人間らしい暮らし7-シュークリーム

太平記をあと少し残して読み出した阿刀田高の「トロイア戦記」、前にも一度読んでたと思うのだが、ヘレネをどう描いてたかと気になって読み返してる。特に新しい視点はないようだ。映島巡「オデュセイア」は、オデュセウスが女性だったという設定の話で、「アーサー王妃物語」や「新・三国志」とともに、男性が「実は女性だったら」との設定のもののシリーズとしても読めるのだが、これにもまた一応ヘレネは出て来る。授業ノート「トロイのヘレン」をそろそろ補充して、「ヘレネはどう描かれたか」というノートにできるかもしれないのだが。ついでに言うと、「キリストの目の色」を発展させた「キリストはどう描かれたか」のノートや、「太平記」も、それで気になって読んでいる「足利尊氏はどう描かれたか」というノートや「俊寛はどう描かれたか」ノートなどといっしょにして、「どう描いたか」シリーズでシラバス作れるのだがなあ・・・時間さえあれば。本当に、くやしい。

私は大学で専門的知識なんて教えなくていい、もっと総合的、学際的に軽いものだけ教えとけばいいという意見には反対だ。理由はまた後で言うが、それでは大学の役割は果せない。意味もない。
だが、そういう軽い面白い授業は、私は好きだし、アイディアは山ほどあるし、やれというなら、いくらでもやれる。だからこそ、その限界と危険もわかる。それでも実は、やりたくてたまらないところもある。
そう言えば、「トロイア戦記」も中断してこの数日読んでいる「インスマス年代記」も「インスマスはどう描かれたか」っていう一回分にはなるよなあ。

昔、怪奇小説のノートを作ろうと思って(たった一回分、90分の分にだぞ。昔は私もまじめだったのだ)怪奇小説を読み漁ったことがある(今ならそんなことしたら、1年分のノートにしてしまうだろうよ)。その時に読んだラヴクロフトの名はさすがにまだ覚えている。彼はたしか、炎天下に帽子もかぶらず歩いて熱射病で死んだのではなかったかと思うけれど、それはまったくの記憶ちがいかもしれない。何せ、ホラーの大御所、巨匠である。
その彼が書いた、あ~ら忘れた、インスマスの何とかの影、という怪奇小説をもとに、後世の作家たちが書いた、さまざまの「インスマス」ものを集めたアンソロジーが「インスマス年代記」だ。どの作品の水準もかなり高い。ということは、この数倍か数十倍の「インスマスもの」が実際にはきっと書かれているのだろう。

インスマスは海岸の小さな町で、ここに海から上がってきた魚と人間の混血の両棲類が住み着いて、人間の征服をたくらんでいる、という話なのだが、たまたまここを訪れた青年が必死で逃げ出すまでの、そのさびれた港町の描写は出色だ。特におどろおどろしくもなく、格調高いと言いたいぐらい落ちついた文体で、見知らぬ町の無気味さを描いている。小野不由美の「屍鬼」は山村の恐さだったが、これは漁村の恐さかな。
とどめとなる「落ち」の恐さもなかなかだが、これは「価値観の逆転」「視点の逆転」の恐さでもある。読者は足元をすくわれる。後代の作家たちの「インスマスもの」がうまいと言っても、このもともとのラヴクロフトが描いたような、根底の、深部の、スケールの大きい恐怖をしのぐものを描いた作品はない。さすがに大御所というべきなのだろう。むむ、これをテキストに使っても授業はできるのだよなあ。

センター試験は無事終わった。いっそ大ミスでも起こったら、こんな大変なものを二回やろうなどというとんでもない案は出なくなるだろうにと、ちらと毎年考えたりもするのだが、受験生の緊張した顔を見ていると、やはり間違いなく終わらせなければと思ってしまう。
私は主事をやってた間、本部に詰めていたから監督は除外されていた。それで、数年ぶりに教室に行って受験生を見ていて気づいたのだが、腕時計を二つ持ってきている人が増えていた。ひょっと一つが故障した時の用心なのだろうと思うが、前にはなかったことだった。

それにしても土日を休んでやっと体調を維持しているのに、それがなくなって、しかも朝から夕方まで緊張しながら立ちっぱなしでいて、翌日からまた仕事というのは、正直言ってたまらない。広い試験場で、受験生が何か用事があるかもしれないから、適当に歩き回っていたせいもあって、足のつけ根がこわばって痛く、このままではヤバイかもと思ったので、試験のおわった後、天神に用があって行ったついでに、足裏マッサージの50分5000円というのに入って見た。まあ、気持ちよかったが、何しろあまり疲れているので、どのくらい疲れがとれたのかの基準が、普段とちがっていて、いまひとつわからない。もうちょっと安かったら、また気軽に来てもいいが、5000円はちょっとなあ。と言いながら、やけになったら1万円のクレオパトラコースとかいうのを試しそうで不安だ。

その帰り、輸入雑貨の店に入って、キャンドルを物色していたら、お菓子のかたちのがいろいろあって、シュークリームのが実物そっくりだった。感動したので3個買った。400円と安かったし。
私の計画では、本物のシュークリームを何個か買って箱に入れて、その中にこのキャンドルを一つ混ぜて、「皆で食べようよ」と言って誰かのとこに持って行って、ぎょっとさせてやるつもりなのだ。どこに持って行こうかとか、本物を買う時に、いっしょにキャンドルを入れてくれと、お菓子屋の人に頼んだらいやがられるだろうかとか、あれこれ頭を悩ましていたら、昨日の朝のものすごく大事な会議を一つ忘れてすっぽかした。事務の人は、前の日の夕方にも私に念を押していたので、もうあきらめ顔だった。見限られてしまったのかもしれない。どうしよう。

セクシャル・ハラスメント防止委員会を拡充整備して、アカデミック・ハラスメント全体に対応できる委員会にしようという提案を、人権教育推進委員会からようやく学長に今朝、具申した(つまり、そういう要望書を持って行って、お願いをして来た)。副委員長と若い委員の先生が、いい資料をいろいろ集めてきてくれていたのを「整理します!」と言って、年末から放っておいてせっぱつまって、センター試験の前夜、ああ、こんなことはするもんじゃない、万全の態勢で臨まなくては受験生にも悪いと思いながらも、朝の4時までかかって資料をまとめて文書を作った。副委員長がセンター試験の間にそれをチェックして修正してくれて、試験の合間に打ち合わせして、何とか今日の具申にこぎつけた。学長は前向きに対処してくれそうだった。ふう。

だが、副委員長とも話しているのだが、こういう防止体制はもちろん厳しい監視や処罰も必要なのだが、その予防のためには、人権意識もさることながら、もっと人間らしい、余裕や楽しさを先生方が持てる職場にして行くことが、大切なのではないかと思えてならない。
大学改革が始まってもう10年近いだろう。自分の中でもそうなのだが、大学の、特に若手の先生方が疲れはじめ、目に見えない、耳に聞こえない、きしみや悲鳴が上がり始めているような気がしてしかたがない。これを何とかしないことには、セクハラもアカハラも、しょせん絶滅などできないのではないかとさえ思う。

そんなことを考えながら、台所で毎日、使い残しの大根を見つめていたら、新聞に「ぶり大根」の作り方が載っていた。最初にごま油でぶりを炒めて中華風にするとあるが、ごま油が切れてたので、すりごまをふりかけてごまかすことにして、ぶりの切り身だけ買いに行った。「今が旬」とかいう立て札がついて、きれいな大きなぶりがいっぱい売ってあったので、しめしめと買って帰って、さっそく作った。いや、美味である。あたためて、冷たいごはんと一緒に食べても幸福になる。そうか、今日、弁当にもつめて来たのだった。忘れないように食べないと。

何の会議とは言わないが、長くかかる会議の間に、こっそり山東京伝の「安積沼」と「優曇華物語」と二つの読本を読んでしまった。すでに若干、ふたつの話がごちゃごちゃになるほど錯綜した筋である。三太夫さんも言っていたが、馬琴とはまたちがう、不思議な面白さがあった。

この面白さは何だろう?
秋成と馬琴を比べて読むと、時代が前の秋成の作品の方が、今に近くて近代的な感じがするのが不思議なのだが、馬琴と京伝を読むと、三太夫さんは、たしか後者が新しい感じがすると言ってたが、私は馬琴の方が新しく感じる。それは、京伝の作品が、私が幼い頃読んだ大衆小説と似ている気がするからかもしれない。
馬琴は「教訓」「モラル」を打ち出し、はっきりとそれにのっとって、世界を構築して行く。京伝はそれがない分、「読者を楽しませる」サービス精神が至上とならざるを得ない印象をうけた。それはそれでもいいのだが、その結果どうなるかというと幻想的になって、リアルさが失われている。
でも、そこが変なので、馬琴のように作り話として徹底していない分、京伝の小説は実はリアルなのだ。その、とりとめのなさというのは。多分、京伝もそう思っている。それなのに、それが逆に幻想的に見えるというのは不思議だ。
京伝はリアルさ、本当らしさということを、どう考えていたのだろうかと思う。彼は私が「あまり上手すぎて、上手ということもわからないぐらい上手」というくらいうまい人で、黄表紙で変な話を書いても、うますぎて変に見えなくて自然な話に見えたりする。変な話を自然に見せるのが、とても上手いのに、自然に書こうとすると異様な話に見えてしまうのだろうか。ああ、うまく言えない。もう少し考えて見よう。いや、その前にもっと彼の長編を読まなければ。どうでもいいような会議、ないかな。
さしあたり後30分で人事委員会。これは全然、どうでもいい会議ではない。全力集中しないといけない。おお、その前に弁当も食べておかねば。

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カツジ猫