人間らしい暮らし9-太陽の似合う猫
昨日も今日も暖かい。庭ではパンジーや桜草が日に輝いてゆれている。近所の家の塀ごしに白く小さく梅の花が開きはじめたのが見える。
美しい季節だ。もともと私が一年の中で一番好きだった時期である。
それなのに、鉛のように心が重くなり、陽射しが明るければ明るいほど悲しくなるのは、二年前の三月の初めに死んだ愛猫キャラメルのことを思い出してしまうからだろう。陽射しが明るくなり、空気が暖かくなり、花が咲き始めるのにつれて、彼が弱って行き、死が近づいてきた日々を。
金色の毛並みが、太陽に映える猫だった。「お日様の似合う猫でしたね」と今でもしみじみ言って下さる人がいる。死んだ日も、命日も、その前後のどんより曇った日々とはうってかわって、太陽が輝き、世界中が彼の毛皮に包まれたような金色の陽光に満ちた。あいつ、根性で晴れさせたな、と笑いながら、光の中でいつも私の悲しみはつのった。
彼はただの猫なのに。
私の好きな、この美しい最高の季節に死んでくれたことを私は彼のために喜ぶ。開き始める花の中で死んだことは、彼らしいぜいたくで、私がしたわけでもないが、最後に彼に与えられた最高のプレゼントだった気もする。それでも、もし、どんよりとした冬の季節や、じりじり暑いだけの真夏に彼が死んでいたら、それはそれで悲しみに耐えやすかったのかもしれないと、ふと思う。暑さや寒さやその他の不快や苦痛が、悲しみの痛みをやわらげてくれたかもしれない。どうせ、どんな季節に彼が死んでいても悲しみは同じだっただろうけれど、この春の美しい光と風の中では、彼とすごした最後の日々の思い出は、ひときわ輝いて、胸を刺す。
それにしても、このところ、病気の話をよく聞く。大学時代の恩師の一人が、身体にしこりがあって入院手術したが、良性で、奥様ともどもとても喜んでおられるとの話をうかがって、ほっとしたのもつかの間、今度はやはり尊敬していた先生のお一人が悪性の腫瘍だったことを、ご本人の口からさばさばと聞かされて、何だかがったり落ちこんだ。
じわりと、敵が迫ってきているような気がする。次は自分の番かもしれない、と言うような。
とりわけ、やりきれないのは、そのあとの方の先生が、要職にあられて、十一月頃に身体の異変に気づかれながら「病院に行く暇がなかった」ということだ。一月の終わりに、自覚症状がひどくなってやっと行ったら、もう、命にかかわる状況と医者から言われたのだそうな。
健康管理がなってないとか、不摂生とかいう話もあろうけれど、その状況は私には痛いほどわかる。現にこの私も、二月中に手術後半年の検診に病院に行かなくてはならないのに、外せない会議や行事ばかりで、その時間がどうしてもとれない。もうこうなったらと思って、来週の会議を断固ひとつけっとばすことにしたが、相当な決意が必要だった。
皆が皆、そうだというわけではないが、今、少なからぬ先生方がそういう状況にある。それも、愚痴を言わずに責任を黙々と果たす人ほどが、ストレスが大きく、多分、心も身体も病むだろう。
人権教育推進委員会で今、セクシャルハラスメント、アカデミックハラスメントの問題ととりくんでいて、痛感するのは、もちろん、古色蒼然たる大学の非常識さが原因となっていることも多く、これとは絶対に戦わなくてはならないのだけれど、若い先生を中心とした、先生方自身のストレスを軽減して行かなくては、とりかえしのつかないことになりはしないかと思ってしまう。
学生や教官から今、私が訴えられている事例にしても、それをセクハラ、アカハラと呼んでいいか、どう処理するかは、この古狐の百戦錬磨の(言わせてよ)私すら、頭をかかえて叫びたくなるぐらい微妙で複雑である。
これを、たとえば若い教官が学生から相談を受けた場合(受けているにちがいないのだ)、どう考えてどう処理するかは、本当に苦しいし、迷い悩む問題と思う。
更に、若手の教官なら、この「評価」の時代の中で、自分の業績を重ね、それが学界にどう評価されるかは、私たち以上に(私たちの年齢以上に、私たちの時代以上に)切実で、不安で、ストレスを抱え込むだろう。
その上、授業の組み立てや学生の反応も気になるし(こんなの、「評価」されるまでもない、教壇にたてば、当然、気にせずにはいられない)、その精神的負担もバカにはならない。
そして、政府の公務員のスリム化とやらで、実際にどうなっているかと言えば、昔なら事務の人がしていた仕事の多くが教官の負担になっている。書類作りや学生への連絡、その他細かい神経を使う仕事の多くが若手の教官にも(時には、特に若手の教官に)与えられている。
このストレスの中で、セクハラやアカハラに走って何が悪い、などと私は言おうとするのではない。現にそういう言い方を私がすると、聞いた若手の先生は皆、まなじりを裂いて怒り、「多忙もストレスも、弱者を虐待する理由になどならない」と断言した。そうだろうか。自分自身については、私は自信がない気がする。
思えば、大学生の頃から私は、「社会的参加」「勉強」「趣味」を三本柱として、どれも決して手抜きをしないようにして生きてきた。それが私自身の自己評価・自己点検と言えばそうだった。大学院でも就職しても、自分のいる場所をよりよく運営するために、いつも周囲と考え、活動し、発言してきた。それは、研究室であったし、職場であったし、国だった。それが自分の果たすべき責任と思った。一方で、自分しかできない専門的な仕事で世の中に貢献したかったから、学問の方面で妥協は決してしまいと思った。さらに、その支えとなる自分の身体と心の健康のために、身近な人々を愛し、生きる楽しみを忘れず、特に映画や小説や創作などを楽しむことを死守してきた。私の中でこの三つは支えあう。どれが欠けてもうまくはいかない。
だが、先に述べた先生方を見ても、それ以外にも、この数年、どう見ても明らかに過労のために倒れて行く優れた研究者の方々を見ていても、自分はもうこの三本柱を死守することはできないのではないかしら、という思いが日々に強くなる。
人間の能力なんて誰も大してちがわない、とこの年になるとしみじみ思う。成功してる人や天才というのは、せいぜい運がよかったか、何かを踏みにじって捨てたにすぎない。全力投球して、人の倍も数倍も仕事ができると昔は実感したものだが、今ならわかる、それは何かに目をつぶって放り出していただけだ。
もう、この年になって、残り時間も少なくなって、自分が何を選ぶかをそろそろ決めなくてはならないのかもしれないと思い始めている。世界などどうなってもいい。日本などどうなってもいい。大学など他人などどうなってもいい。そういう腹のくくり方もあろう。学問などはほどほどにして、ごまかすことに専念し、わりきって、せいぜいリストラされないだけの、評価してもらえそうな仕事だけを選んでするという選択肢も。
それは不真面目だと言わないでほしい。評価や大学の選別がめざしているのは、そういういいかげんな研究者を育てることではないとも言ってきかせてくれないでほしい。私が「ほどほど」と言っているのは、たとえば、「ひょっとして、何か役にたつかもしれない」「何にもならないかもしれないが、それでも一応全部見ておこう」などと考えて、全国あらゆる図書館のあらゆる江戸時代の紀行や、ある作者に関する資料や文献を洗いざらい、一つ残らず、ブルトーザーでさらえていくようにチェックして行く、といったような、手間ひまかかってそのあげく「やっぱり何にもならなかった」「やはり、見ないで考えていた結論と、全部見たあとの結論は変わらなかった」というような、そういう学問のやり方はもうやめようか、ということだ。
私が大学院生の時から、必死の強行スケジュールで、全国を走り回り、飯を食う金も惜しんでコピーをとりまくり、調べつくした資料や古写本の多くは、論文を書く上で、ほとんど使えなかった。いわば、それだけの無駄が出た。私に限ったことではない。国文学の他の分野でも国語学でも、研究者は皆、そういった作業をする。駄目押し、念押し、疑いのかけらも残さない徹底的な調査をする。愚直で、執拗な、「やはりそうではなかった」「やはりそうだった」ということを確認するためだけに、あらゆる手間を惜しまない。それをしなければ学問でも研究でもない。
だが、短期間の成果を望むなら、それで評価されるなら、誰がこんなことをするものか。していたら、成果があがらないのだから、研究そのものが出来なくなるのだから。
私はかつて、古川古松軒の「東遊雑記」という紀行を調べていた。江戸時代のもので、紀行としては少しは有名で活字にもなっていて、全国の図書館に、写本が六十か八十かもう忘れたが、そのくらいある。
就職したての私は、この紀行の研究をするのに、ごく自然に、この写本を全部見ようと思った。もう活字があったのに、それを信じられないという要素は何もなかったのに、一応自分でもとの本を見なくてはと思った。その時点で考えれば、無駄な時間つぶしである。それでも私がそうしたのは、そうするものだと教えられていたからである。
そして、全国の写本を見て歩く内に、この紀行の写本には、三つの系統というか種類があることがわかった。それは一つの発見で、だいたい、それがわかった時点で、もう調査を打ち切ってもよかったのである。しかし、私は愚直でしつこいから、何の役にもたたないと思っていても念のためと思って、一つ残らず見て回った(実はまだいくつか見落としているのだが)。そして、その内、ある大学の貴重書でも何でもない写本の一冊が、他のすべての本とはまったく系統が違う、より原型をとどめたものであることを発見した。
私はそれで、論文を一つ書いた。それきりである。
江戸時代に書かれた、一つの紀行。それが活字にもなるほど内容が面白く資料としても価値があるからと言って、その紀行の、もっと原稿に近いかたちの、修正や削除もされていない本がただ一冊、ある図書館に残っていたことがわかったからといって、だからどうだと言えばそれまでだ。この論文で私は特に学界から賞賛もされなかったし、賞をもらったわけでもない。けれど私は満足している。ちゃんとした仕事をしたし、そのことがわかったのは、国文学のために日本のために人類のために、絶対によかったと思っている。
何かねらいがあったのでもない。予測をしていたのでもない。ただ、あるものは皆見ておこうとする愚直さだけが、この発見を可能にした。研究とか調査とかいうのはそういうものだ。私が注目もされず、賞ももらわなかったのはあたりまえなので、論文というものは皆多かれ少なかれそうやって書かれるのである。多くの研究者はそうやって仕事にとりくんでいるのである。
とはいえ、今の私ならさすがにこんなに不毛に見える調査はしないだろう。また、江戸時代の紀行には、皆このような不毛に終るかもしれない調査が必要だったからこそ、長い間、誰もとりくまなかったのだ。
学問とはそういうものだ。そういうことができる体制でなくては、学問研究は守れない。効率とは無縁、とは私は言わない。そこにはそれなりの効率がある。それを理解してもらえないのでは、学問研究は滅びる。すべてとは言わないが、ある種の知性もまた、確実に滅びる。
私がやめようかしらん、と思っているのはそういう研究のことである。
あるいは、私を愛してくれる家族、友人、学生を切り捨て、最低限しかつきあわず、映画や小説を楽しむのもやめ、仕事人間に徹してしまうか。
そのどれかを選ばなくては、生きのびられない状況に、自分が来ている気がするのだ。
これまでの人生で、こんな選択を迫られたことは何度もあった。今の状況がそれと比べて特に厳しいとは思わない。ただ、自分の年齢を考えたとき、残り時間が少ないこと、身体のことを考えたとき、昔ほど無理はできまいということ、それは確かに私を動揺させる。
そのかわり、悪知恵が発達してきているからまあいいのかな、とも思うのだが。
少し前に、学長選挙があった。今の方に続いて、まあ、よい方が選ばれてほっとした。その少し前に私は冗談で「学長に選ばれるかも」と言っていたら、早合点でおしゃべりの私の恩師が(江戸文学のとてもえら~い先生である)「板坂君は学長になったらしいぜ」と各地でいいふらし、私は東京の学会で後輩の数人に「学長になったんですか?」とひそひそ声で聞かれて、なに~っ!!!と泡を吹いた。「誰がそんなことを」ととっちめたら、「○○先生があっちこっちで言って回ってますよ」とのこと。
どなりつけてやろうと思って、そのあと会った時、「先生、何をとぼけたことを言って回ってらっしゃるんですか」と問いただしたら、敵はびくともしない真顔で「いや、こういう時代だからね、学長になれる人はなって、ちゃんとした大学を作るようにがんばらなくてはいけないよ。論文や研究なんて誰にだってできるんだから、そんなことより、なれる人はどんどん、学長や大臣になるべきだ」と逆襲した。「先生、研究者としての私を見限っておられますでしょう」と言ったら、わははははと笑われておしまいだった。
しかし、たしかに一理あるのである。三本柱の全部がどうせできないのなら、いっそもう、学長であろうとなかろうと、単に一教官としてでも、大学の今後、日本の教育の今後を真剣に考えて全力投球する仕事に自分を捧げた方が、論文書くより世のため人のためだろうか、とひょっと思ったりもする。
まあいいや。ぼちぼち考えよう。
すっきりした、まっ白いカラーの花が妙にほしくなり、先日、閉店まぎわのゆめタウンで、一本二百円のを奮発して三本買った。台所のガラスのつぼにさしておいたら、おととい来た友人が、それをじっと見て「今、私が好きになってる男性て、こういう感じの人なのよ」と悩ましげに言った。そうかあ。皆それぞれに大変なのだなあ。