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切ったらまた出る芝居のユーレイ

毎朝メールチェックをしていると、怪しげなところや見も知らぬところから、山ほど変なメールが来ている。特にJAバンクからのお知らせがしつこいったらもう。削除しても削除しても、切ったらまた出る芝居のユーレイみたいに現れる。JAバンクの本物がもし実在するんなら、いいかげんに対策打てや。名前見るだけでうんざりする。

町田市の老婦人が、買い物帰りのマンションの階段で、「生きてるのが嫌になった、誰でもいいから殺したかった」とかいう若者に、めった刺しにされて殺されたという、言いようもない事件にことばをなくしている。被害者の家族や加害者の両親の、取材への人間らしいけんめいな対応が、かろうじて救いかもしれない。
 ニュースの映像などを見ると、事件直前に買い物袋を両腕に下げて、歩いてくる老婦人の姿がある。私もそうだが、高齢者らしいややおぼつかない足取りである。「両手に荷物を下げていたから抵抗されないと判断した」という犯人のことばが、またこちらを混乱させる。不謹慎な言い方かもしれないが、一応成人男性で若くて刃物を持っていて、相手を物色して、こんな人を襲うしかないなんて、よっぽど自信がなかったんだな。そのことに何だか何より驚いてしまう。

カツジ猫(の亡霊。笑)も書いていますが、昨日「宝島」の映画を見に行きました。原作通り、熱い映画で、「L.A.コンフィデンシャル」の映画を見たあと、「よくまあ、あのややこしい話をまとめたな」と感心したように、煮えたぎる豊富な内容の原作を、すっきり骨太の映画にまとめて練り上げていました。
 単純と言えば単純な話ですよ。アメリカと日本の双方から、踏みにじられっぱなした島が、明るい自然と豊かな生命力の中で、のたうちながら、出口を求めて生き延びて生き延びて、やがて怒りを爆発させるという、西部劇やヤクザ映画とも共通する型通りの展開。でもね、それは事実が、歴史が、その通りなんです。このまんまのことが現実に起こってきたんです。私たちのかたわらで。私たちの眼の前で。

主演の妻夫木聡をはじめ、皆名演ですが、微妙とか複雑とかというより、皆が全力の力技です。命と身体を投げ出して、ぶつけてくるような荒々しさが見事です。これはでも、もしかしたら、今の時代の、それこそ行き詰まって絶望して自殺と道連れの無差別殺人犯そうっちゅうのに、大荷物を下げてよろよろ歩く老婦人しか攻撃対象に選べないほどに、弱々しい疲れ切った今の時代の人たちには、しっくり来ないし、拒否感や違和感につながるのかもしれない。私自身、もともとこういう、熱気や怒気にみちた話は肌に合わない。原作からしてそうでした。

でも、それとは別に、呼び起こされる熱さがあります。なつかしい時代というより、心と身体の底に眠っていた激しさが、かき乱されてよみがえります。
 しいたげられ続けた人々の、爆発する怒りが、あるいはデモ、あるいは暴動となってほとばしる映像を、これだけのスケールで、費用もかけて描ききった映画は日本にこれまでなかったのではないでしょうか。本当の歴史を。本当の現代を。
 そんな場面の一つで歌われる「固き土を破りて民族の怒りに燃ゆる島、沖縄よ」とはじまる当時の歌(荒木栄「沖縄を返せ」)を、ほとんど客もいない劇場の席で、思わず小声でいっしょに口ずさみました。何一つ、忘れていた部分はありませんでした。

かつて米軍基地に盗みに入っていた青年たちのグループのリーダーが消えて、その消息を求める話が、原作でも映画でも、ひとつの筋になっていて、寓話的というか幻想的というか、それがどちらでもうまく活かされていました。リーダーの彼が、圧倒的な存在感を持つはずなのが、やや今風にきれいすぎて、ちょっと弱いのが、ある意味致命的だなあという気もしたのですが、あれでよかったという気もしたり、これはちょっとわかりません。

とにかく、見て損はない映画です。ソツがないとか無難とかいう意味じゃなく、全力で荒れ狂って、観客にすべてをぶつけて、あけっぱなしに寝転がっているようなのに、まったく欠点が見つからないのがすごいです(笑)。この熱量と前向きな健康さと、絶望的なやるせなさ。やっぱ、もう一回、見に行こうかな。

えーい、まだまだ書きたいことがあるのですけど、一番しょうもないことをひとつだけ。カツジ猫が、「ぼくの、おさんぽ」なる一文で、昔、外で野良猫さんに追われたかどうかで、身体をうんちだらけにして帰って来た思い出を語ってましたが、何と古いブログの記事で、私自身が、その時のことを、ことこまかに記していました。ぜひ読んで、笑ってやって下さい。

いったい何があったのだろう?(笑)

それにしても驚くのは私このころ平気で、猫たちを外に閉め出したり、数日留守番をさせたりしていたんですねえ。ここ数年の、一日も家を空けず、カツジにつきあってやってた日常を思うと夢みたいです。カツジを特に粗末にしてたのではなく、どの猫にも昔はこういう大ざっぱな付き合い方をしていたんだと思います。

かわりに、詳しくブログや日記に猫たちのことは書いてるんですよね。最近は逆に日記にはあまりカツジは登場していないんですが。現実に献身しつづけると、文章に書く余裕がなくなるんでしょうか。

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カツジ猫