まるでもう夢のよう
「グラディエーター」シリーズのイラスト64枚を、何とか色まで塗り上げるという大仕事をやっとこさ片づけたので、今日は身体も心もちょっといたわることにして、一日でれでれ過ごしていた。明日は多分、注文していた「忘却バッテリー」3巻のDVDが届くので、今から楽しみだ。山崎マリ&とり・みき両氏の「プリニウス」も5巻まで読んでいる。山崎さんは暴君ネロを悪人として描かないようにしているのが、ちょっとうれしいし、猫好きだからか、猫がしっかり登場するのも楽しい。
大河ドラマの「光る君へ」はずっと見損ねていたのだが、このごろふと何話か見た。現代風なのがそれなりに面白いのだけど、あの時代に仮名文字の物語が、ああも正々堂々と帝に献上されたりするもんなのかなあ。あのころはあくまでも漢文が全盛で、仮名文字の文学なんて今のコミックやラノベ以下に、文学として認められてもなかったのでは。
私はあの時代の文学は素人だから知らないし、授業でしゃべったこともないが、いつも漠然と空想していたのは、源氏物語なんて今のコミケみたいな世界で女房たちがきゃぴきゃぴ読んでて、それが今と同様に人気のあまりに市民権を獲得して行ったというようにずっと考えていた。だからこそ、主人公が父の帝のお相手の継母と密通して、その間の不義の子が次の帝になるなんて、おっそろしい筋立ても「おなごどもの書く妄想だから」と今のオタク文学ややおいなみに見過ごされて許されて来たものと理解していた。あんな政治の表舞台に堂々と利用されるなんて、どう考えてもあり得ないと思うんだけど、確認しようと思ったら、またそっち方面の本を読まなくちゃならなくなるし、さかさに振っても、そんな時間も金も体力もないもんなあ。
それにしても、話を戻すと、最初は到底無理と思ってお先真っ暗だった「グラディエーター」ものの挿し絵イラストが、とにかく描けたのはありがたい。
今思うと、まだ十年も経っていない以前、何かのために、簡単な人物と風景のイラストを描こうとしたら、まったくどう描いていいかわからず、線の一本も決められなかった。人間には絶対に出来ないこともあるものだと、妙に感心したものだ。
読者にすすめられたりして「水の王子」の挿し絵を自分で描くはめになって、最初に描いてみたときも、人の顔とか描く勇気がなく方法もわからず、最初に描いたのは、だから、主人公たちが並んで浜辺に座って沖を見ている後ろ姿だった(笑)。これね。
それからだんだん、やけになって開き直って、最後はもうばんばん人の顔のアップとか描いてた。結局それから数年というか一年もしない内に、主としてネットの「イラスト」を検索して出てくる画像だけを頼りに、もちろん下手で基礎も何もできてないけど、人物の表情とか手足の動きなども、ほとんど平気で描けるようになったから恐ろしい。眉の傾斜や白目の残し方だけで、表情が決められることもわかったし、あごの線や髪の線ひとつまちがっただけで、まったく別人になることもわかった。
「グラディエーター」シリーズは前にも書いたように、「水の王子」とは趣きを変えなくてはと思っていたから、かなり困った。最終的にはあまり変わらなかったのだが(笑)、しいて言うなら、色をしつこく塗りつぶしたのと、さあどう言うかやっぱり難しいのだけど、人物の顔に、あまり感情移入していないかもしれない。
「水の王子」の時よりは、うまくなってるとは思います。何しろ最初がひどかったから(笑)。でも、「水の王子」の人物たちは、下手なりに私はとても愛していたし、血が通っていたのですよ。まるで家族か知り合いのように。
それに比べると、「グラディエーター」シリーズの方は、描いていても距離があります。人物たちは、うまく言えないけど、ちょっと記号っぽく描かれているとか。
実はそれは計算済みで、最初どう描くか困っていたとき、私はいっそ全イラストをローマかギリシャか知りませんが、モザイク画か壁画かステンドグラス風に描いてみたろかしらんと思ったりもしたのです。図案的に、デザイン的に。
まあそんな技術もなかったから、やっぱり普通の絵にはなったのですが、できたらどこやら、すべての絵を、そういう古代の壺や石碑に描かれた模様のような感じでながめていただけたらと思っています。
技術だけは拙いなりに本当に進歩して、実はこの64枚のイラスト、「水の王子」のときとちがって、私はほとんどまったく、ネットも画集も見ていません。人の動きも動物の姿も、ほぼ全部一人で描けました。いやー、我ながらすごい。というか、人間ってすごい。
というわけで、またごく一部を紹介しておきます。あのー、基本的に下手だってことは自分でもよく知っていますので、どうか笑ってごらん下さい。上から「呪文」「マキシマス日和」「双子がいた!」「狼と将軍」です。