教育のために、それなりの給料を払っている専門家の集団に、その実力を発揮するために研鑽をつむべき貴重な時間を割いて、膨大な単純作業をさせているのだから。たった二日かそこらのことだろ、と言うなかれ、これも、おいおい、ゆっくり話そう。

そんな心情が誤ったプライドだとしても、それ以外にも大学教員がこの試験制度に冷淡になる理由はある。何しろ、監督官として実施している試験問題を受験生同様、私たちは試験開始までまったく見ておらず、内容を知らない。また受験生たちも地域でわりあてられるから、どこの大学に行くのか、まったくわからない。
個別試験の場合には、配布する問題は自分や同僚が作っており、採点も合否判定も自分たちがする。受験生もこの大学を志望していることがわかっている。だからと言って何が変わるということではないが、やはり感覚としては全国一斉入試は実施する大学側にとっても、どこかひとごとで、自分たちもお客様感覚なのである。大工さんがよその工務店の仕事をしたり、もしかしたら派遣社員で働く人はこういう気分なのかもしれない。どう熱心に真剣に誠実にやっても、結局自分には口を出せない、誰か他人の仕事だという意識が常に頭のどこかにある。

4 大学教員のDNA

実は私は、共通一次が始まったころ、先にくり返したような不快さを味わいながら、もう一つ、かなり決定的な違和感や危機感を感じていたのは、他ならぬ大学教員にこのような作業をさせるという点だった。これは、前章で述べた研究者や専門職のプライドといった話とはまたまったく別のことで、そもそも私を含めた大学教員の多くは、本質的に、このような皆がいっせいにマニュアル通りに時間を守って行動することなど、世界で一番苦手で不向きな人種だと私は思っていたからだ。
実際には理系文系を問わず、時間を守り几帳面で事務的才能に優れた大学教員は昔も今もたくさんいる。しかし、やはり時間や形式に束縛されず、気分がのったら何時間でも仕事をし、のらない時は何カ月でも怠けるといった日常がある程度は認められているのが大学教員で、そうでなければ到底生み出せない業績や成果もまた存在する。

私の恩師たちの時代には、一年間まったく授業をしないで単位をくれていた有名な大学者もいたし、比較的まともできちんとした先生たちでも、学生の待つ教室の一階上の教室に行って学生が来ないのに怒って帰ったり、駅のコインロッカーに荷物を入れて、隣りのロッカーに鍵をかけて帰りに出すまで気づかなかったり、ネクタイを二本しめて歩き回ったり、ズボンをはき忘れて電車に乗ったり、酔っぱらって授業中に教卓につっぷして寝こんで学生たちに運ばれたり、講演に遅れたり授業を忘れたりするのなど、もうあたりまえで笑い話にさえならなかった。共通一次が開始された時点では、そういった先生方もまだ現役で在職していた。今はさすがに、そういう大学教員はまずいないが、やはりそういう職業としてのDNAは私たちの中に存在している。
だから私は、共通一次の実際の作業手順を知るにつけ、こんな複雑で緻密な作業に、よりによって大学教員を使用するなどとまったく正気の沙汰ではないとおぞけをふるった。絶対に早晩大事故や大混乱が起こって、こんな制度は不可能ということになり廃止されるにちがいがないと、かなりの確率で予想していた。

実際には、その予想はまったく外れた。さしたるトラブルもなく、共通一次もセンター入試も回を重ねて定着した。私はそのことに、最初の数年驚いたし、今にいたるまでずっと驚き続けている。どちらかというと、とても信じられないのである。
私の予想したよりも大学教員は、ずっとまともで事務能力があったのだ。そう思って驚嘆もした。だが、見直したと評価し申し訳なかったと謝る以上に、そんなことでいいのかと不安になるのもまた事実だ。ここまで普通の常識人で、日本の大学や大学人は壮大な知性や個性を生み出せるのか、かえってはなはだ心もとない。
このように一応無事に経過した理由はいろいろあるだろう。ひとつには、前に書いたように、この制度そのものが緻密なようで恐ろしく雑なゆるいものであったということだ。形式だけがやたら守られているようで、そこには本当の公平も正確さもない。だからこそ、自由で気ままな人が多い大学教員の集団でもつとまった。
おそらく昨今の報道が書きたてる程度のミスやトラブルなど、昔も今も、もっといくらでも存在した。それでも何とかやって来られたのは、むしろマニュアルを無視して柔軟な対応が平気でできた大学教員たちだったからこそではないか。そんなことさえ私は思う。

あるいは、これは手前味噌すぎるかもしれないが、大学教員のDNAの中にはルーズで気ままで規則もマニュアルも知ったこっちゃないという以上に、学生、つまり受験生のことを何よりも大事にするという教育者気質がぬきがたく存在する。このところの大学改革による仕事の増大ぶりを見ていて、うんざりしながらいつも私が思うのは、何だかんだと言ったって、教師というのはどうしてこうまで学生のことを思いやるのかということだ。
それは時にはまちがった方向に走って、アカデミックハラスメントそのものの熱心すぎる指導になったり、逆に放任しすぎになったり、結果としていいことにならない場合も少なくはないが、ただどっちにどう転んでも、学生のために何かしてやりたいと願う意識だけは、どんなゆがんだかたちでも教師の中には必ずある。
その善意と熱意が、プライドもわがままも結局は上回って、「きちんとした入試を受けさせてやりたい」と思う心理につながって、マニュアルを何とか無事に運用させてきたのかもしれない。実際、そんなこと以上に私は理由が思いつけない。

こんな見方や言い方が、大学や大学教員に対して甘い、受験生のことを考えていないと言うなら、私はきっぱり言い返す。そもそも全国一律のあのような試験制度が、それにまつわるさまざまな状況が、受験生のことをいったい考えているのかと。
そして、もう一度、初心にかえって、頭を真っ白にして感じ直し、受けとめ直してみてほしい。この制度が、この実態が、そもそも異様で、異常ではないのかと。
こんな制度が、ここまで一応無事に推移してきたこと自体が、私には奇跡的に思える。そのことに慣れてしまって、ますます複雑で実施困難な作業を年々考えつくのは、体操競技かフィギュアスケートの難度を競う必要があるわけではあるまいし、そうすることによってますますミスやトラブルを誘発し、受験生を苦しめることにつながっているとしか私には見えない。

だが、これもまたくりかえす。私はこの事態の改善を望んでいない。事態の改善の名のもとに、またしても膨大な調査や書類の提出や数々の作業が現場に投下されるのを、大学のためにも受験生のためにも何よりも私は恐れる。
とりあえずは、この実態を知ってほしい。何か改革、改善しようと思うなら、瀕死の病人の外科手術か、地雷の撤去か、トランプの家の改修なみの慎重な見通しと準備の上でやるしかない。今の日本でただちにそれができる機関も組織も人物も存在しないと私はほぼ確信している。

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