ぐっと、かみ殺して
玄関に飾った叔父の写真はなかなかいい。叔父と叔母のマンションは、お金がかかっているわりには殺風景な感じがして、私はあまりあこがれる気にはならなかった。でも、二人の死後しばらく管理したときに居心地がとてもよいのはわかったし、やはりなつかしい、やすらげる場所にはちがいなかった。
ベランダで花の鉢植えを前にした叔父の写真が玄関にあると、何だかあのマンションの一部が私の家にくっついているような感じがして、いつでも二人に会えるようで、悪くない。
ところで、昨日書いた、庭のムスカリはこれ。何ともわかりにくいですが、ちゃんと芽が出てるんですからね。花も咲いているんですからね。紫と白と。これでもですよ。よく目をこらしてごらんになって下さい(笑)。
せめて、もうちょっとは伸びるのかなあ。育つのかなあ。増えるのかなあ。ムスカリって丈夫でわさわさ増えて広がるものだって思ってたのに、それは、これからなのかしら。
でも、他の花たちも数日前と比べてさえ、格段に勢いよく栄えてきてるし、ラナンキュラスなんて、化け物みたいな大輪の花がぽかぽか咲いてるから、ムスカリたちも、これからなのかもしれない。
いずれにしても、よそのお庭や記憶に残る田舎の実家と比べると、私の庭ってどこか雑然としまらないのよね。つめが甘いっちゅうか、決してすっかりきれいにならない。何でだろ。ひょっとして無意識に自分がこういうのを、めざしてるような気までしてきた。
この前、ラジオでウクライナからの難民を受け入れる話をしていた。難民問題にとりくんでおられる女性の方が、その必然性や意義について語っておられた。
私はもちろん難民は受け入れるべきと思うし、それぞれの地域では皆それなりに親切に対応するようにも思うが、最近の日本の入管のウィシュマさんへの残酷な死なせ方とか見ていると、ウクライナに限らず他国の人に来ていただくのが、むしろ恐くて、つい及び腰になりそうになる。起こったことももちろんひどいが、1億歩譲って起きたことはしょうがないとしても、その検証や調査や対処のいいかげんさを見ていると、政府も国民も難民や亡命者についての感覚を、そもそもきっちり磨き直さなくてはいけないのではないかという気になって来る。
ラジオの女性の方は、ウィシュマさんや入管の問題については何もおっしゃらなかった。もちろん、ご存じでないはずはない。ウクライナのことがきっかけで人々が難民や移民に関心を抱き、意識が変わるきっかけを生むかもしれないと期待して(それは私にもないわけではない)、そういう問題は、ぐっとかみ殺して、触れないようにされていたのかもしれない。