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幻のマーカー

昨日はやたら暖かだっただけではなく、庭仕事がただ土を掘って球根を植えるという比較的楽な作業が多かったため、わりとちゃっちゃっと作業が進み、奥庭の突き当り、桜を植えた向こうには、ムスカリとアイリスジンジャーの球根を、「昔風の庭」と呼んでるあたりには、余ったユリと水仙の球根を仇のように植えまくって、どうやら庭の改造も大詰めを迎えているような気がしている。まあ、玄関前のエントランス(普通、ここからきれいにしないか?)とかが、まだ手つかずなんだけど。

それと、奥庭への通路に、あいかわらず、野良猫の糞害が絶えない。ひどいところに、レンガを敷きつめたら、一応くいとめられるが、今度はその手前の隅っこにするようになる。

昔、大学で主事やってて、学部の教授会の議長をしていたころ、学長たちと執行部で議題を決める会議をしていて、私はよく「この原案じゃ絶対、反対意見が出て可決できない。ここを変えて提案しなければ」と注文をつけていた。何しろ私の属していた人文系の学部は論客が多く、毎回もめにもめて下手すりゃ夜中まで議論が続くのなんか珍しくもなかったからだ。

そんな時私はしばしば、「この原案の文章を見たら、どこが突っ込まれてもめるか、すぐわかる。誰がどう文句をつけて来るかまで見当がつく。もう、プリントされてる原案の文章を流し読みしただけで、どこが質問されるか反対されるかもめるもとになるか、幻のマーカーの蛍光色みたいに浮かび上がってくる。この表現は消すか変えるか説明を加えるか、どうかしておかないと、火種になることまちがいない」と、皆を脅かしていた。

言っちゃ何だが、今もそれと同じで、この範囲をレンガや花でおおって防げば、野良猫は次には、あそこをトイレにするだろうなという庭の部分が、これまた蛍光色に浮かび上がってくるのよ。ターミネーターの電子頭脳装備の視野みたいにさ。

それにしても、私がここまで猫を嫌いになるなんて、想像もしない晩年だったなあ。
飼い猫はあいかわらず、ちゃんと世話してかわいがってるが、それだけじゃなく、野良猫でも何でも、猫というものの性格もかたちも動作もすべて大好きで、小さいときから彼らに魅了されていた。子猫でも年寄りでも、よれよれの雑巾みたいな大きな雄猫でも、それぞれに溺愛せずにはいられなかった。猫に関するいろんな署名や寄付にも絶対応じていたし、虐待する人や法律には身の毛がよだち、怒りに震えがおさまらなかった。

それが今やもう、虐待する人の気持ちまでどこかでわかりそうになるし、姿を遠くから見ただけで不快になり、猫に関する記事のすべてに、まったく感情移入できない。
まあ、私の動物愛護の精神も、その程度のものだったということだろうし、この世の執着をひとつ振り払ったということでは、めでたいのかもしれないが。

結局、この十年近く、餌やりをする人たちによって無制限に増え続ける野良猫の糞害を中心とした被害により、身も心も疲れ果てて愛情も好意もすりへってしまったということだろう。犬猫を問わず、自宅に動物をあふれさせて、多頭飼いの崩壊現場にする人のことがよく話題になるが、その動物たちにはこよなく不幸でも、その方がまだ良心的でましかもしれないと最近では思ったりする。家の外で多頭飼いして、地域全体の人を猫嫌いにしてしまう、地域ぐるみの多頭飼い崩壊現場を作るよりは、まだしもましなのではあるまいか。

餌やりをするお宅にも、それなりの事情はきっとあるのだろうし、地域や周囲の環境の変化など、いろんな要素も関係している。私も対立や拒否だけではなく、それなりの協力や解決への提案もして来たが、年をとって体力もなくなりつつある今、それももう限界がある。

これについては、その内に、またもう少し説明したい。

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カツジ猫