人間らしい暮らし10-連休

◎連休第一日は

まあ、29日からということで考えると、
庭の木をのこぎりで切り、親戚の買い物につきあい、猫の汚した部屋をかたづけてあっけなく終わりました。

昨日は九大に資料を見に行って、母に母の日のプレゼントを買って、ついでに博多大丸のカードを作って、庭の草取りをして、これまたあっという間に終わりました。

それでも幸せ、休みだというだけで何と心がいやされることか。(笑)つくづく私は仕事が嫌いなのらしい。

ところで、「にゃ王」に登場しているグレース猫が三日前から脱走したきり、帰ってきません。 このごろは私ともすっかり仲よしになり、毎晩べたっとくっついて寝ていたし、部屋もあちこち開け放して、どこへも行けるようにしてやって、ごきげんだったのですが。

夜、時々脱走しては翌日満足そうな顔で戻ってきてたので「またかよ」と思ってたのですが、今度はちょっと長いので心配。どうも、半外猫の先住猫たちに追っ払われたみたい。しかし、それでいなくなる根性のやつとも思えないのですが。ともかく、しつこい、あきらめないやつだったので。

グレの毛は、ロシアンブルーもどきに表面だけがうっすら白く、霜が下りたような、粉をふいたようなきれいな毛並みでした。(過去形にしてはいかんよな~)でも、顔はかわいくないことはないのですけど、寝ている時など、老人のようにくしゃっとしていて、最近よく行くイタリア料理店の水槽に、でか~いアロワナといっしょに入っている、水槽の汚れをとる、お掃除屋さんという変な潜水艦みたいな魚の顔によく似ていたのです。もしいなくなったら、あの魚見るたび思い出すだろうなあ。

玄関で張ってて、他の猫が来たら追い返しそうにしている先住猫のリーダーのシナモンを、しょうがないから部屋に入れてやってます。彼女大満足でお利口にしています。いや、これが普通で、グレが悪すぎたのですが。

それでも、昨日と今朝と、近所をかなり遠くまで、ずっと探しに出かけました。キャラメルが死ぬ前に抱いて散歩させて以来行ったことのない小道や裏道は四年前と同じ春の花と草であふれていました。大きな声で呼んでまわってやったけど、結局見つからず。まあ、しっかり大人になってたし、あの根性ならどこでも生きて行けるだろうけど。

それで、今日はまた少し早く帰って、屋根の上から切った木の枝を、屋根にそのまま放り上げてあるのを、ごみに出せるようにのこぎりで切ります。
何だか、殺人のあと死体をポリ袋に入る大きさに切ってく気がせんでもないが。 かんコーヒーと本でも持って、読んだり飲んだり切ったりしながら、夕方まで屋根に上がってようと思っています。

うむ、論文と書類と翻刻と構成計画とあとまだいろいろあるのだが、さしあたりは、雨のふらない内にするべき仕事をかたづけるとしよう。

◎今日は朝から静かに雨がふっています。

実は昨日から雨ということで、屋根に登って木を切っていたのですが、案外なかなか雨がふらない。屋根の上にあおむけに寝転んで空見たりして遊んでましたが、ふと見下ろすと、隣りの崖に雑木がたくさん生えていて、あれを根っこから切っておけば、枝を切る必要も当分ないな、と思ったものですから。

見るからにもう、まむしのいそうな崖におっかなびっくり長靴はいてよじのぼり、子どもの腕ほどの太さの木を十数本切り倒してきました。
何しろ足場が悪いので、身体をよじり、足をふみしめ、アクロバットのような姿勢をくりかえしていたのが思わぬストレッチ体操になったかして、体調がいいの何のって。

それでも雨はまだ降らない。切った木をひきずり落として、ともかくこれで梅雨になっても陽が照っても、当分は木が育つことはないから大丈夫と一安心して、大学の研究室に片づけに来ましたが、こっちはなかなかはかどらなかった。

何せ、授業ノート作りに書類書きに翻刻に…う~っ、優先順位をつけていたつもりなのになあ。さしあたり「平家物語と現代」という本の構成を考えていたのだけど、少しだけやると、もう疲れて頭の中が反応しなくなる。こういう時のいいリフレッシュの方法って…そうか、DVDを見るって手があったなあ。

グレイス猫はまだ帰ってこない。もうきっとどこかで飼われてるんだと思うことにした。一応、連休明けに保健所に行って、保護されてないかさがそう。
シナモンはおとなしくベッドで寝ていて、私が近づくと、くりんとひっくりかえって甘えて見せる。首輪が古くなってたので新しいのを買ってきたら、これがゆるゆる。それを平気ではめていて、はずそうともしないこいつも大物だ。今朝、千枚通しで穴をあけて、よい大きさにしめてやった。

私は昔から、退屈と同じことの繰り返しが大嫌いで、「同じ拷問うけるなら、今日は水責め、明日は火責めと目先が変わる方がまだ耐えられる。毎日鞭打ちとかなんて、その繰り返し自体が拷問だ」と罰当たりな冗談を言ってたことがある。
それで、最近何が不愉快か考えてみたら、人とけんかしたり対立したり見限ったり別れたり腹を立てたり軽蔑したり憎んだり、そういうことの数々が十年ほど前から完全にマンネリ化してるのに気がついた。

一番深刻な、愛する、親しい関係の人との別れではいつも、苦々しい思いをこめて、自分の限界も確認しつつ思うのが「どうして信じてくれなかったのだ」ということだ。それは、状況は複雑怪奇だし、問題は微妙だし、私の態度はあいまい微妙かつ異色ではなれわざでわかりにくいだろうけれど、でも、私を理解したとか好きだとか信頼しあったとかいう関係が少しでもあったなら、私の強さと良心と賢さを、もっと信じてくれなかったのか、と。
せめて、なぜ、はっきり私に聞いてくれなかったのか。私の真意を。自分の疑いを告げて、私の真意を。
でも、責められない。結局は私自身がそれだけの人間だったってことでしかないのだから。
私はこういう関係の人とは二度と心を近づけない。また、肉体も近づけない。

そうならなかった人ももちろんたくさんいるし、私がまちがわないということではなく、深いところで私を信じて「何があっても、あなたはあなただ」と思ってくれている人はいるし、そういう人とはずっと会わなくても連絡がなくても、何の不安もないけれど、いやむしろ、私がとても楽しいのは、そういう関係はこれまたいろんな新しいかたちが生まれて、本当に飽きないのだけれど。

それほどにも深刻でない、うっとうしい人との関わりで傷つくのは、これまたほぼ完全にパターン化していて、「あんたはプライドってものがないのか」「あんたのことばがどれだけ人を傷つけたか何をこわしたか自覚がないのか」「よくもまあ、ぬけぬけと」「どの面さげて」という言葉で象徴される。
一方的にせまられる。結局はその人の宣伝と遊びのために、自分の世界を壊される。拒絶すると凶暴化して、いかに自分が被害を受けたかを声高に主張し、こちらを傷つけようとする。
学生であれ、誰であれ、私はこういう指摘や拒否をこちらが告げた時に、泣いたり逆上したりした人間を絶対に以後は対等に話のできる人間と認めない。そういう指摘や拒絶は、こちらもそれなりの苦しみや痛みに耐えてやっているので、そういうことをさせたことそのものを恥じ入り、苦しむのがまっとうな神経と思っているから。
もちろん、学生の場合には仕事だからきちんと指導し卒業させる。研究者や社会人になれば、きちんとつきあう。しかし、それ以上の関係を持とうとは思わない。

それでも人間は弱いものだから、そういうことをしてしまうこともあるだろう。だが、私ならもう二度と、そのような相手に対して前と同じ関係を結べるなどとは思わない。結びたいという気持に第一なれない。自分の吐いたへどを食べる気になりますか?そんなに醜いことをしておいて、私との関係を傷つけておいて、もう二度とそれには触れたくないと思いませんか普通だったら?

ところが、この数年間、そういうことをしておきながら、何事もなかったように前と同じように近づいてくる、あるいは前と同じようになれると思っているらしい人たちに、時々会う。
この感覚が私はまったく信じられない。結局、私に対してそれほど失礼なことをしたと思っていないのだろうか。私に対してしたこと、言ったことを私がそろそろ忘れたころだと思うのだろうか。

あるいは自分にとても魅力があるから、そういうことをいくらしても許してもらえると思っているのだろうか。まさかね。
私は、こういう人たちの能力や才能は、いくらノーベル賞とろうがアカデミー賞とろうが信じません。こういうことにいいかげんな人に何か真実に近いものが生み出せるとは思えないから。しかしまあ、それは私もまだ世間知らずだから、こういう人でも偉大な仕事はするのかもしれない。他人には魅力があるのかもしれない。
だから、存在はもちろん否定なんかしません。いて下さい、活躍して下さい、有名になって下さい、幸せになって下さい、ただ、私には近づかないで。私と、私の世界とに近づく以上、私に拒否され評価される危険が生じるのはしかたがないと思ってほしい。当然のことでしょう、それって。私も、私の世界も、有能なあなたが全力投球して命をかけるほどのものじゃないかもしれないけど、その程度にしかこっちのことを思ってないあなたに、いいように蹂躙されるほどつまらないものとも私は思っていないんですから。

私はしつこくて変なところは記憶力がいいから、されたこと、言われたことは基本的には忘れない。自分もそのつもりで行動し発言している。それを何度繰り返しても、聞かなかったように、なかったことのようにふるまわれると、壮大な時間の無駄をさせられたと感じる。若い時はまだそれでも、それなりに面白かったような気もするが、最近とみに我慢できなくなったのは、老い先短いと実感しはじめたせいもあるかな。

しかしまあ、一番の問題点は何かというと、そういういいかげんな気持ちで私だか世間だかとふれあおうとしてる人たちって、まず絶対に私のこんな長い文章読まないだろうな。まあ、そう思ったから書いたんだけど。(笑)

◎しばらくお天気続きでしたが、今日はまた雨ですね。

連休に庭の木を切りすぎたのか、田舎のごみためのような家の掃除をしすぎたのか、ついでに自宅のごみもわんさと処分したせいか、ものすごく疲れて何もやる気がしない。
案外、このごろ夜は早く帰って、夜中前には寝ることにしたせいかもしれない、単に。
私は睡眠時間3、4時間で半分死にかけながら生きている方が元気なのかもしれないと判明。

ところで行方不明になっていたグレース猫だが、連休明けにまあ念のためと思って宗像保健所に電話をかけてみた。とても穏やかで感じがよくて、ああ、動物たちもこういう人に最後の世話をしてもらえるんだったらいいなあと思うような方が出て来られて、「子猫は何十匹も受け取っているし処分もしたけど、成猫はこのところ来ていない」とのこと。「でも交通事故に遭ってたら、ここは係がちがうので」と教えてもらって、そっちにもかけてみた。
そうしたら、「30日の朝に、三郎丸の踏み切り前の何とか装飾となんとかクラブの店の間の歩道に交通事故にあった猫の死骸があってかたづけた」とのこと、「あの~、色はわかりますか」と聞いたら「それは記録に残ってなくて・・・」との返事。
やれやれ、それじゃあいつかな、5月の30日が命日になったかと思って、それにしても、あの霜降りみたいな灰色の丸っこい前足をもう見られなくなったとはとか思っていたら、10日の朝だったか明け方に、シナモンとベッドで寝てたら、あの独特のうぎゃ~んというしわがれ声がして、玄関に出て行ったら、けろりとした顔でグレース猫がかけこんできた。かれこれ十日行方不明だったというのに、やつれてもやせても汚れてもけがしても死んでもいなくて腹が立つったらありゃしない。えさをむしゃむしゃ食べて、ベッドに上がろうとしてシナモンに怒られ、殊勝に下駄箱の上で丸くなって一晩すごしたので、ちょっとかわいそうに思ったのもつかのま、次の夜はシナモンを追っ払ってベッドに上がりこんだ。
以後、二匹の私を巡る攻防戦が続いている。はあ、この疲れはそのせいもあるか。

先日、学生と小倉のリバーウォークに「オセロ」を見に行った。イギリスの劇団で、イヤホンガイドも借りずに見たけど、なかなか面白かった。イヤゴーがハンサムなバージョンではないので、ちょっとつまらなかったが、まあそれはそれでうまかったし、オセローはローレンス・オリヴィエの演技をかなり使ってたけど、堂々としてセクシーでもあった。デズデモーナがそれなりにかわいかったのもよかった。
しかし一番笑ったのは、これを時代錯誤の現代風に味つけするのはまあよくあることで珍しくはないけど、キプロスをイラク(中東)にするとはね~。ヴェニスの支配者公爵たちの会議はもろ大統領の会議風だしさ。そりゃたしかにまあ、キプロスだけどね~。
鉄条網の兵営のセットで、黒いベールかぶった女性たちがあちこち行き来して、オセロの軍勢は進駐軍・占領軍風なんだもの。
いや~まあ、それでちゃんと話ができるんだからシェイクスピアも偉大っつうか。

それで、最近問題のイラクの捕虜虐待だけど、「まさかそんな、信じられない」と思えないところがいやだなあ。何よりも。
だって、能天気なハリウッド映画見ても「ショーシャンク」とか「ザ・ロック」とか「スリーパーズ」とか、その他もろもろ、ちらほらと、「刑務所では男性に対する強姦なんてあたりまえ」みたいな文化を何となくこっちも刷り込まれていたもんね。そのことに気づいて妙に腹たった私はおかしいんだろうか。そういうこと普通に語る国とおかしいとも思わずつきあってたのかよ、あ~もうって感じで。

もちろんその背後には「スリーパーズ」見た時、「女性のレイプされる映画は抗議といっても興味しんしんが透けすけに見えるような映画、山ほど作っておいてからに何だよこの少年レイプへの異常なまでの気のつかいようは」と心のどっかで眉をひそめた自分がいたり、ひんしゅくは承知の危険発言すると、女性兵士が男性捕虜を暴行してる写真を見ると、権力と武器を持てば性差は意味ないって証明だよなという感想を持ってしまったりもする。
いやもう、このへんの複雑な心境は一口には言いようがない。「散文家たち」の続きでも書こう。

がしかし、一口に言える部分で言うともちろん、こういうことは許しがたい。こういう文化しか輸出できない国や、それに手を貸す国の将来はまったく暗い。暗いといえば年金問題も暗いが、それはまた明日にでも。
ともかく、昨夜、身近な、大変世話になってる老婦人がテレビ見ていて「刑務所に入ったら虐待されるのはあたりまえよねえ」と言ったのには、久しぶりに他人に対して殺意を覚えた。殺すわけにもいかないから、帰ってみたら玄関にきていた「自衛隊何とかホットライン」って、例の人質の渡辺さんをイラクの報道のために送り出した市民団体からの寄付の依頼にいつもは1000円ぐらいしかしないのだけど、思わず3万円と振込用紙に書いてしまった。まったく私も狂っているよ。しかし狂気には狂気とことわざにも言うではないか(言わないか)。

気まぐれに植えていたイチゴが玄関先でちゃんと赤い実をいくつもつけていた。ナメクジが食べていたが、追い出して残りをかじったら、甘くておいしかった。カーネーションも育ちにくくて無理とずっと思っていたが、去年あたりからよく咲いて、赤やピンクの花がぎっしり咲いている。
あ~、週末は少しは自分の勉強をしたい。

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カツジ猫