大学入試物語9-第四章 入試が大学を食い荒らす(4)
8 トム・ソーヤーの壁塗り現象
どんどん話がまたしても、入試とはなれて行くようだから、あとひとつだけ私がいつも腹立たしく思っている図式か現象かを指摘して、その後、話を入試に戻そう。
現場の声や要望や反論を文部科学省や政府にあげるルートやパイプというものが、私の知る限りでは存在しないということを前に述べた。それだけでもいいかげん驚かれるだろうが、事実はもっと救えない状況にある。
新しいコースを作れとか、学部を再編しろとか、どれだけ労力がかかるかわからないようなことを、いとも簡単に文部科学省は押しつけてくるが、正確に言うと、これは押しつけているわけではない。表向きの手続き上ではすべて、大学の方から希望したことになっている。
私も大学執行部のはしくれの役職についていたことはあるが、あくまでもはしくれで、期間もそんなに長くなかった。それももう昔のことだし記憶もさだかではないから、細かいいきさつはわからない。しかし、そういう立場にいなくても一構成員としての感触だけでも、確実にわかる印象は、次の通りだ。
まず文科省から、「こういうことをしてはどうか」というような打診のようなものが来る。そこで「いや、わが大学では必要ありません」と回答したり無視したりしたら、どうなるのかは誰も知らない。あくまで打診だから拒絶も無視も質問もあって当然と思うが、どうもそういう選択肢は許されていないようで、「これを拒絶したら、絶対に予算を削られる」とか「これを受け入れなかったら、必ず学生定員の削減(それは、教員削減につながる)が言い渡される」とかいう推論が、まことしやかに取りざたされる。
もしかしたら、文科省はそんなつもりもなくて、本当に「打診」で「意見聴取」なのだとしたら、文科省の方も気の毒だし、全体としてとんだ茶番だとしか言いようがないが、何しろ何度も言うように、対話や交渉といった機会がほとんどない仕組みだから、どうしても疑心暗鬼が先行する。
その結果、別にほしくもないし、特にやりたくもないような、新設の機関や学部が作られることになる。それだけでもけっこう腹立たしいが、私が毎回見ていて許せないと思うのは、そこから先の展開である。
そういう新しい組織は、あくまで私の印象ではと断っておいてもいいが、決して大学の内部から生まれた要望でも希望でもなく、文科省の打診で「ああ、それはいいですね」と乗り気になった話でもなく、「断ったら何をされるかわからないから」と、しぶしぶ受け入れ、新設を決めた組織である。ところが、それにもかかわらず、いったんそうなった後はどうなるかというと、「新設を認めてもらう」ために、大学の方が書類を整え設備を作り、人員を配置し、文科省に設置を認めてもらうため、懸命に努力しなければならないことになっている。
あまり学内政治には関心も興味もなかった私の記憶でも、こういう図式は数回くりかえされた気がする。一度はとにかく、二度三度同じことが起こると、いいかげんに何かを学んでもいいのではないかと思うが、まったく同じだ。つまり、こちらが望みもしなかったものを、相手のきげんを損ねてはといやいや引き受けたのに、今度はそれをもらうために、こちらがあれこれ努力して相手の許しを得なくてはならないことになるのである。
具体的には、その新しい学部や組織を作るための企画書や計画書を作って文科省に持って行き、それが認められるかどうかに全学が一喜一憂し、設置が認可されるとほっとして大喜びする、ということになる。
自分がそういう作業をしたことはないが、やっている人たちの苦労がよくわかるだけに、見ていてただただ腹立たしかった。私の感覚では「こういうことをしたらどうでしょうか」と言ってきたからには、「やりましょう」と応じた相手に対しては最大限の感謝と礼儀をつくすべきだし、少なくとも「ここはこうした方がいいのではないでしょうか」と「こちらにできることは何かありますか」と相談にのり協力を申し出るのが普通だろう。
ひょっとしたら文科省の方ではそうしているつもりなのかもしれないが、大学にいて見ている限りでは、絶対にそうは見えない。自分の方から声をかけておきながら、しぶしぶだろうがいやいやだろうが、相手が応じたそのとたん、「そちらが希望しているのですから」と、自分がチェックし許可するという上から目線に早変わりし、しかも「こうしてほしい」「こうしたら許可する」という要望さえはっきり示さず(どうしてほしいのか、わかっていないのかもしれない)、提出された書類を見ては「これではどうも」と突っ返し、気に入るものが出て来るまで待つ、という、いまどきめったにいない、不親切な卒論指導をする無能力な教員のような態度をとっているとしか見えない。
そもそも、「こういうものを作っては」と打診してくる段階で、打診は打診なのだから、「だめです」「いやです」と拒絶する自由を相手に充分に与えておかなくては意味がないだろう。そして、「なぜだめなのか」「なぜいやなのか」を聞いてみて、なるほどと思ったらあきらめるし、あきらめがつかなかったら、そこを解決するような案を作って再度提示し、調整して行くものだろう。
つまり、「これではだめですか。ではこうしては」と、修正と提示をくりかえすのは、最初に打診した方でなくてはならないはずだ。(こんなあたりまえのことを、あらためて書いている自分がアホらしくなるが、事実はこれとはまっさかさまで、それが普通になっているから、こんなしょ~もないことを確認するのもしかたがない。)
それがまったく逆転している。作りたくもないものを、いやいや作る側が、作ってほしい側を説得しようとしているのだから、よいものが生まれるわけはない。本当に作ってほしければ、恥をかいても失敗しても自分で原案を作って提案しなければ、本来説得される側には、相手が何を望んでいるのかわかるわけがないだろう。
ここには、前に私が「さかさまのふるい」と名づけた現象とも似た、奇妙で滑稽で醜悪な倒錯と逆転がある。説得される側のはずだった大学の方が、設置を認可してもらおうと努力を重ねる内に、まるでそれが本当に望んでいたことであるかのように、少なからぬ構成員が感じているようなのを見て、私はマーク・トウェインが「トム・ソーヤーの冒険」で描いた、最初は罰だった壁のペンキ塗りを皆がこぞってやりたがるようになる、あの情景を何度連想したかしれない。それはまだほほえましいが、「どうしたら認可してもらえるのか」と、本来ちっとも望んでいなかったことを認めてもらうための文言を苦心して考えている担当者を見ていると、私は魔女裁判で拷問にあった無実の人が苦しさに耐えかねて早く死刑になるために「何を自白したらいいのか教えて下さい」と刑吏に懇願する場面をさえ連想する。そういう裁判では火あぶりにした人の財産を没収するのに、使った薪や油の代金の請求も含めるというが、それと共通した陰惨さを、こういった状況を生む精神の背後に感じる。
(というか、最近「消された家族」という、北九州市で起こった、老人から幼児までの大家族を監禁して殺して解体して捨てたという、とんでもない事件の犯人の男性が、まったく、この通りのことをしていたので、ほとんどもう笑ってしまった。彼は犠牲者となる人々に対し、絶対にどうしろこうしろとは自分から言わなくて、あくまでその人たち自身が殺し合いをしなくてはならないように追い込む。律義なまでに姑息な手段で、残虐な行為をあくまでも自発的に行なうように犠牲者に強いる。私がここで表現しようとしている、大学改革の手続きの精神は、すべて、この男性のやり方であると言っていいほどで、私の言わんとすることを理解したい人は、ぜひ、この本を読んでいただきたいと思うほどである。)
この二十年あまりの間の大学改革のすべては、このようなかたちで行なわれてきた、と私はあえて断言する。
そうやって組織が再編され、新しい組織が作られてきた。当然それは、行き詰まり、見直しを迫られ、時には廃止された。
どんな過程で作られようが、そこに希望と期待を抱いて入ってくる学生は現実にいる。現場の大学教員はその学生たちとともに必死で努力して来たし、何人もの教員がこの数年過労死としか言えない死に方を私の周囲でもした。それらの教員や学生のためにも、こんなかたちでの改革や改編はもうこれ以上してはならない、と、これも私は断言したい。