気になってたんで
最近やたらと忙しいので、さささと書き飛ばしたものの、あとになって、きっと読んだ人、何のことかわからないだろうな、という話が、あっちゃこっちゃに残っています。そういうのを、取り混ぜて、三つだけでも、ちょこっと解説をば(笑)。
その1 下の「とんでもつながり」の記事の最後に、プロ野球のホークスの選手数名の名をあげて、儒教が理想的人物とするタイプの、どれにあたるか考察(笑)しました。もちろん私のただの印象、正確さは保証しません。くれぐれも。
ついでに言うと、儒教の用語の解釈の方も、かなり大ざっぱで適当です。説明のしかたも私の独断や偏見がまじるかもです。お許しを。興味があったら、検索などしてお調べ下さい。
儒教では、理想的な人物は「聖人」と言って、その特徴は「中庸」です。穏やかでバランスがとれて、判断や行動は正しくて立派だけど、すべてが自然で、無理をしないで、悪目立ちしない。波風を立てない。
ところで、儒教ではこの反対の最低の、箸にも棒にもかからない人間のクズは「郷愿(きょうげん)。「郷原」とも書くようで)」と言って、俗物で皆に好かれ、自分もいい人間だと思ってるけど、しんがなくて、ぐだぐだで、調子がよくて、つるつる手触りがいいだけで、つかみどころがなくて、いざという時はとことん何の頼りにもならん、最低のカス(このへん全部私の描写ね)です。でも、これ、読んでてわかる人もいるだろうけど、どうかすっと、「聖人」の「中庸」と似てるんだよねー。見間違えやすい、まがいもので、そこが恐い。もしかして自分もそうじゃないかと思うと、なお恐い。
だから儒教では、こういうカスのクズにだけはなっちゃいけないし、なりたくないし、うっかり評価したり認めたりしちゃいけないと警戒する。なので、一見「聖人」に近いように見えて世間にも受け入れられやすい、こういうタイプよりは、癖があって、つきあいにくくて、やっかいなところもある困ったちゃんの方が、よっぽどましで、尊くて、大切にしなきゃいけないし、自分も聖人になって「中庸」を保つのが無理なら、せめて、このくらいをめざして生きるようにした方がいい、という価値観があります。それが「狂」と「狷」です。それじゃ、そのどっちが上かと言いますと私にはよくわからんのですが、並べる時には「狂」を先に書くことが普通だから、こっちが少しは「聖人」に近いのかな。知らんけど。ちなみに江戸時代には「狂」がかなり流行して、だから、この文字も悪い印象じゃなく、むしろカッコいい感じ。「狂歌」や「狂句」や「風狂」なんかの語もそうですよね。
じゃ「狂」と「狷」はどうちがうかと言うと、ここまで今風に崩して説明してもいいかわからないけど、「躁」と「鬱」かもしれないし、「陽キャ」と「陰キャ」かもしれない。
どっちも、普通じゃないし、目立つけど、「狂」は騒がしいし、ぶっとんだことするし、変わったことが好きだし、ときどきやりすぎるし、つきあうと楽しいけどうざいし疲れることもある。独特で個性があるし、派手で華やかで、見てて飽きない。まちがいなく、あふれるような才能があり、既成の枠にはまらない。ずっこけたり、転げ落ちたりもするけど、立ち直りも動きも速い。明るくておしゃべりで人懐こくて無邪気で憎めない。子どもっぽくて感情の起伏も激しい。まだあったかな。
「狷」の方は一見地味。まちがいなく豊かな才能はあってもアピール下手で損をしがち。それに不満で、一人でくよくよいらいらする。しない場合でも、殻に閉じこもりがち。頭はいいし感覚は鋭いから、他人や周囲を見る目は厳しく、それを隠さず本音も言うから、敬遠されるが尊敬も信頼もされる。他者や周囲に流されず孤立も恐れないから、いざという時はこの上なく頼りになる。無口でそっけなく冷たく見えるが、本当は愛情豊かで人好きで、親しい相手には心を開くし、とても優しい。鋭く賢いようでいて、どうかすると、人が良くてだまされやすい。傷つきやすいし感じやすいから、愛憎どちらに関しても、執拗で根に持つ一面もある。自意識過剰な癖に、自信を持てずに攻撃的になったりもする。でも素直だから、意地を張ったりこだわったりして、道を誤ることはない。
正反対のようで、両者は共通点も多い。絶対に回りに流されず、自分の決めた生き方を貫く。人としてまちがったことをしない、気高い精神を持っている。強者を恐れず、弱者をいたわる。判断力、観察力、思考力にすぐれ、粘り強くて、我慢強い。これらは皆「聖人」の「中庸」と共通する要素だが、「聖人」は苦労せず自然にやることの多くを、彼らは個性の強さがバランスをこわしているため、ちょっと無理をしなければならなかったり、人を困らせたりすることもある。
こんなところかな。あとは、こんなのでも、見ておいて下さいな。他にもいっぱいあるはずです。
私はあえていうなら、ホークスの選手では(以下敬称略)柳町が中庸、周東が狂、牧原が狷に近いかと書いたのですが、くれぐれも自信があってのことではありません(笑)。川瀬も栗原も中庸のようで、狂や狷もまじってそうだし。新庄監督はまちがいなく狂で、小久保監督はどちらかと言えば狷かもしれないけど、王会長なんてひょっとしたら狂と狷がまじった中庸かもしれない。ぶるぶるぶる。
うわあ、長くなりすぎたんで、「その2」以降は簡単に。
その2 これはゆうべの「うしうしよしよし」の書き込みの最後の方で、「人の心や行動にことばが影響力を与えるなんて、そんなにすぐじゃない」と書いた後で、これもホークスの斉藤和巳二軍監督を例に出した件です。何でも最近ホークスの二軍では早朝の自主練習に行く選手が多くなって、確保していたタクシーでは足りず、グラウンド行きのバスを出すことになって、齋藤監督は喜んでいるとか。でもこれ、私ずっと以前に、若い選手の指導について、あの天才の名選手の斎藤監督が涙ぐましい努力をしているのを読んで、ちょっとしみじみしたことがあって、それからの、とっさの連想だったのです。説明不足で、すみません。
その3 これも最近の「ママ戦争止めてくるわ」という書き込みで、子どもを持つ母親にはかなわないという実感を、つい口にしたのですが、これは私らしくないと思われた方もいたのでは。実際そうなのですが、これは昔の、ある体験で感じたひとつの印象がもとになっています。あくまでも私個人の、あくまでも特殊な場合の実感で、「女性は子を生むのが役目」みたいな簡単なものとは、ちょっとちがうのではないかと思っています。だからこそ、自分の中で、消しも否定もしないで来ました。
大学院のころでしたか、ある店舗(多分、生協?)での催しで、環境問題か食品問題か、何かそんなテーマでエッセイを募集して、その賞品を贈る順位を決めるのに、膨大に集まった応募原稿の下読みをする仕事を頼まれました。もちろん最終選考は専門のえらい方が審査員をされたのですが、最初の大ざっぱな仕分けを頼まれました。その審査員の方は良心的な方で、一応私が仕分けした分の原稿にも皆目を通されたようで、「結局はあなたの評価と同じだった」と、おほめのことばをいただきました(笑)。まあ私も若かったし、学生のレポート評価と同様に、真剣に丁寧に熟読したのだと思います。
たくさんの原稿の内容は、今ではほとんど覚えていません。ただ、その全体から受けた印象は、今でもはっきり残っています。テーマや主催者にもよるのでしょうが、どれも誠実でしっかりした魅力ある内容と文章でした。生活に根ざした、作り物や借り物ではない、実感にあふれた問題意識や提言があふれていました。
中でも私が新鮮で驚いたのは、「子どもを持つ、ということは、これだけ文句なく前提もなく無条件に、未来を肯定し、それが続行して行くことを疑わず、ものごとのすべてを考え、毎日を生きることなのか」という実感でした。
多分、圧倒的に母親の書いたものが多かったのでしょう。もちろん、おたがいを知っているわけでもないし、何かの思想や団体に所属しているわけでもない。皆、千差万別の、さまざまな人生と環境。それでも、どれもが、地に足がつき、迷ったり悩んだりはしていても、ゆらいではいませんでした。今育てている、この命が、成長して築き、暮らす未来は、中断されない、崩壊しないことを確信している姿勢がどれも共通していました。そうでなければならないという決意とか、そうであってほしいという祈りさえもありませんでした。それほど、それは当然のこととして、表現の稚拙はあっても、そこはどれも同じでした。
私だって、社会的政治的関心は高く、自治会活動に参加し、革新政党を支持し、平和と民主主義を支持していました。人類の未来も信じ、それにふさわしい生き方や考え方をしていました。しかし、それは、あくまでも、意識的に維持し、鍛え、育てている感覚でもありました。どうかして気をゆるめると、すぐに世の中どうなってもいいとか、人間が滅びたってしょうがないとか、感じたり考えたりするところがいつもありました。それが悪いというのでもないけど、私の正義感も生きる力も平和への希求も人間愛も、どこか理性にもとづいた人工的なものだったと、その時初めて実感しました。そのことを、忘れたことはありません。
すべての母親がそうなのかは、わかりません。今の時代もそれが変わらないのかも、わかりません。ただ、私があのたくさんのエッセイから受けた、知らされたのは、世の中には私が理性や意志で築いて保っているものとは、明らかに違う、もっと自然でゆらがない愛情や正義感や良心が存在するのだということでした。
あくまでも、私個人の場合です。そして、私のような理性や知識や意志で構築された、こういう感覚には、またそれなりに長所やよさがあるのかもしれないとも思います。ただ、この前から紹介や引用をしているキャッチコピーや短歌やスローガンの数々を見るときに、ふと、その時のことを思い出してしまうのです。世界も未来も滅びない、そこをよりよいものにするために全力を常につくしていなければならない、そのことを大前提にして、すべてを作り上げ、生み出して行く生き方が、歩み方があるのだということを。
写真は、すっかり花も盛りとなった十六年目のシクラメンの鉢。枯れた葉っぱを取ってやらなくちゃいけませんねえ。
