人間らしい暮らし8-中核派

先週だったか、二時間めの授業で「自由を描いた文学」について触れていて、「日本が自由と思ってはまちがいかも。テロ事件に関する最近のマスコミの報道なんて、アメリカの報道の引き写しで、独自の見解が何もない」などと口走って、その後、中庭に出たら、白ヘルメットの「中核」と書いた若者三名が「福岡教育大学の学生の皆さん」と演説を始めて驚いた。「アフガンにおけるアメリカの」などと言っていて、え、何というタイミングだ、私の手のものと思われたらちょっと困るかな、などとしょうもないことを思いながら、事務室に報告し、学生や事務官ともめるようなら仲介に入らなければならないかなと思って見ていたが、中庭で演説する許可を得ているのか、学内の者かなどと事務の人たちや自治会の学生たちとやりとりした後、昼休みが終わったので三人は引き上げて行った。
福岡での反戦集会への参加を呼びかけに来たらしい。学生たちは遠巻きにして「わあ、卒業までにあんな人たちを一度見られてよかった」と、のどかなことを言っていた。

あまりにも昔ながらのやり方に、これでは今の学生には訴えられないだろうと思ったものの、こういうかたちではない、何らかの「テロと戦争に反対」という運動は私たちもするべきなのではと思ってしまって、気持ちは妙に複雑だった。

その次の時間は、大学評価についての講演会だった。大学の執行部が熱心に呼びかけたこともあって、参加者は100名近く大教室を埋めていた。
講師の先生は評価についていろいろ詳しく、また活動もされている方で、「うちの大学ではこんなこと話せませんが」とかうちわ話っぽくめりはりをつけたりされるのが、何かセミナーのようで面白かった。でも、最初に「高いところから失礼します。いや、先生方を前にすると、自然にこういう言葉が出ますが、これをさらっと学生に言えるようになったらいいのでしょうが」とおっしゃったのに、私はびっくりしてしまって、私はたかが同僚の教職員に、いやたとえ大先生でも「高いところから失礼」なんて思い浮かびもしないぞ、で、学生にはついいつもぺこぺこして、大抵、教壇から下りて話してるし、授業の最後にいただくレポートは「ありがとう」とお礼を言いながら受け取らないと落ちつかないぞ、それは普通のことなんではないのか、と思ったのがずっと尾を引いて、あとの話をお聞きするのが上の空になった。

そのせいか、講師の方のご希望とは正反対のことばかりが頭に残ってしまった。たとえば、どこか外国(アメリカかイギリスか)で、ある評価機関が、著名な大学だか図書館だかにくそみその評価を出したら、評価された方が大憤慨して、異議を唱えて抗議し、その評価機関の権威がゆらいでいるという話。また、これもどこかの外国のしかるべき大学だか機関だかに話を聞きに行ったら、評価がうまく行ってなくて、そこの人たちは沈んでいて暗くて、評価をこれからしようとしていると言ったら「やめなさい」と言われた、でも、そうも言ってられないから、やっぱり三年ぐらいは続けないと、ということでお願いしたら、ようやくいろいろアドバイスをしてくれたという話。
前者は「そりゃそうだろうなあ」と思い、後者は「やっぱり」と思った。

それにしたって、わざわざそんな話だけ覚えておくことはないだろうと言われそうだが、実は、この二つの話だけが妙にリアルで、他の「なぜ評価が必要か」「どう評価するのか」というお話は、まあ、これからのことだから、やむを得ないのかもしれないが、大変抽象的で、具体性や切実さが、その二つの話ほど感じられなかったのである。

特に、前の方の話だが、これは私がかねがねとても不思議に思っていたことだった。
評価機関が大学を評価するというのだが、何であれ、評価というものもまた評価されるのであって、淀川長治さんやミシュランの五つ星などが、それなりに信頼されて権威を持つのは、長い蓄積の中で、「あの人の評価はまちがいない」という信頼が生まれて来た結果なのである。
以前、本学の文芸部の掲示板に「文芸誌批評家」とかいう方からの投稿があり、「ここの文芸誌は程度が低い」ときっぱり断じたその文章に実は私は大笑いした。私は本学の文芸部の雑誌が程度が低いとは思っていないが、それはまた別の問題で、その時ものすごく面白かったのは、いきなり「○○批評家だあ」と言って大上段に切り捨てれば、それはとにかくかたちだけは一つの権威になるという、そのスタイルを、この方がとった心理だった。それをぜひともうかがってみたいものだと思いつつ、あまりいい趣味でもないと思ってやめたのである。

大学をさまざまな面で評価することは必要だろうし、それはたしかに今までしなさすぎた面もある。だが、それはまた、さしあたり必要ではなかったという事情もある。
少なくとも、受験雑誌などが近年、各大学のキャンパスの綺麗さや恋人のできる可能性などをランクアップしはじめたのは、そのような情報が求められはじめたからだったろうし、その中には、先生との親密なつきあい(セクハラではなく)ができる程度などのランクもあって、こういうのが自然に発展して、その内に面白い授業とか、演習の充実度とかの評価も加わっていけば、やがてはそういう権威ある評価の基礎にもなるのかなと私はかすかに期待していた。そういうかたちで受験生に情報が与えられ、大学どうしが切磋琢磨していくのは、それなりに正しいと感じていた。そういう評価が定まっていくのには、ある程度時間はかかるだろうけれど、それだけ確実だろうと。

大ざっぱにはそういう評価はイメージとしては、すでにある程度ある。東大とか京大とか早稲田とか慶応とか青学とか明治とかいう時に、人々の頭の中にはあるイメージがある。それは一朝一夕にできたものではなく、長い時間をかけて築かれ、また単純に上下優劣をつけられる種類のものではない。そういう情報であってこそ、受験生も自分の適性に合わせて選択することが可能になる。

最近さかんに言われている大学評価に対して私が「できるの?」とけげんに思ってしまうのは、そのように、他のどの仕事でもそうであるように、信頼は長い実績をかけて築かれるもので、いくら政府のお墨付きの機関でも何でも、蓄積や実績がまったくないことをいきなりやって権威ある存在になることなど、とても無理だろうということだ。体操競技の採点や通信簿の評価は、マニュアルと伝統があるからやれる。これまでまったく空白といっていい分野をいきなり大きな権限を持つ存在にしようとしても、危険とか無謀とかいう以前に、できるはずがなかろうと私は思ってしまう。

だから結局、論文の数とか、就職率とか、数字や数量での評価になる。だが、数字や数量は客観的に見えて、非常に恣意的にもなり得る。
手っ取り早いところで言うなら、私が論文を書こうと思ったら、同じ内容で同じ努力をして、一編にもできるし十編にもできる。それでなくても、何だか最近の若い研究者たちの論文を見ていると、「この二、三本分の内容、昔の私なら一本にまとめたなあ」と感ずることが多い。でも若い人を責める気にはなれない。数で業績が評価され、就職が決まる現状では、それはしかたがないことだろう。この傾向はきっと今後ますます強くなる。それを学問研究の発展だとは、私はとても思えない。それでなされる評価が、どれだけ大学や個人の能力の判断材料になるのかも疑問に思う。

そして、こういう数量で評価してランクをつけても、受験生や社会が必要とする情報とどれだけなり得るのだろうか。受験生に本当に必要なのは数量などに換算できない、その大学の雰囲気や特色や学生気質と自分との相性ではないのか。評価とランクづけが、自分が行く大学はランクで全国10番目とかCランクとか教えてくれても、いったい何の参考になるのだろう。大学も受験生も国民もすべてひとつの基準に従って、長い長い途方もなく長い一列に順位づけして並べてしまうことが、個性ある大学や人間作りに貢献するとはとても私には思えない。

などと考えながら聞いていたせいで、最後に司会者が「何か質問は」と言った時、思わず手を上げて、とことん場違いな質問をしてしまった。「私の教え子が最近、疲れて、十年ほどつとめた中学の先生をやめた。だが私は彼女が、登校拒否の生徒の家に毎日行って深夜まで話し相手になっていたことを知っている。あるいはその結果、その生徒は十年後か二十年後にバスジャックをするはずだったのを、しなくなったかもしれない。しかし、彼女がそれをくいとめたことは表には現れず、評価される対象にはなりようもない。こういうことをどのように考えたらよいのか、いつも悩む」という質問で、こんな答えようもないことを聞くのが私の性格の悪さだろう。
講師の方は立派な方で「ものすごい質問をいただいて」とフォローしながら、「自分は授業で学生に、課題として出したことしか評価はしない。それ以外は見ない。その点、冷たいかもしれない。だが、課題以外のことをしゃべらないかというとそうではなく、学生がどううけとめたか検証はできないが、他にもいろいろな心がけとか希望とかを教えている。それは結果を計れないが、やはり言うようにしている」と、まっとうに答えて下さり、私が「実にその通りで、私たちは皆、評価されない、しようのない部分でも教えたり、研究したり、仕事をしている。それをする余裕がなくなって、評価されることだけしかできないようになると、十年、二十年後にきっとつけが来る。そのような余裕の部分を残しておかないと危ないのでは」と言うと、「賛成です。そういう点では、やはり大学や教育をよく知っている人が評価するのでなくてはいけないだろう」とおっしゃった。

まったくもう、後で他の先生がたとも話したが、私は自分の仕事の中で、目に見えない、表にあらわれない部分を評価してくれなどと言わない。それが百年後の天下国家のため、子どもたちの未来のため、学問研究の発展のためとひそかに信じて私がこそこそしている仕事を評価してくれなんて言わないよ。まったくの無駄骨になるかもしれない、それは私にだってわからないのだからね。でも、せめて、そういうことする余裕だけは持たせておいてよねと思う。
私は、人の目に見える、評価される部分があると、それと同じか、それ以上に、目に見えない部分で何かをしていないと不安でしょうがない。水面に出ているのはいつも氷山の一角である生き方をしている。だから、表に見えている部分は手抜きになったり怠け者に見えたりする。それはそれでいい。怠け者とは手抜きとはそもそもそういうものかもしれない。
だから、怠け者と言われてもいい。ただ、そういう生き方をできるようにしておいてくれないと、絶対、世の中だっておかしくなるぞ。評価できない、しようもない、誰にもわからない仕事が限りなくつもりつもって、支えられている部分が、この世界にはあまりに多い。それを全部、見ることができて、評価することができるなんて考えること自体、大かんちがいの傲慢だ。そんなことができるのは、いたとしたらの話だけど、神様だけだろうって。

私がこんなクダを巻いてたら、絶対に「だから、そこまでは評価しようとしてるんじゃない。そんな大げさな話じゃない。一つのめやすとして、あくまで一つの基準として」とか、誰かが言い出すんだよねきっと。上等じゃないの。ぜひそういうことにしてほしい。

不可能なことは定着しない。完全な評価なんて、結局その評価主体に不信感を招いて権威とならず無視されるだけだ。そういうみじめなことにならないためにも、程よい、限界をよく知った評価の線というものを、ぜひとも意識してほしいと思う。それなら少しは役にたつこともあるかもしれない。ひょっとしたら。

その日はその後、人権教育推進委員会を暗くなるまでやって、セクハラとアカハラに関して学内に配る文書の推敲をした。これ、今日までに私がまとめてしまうはずだったのだが、何やかやでできてない。
二つの出版社から校正が届き、別の出版社から出版の話が舞い込み、「太宰府市史」はあと十日であげると編集部に大見得を切り、手術の後の検診と、胃腸のカメラの検診と、歯の定期検診と、猫の予防注射に行かねばならない。卒業論文も読まなくてはならないし、レポートの採点もしなくてはならない。庭の草ものびはじめたぞ。どうしてくれよう。

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カツジ猫