映画と戦争太陽の帝国
舞台は日本軍に支配された中国の上海、主人公はそこに住んでいた裕福な英国人夫婦の幼い息子。避難の際に雑踏の中で両親にはぐれた少年は放浪し飢えと戦い、大人達とともに日本軍の捕虜収容所で終戦までを生き延びる。
原作の小説もそうだが、この物語全体に幻想的な悪夢の様な雰囲気がある。それは主人公の少年にとって、親を失い生活の場を失って大人でも苛酷な状況の中で生きて行く事が決して悲惨にも不幸にも見えないからだ。
戦争が常に悲惨で不幸ならもっと話は簡単だ。しかし実際には、戦争には幾つもの魅力がある。その一つは天災でも同様だが、従来の秩序の破壊だ。「ホーム・アローン」の主人公の少年が自宅に一人になって淋しさや恐怖と共に、普段は禁じられている事を片端からやれる喜びに浸るのもそうだし、反戦映画の代表の様な「火垂るの墓」でさえも空襲下の空き家から物を略奪する少年の快感は描かれていた。
「太陽の帝国」はたとえ苛酷で悲惨な状況でも、少年が大人に束縛されず、自分の勇気や才覚で生き抜いて行く快感を伝える。それは何の束縛もなく何の保障もない故に不安定で無気味でもある。
この少年は両親に庇護されて恵まれた状態にあった時でさえ、より不幸で劣った環境にある人々へ同情も思いやりも持たない。一方でまた彼は敵であり支配者である日本軍に反感や敵意を抱かない。それは彼の個性か子どもの持つ共通の幼さか、どちらとも言えない。
彼にあるのは生きるための獣のような知恵と勘だけだ。彼は他人、特に自分と無関係な他人の痛みに関心がない。守ろうとする生き方もない。愛らしい外見と不幸な状況にも関わらず、これ程見ていて共感や愛情を感じられない少年も珍しかろう。だが、それは状況がそれだけ苛酷であるからだ。大人ならそれまでの人生で養っていて容易に捨てられない道徳や倫理や正義感を、生きるためにためらいなく少年はすべて捨てる。
死んでゆく人々、破壊される暮らし。あらゆる悲劇が描かれながら、それは全て夢の様に異様に美しい画面となる。少年の毎日もまた、見て居ると、どんな悲惨な日々でも当事者はこの様に割と平気で生きるのかと奇妙な安らぎさえ生まれる。それでいて、それは不快で恐ろしい。少年が生き生きと友情や夢をその中で育む程、何か異様なきしみにも似た不協和音が響いて来る。
戦争は最初と最後だけが危なく、そこさえ乗り切れば後は何とかなると登場人物の一人は言う。秩序と平和の世界が混沌と破壊の世界と入れ替わる時は最も危険だが、いったん安定すればやって行ける。それは戦争も平和も同じだろう。そして、戦争を生きるとはこの少年の様にちぐはぐな世界観と近視眼的で刹那的な生命力を発揮して毎日をやり過ごす事に他ならない。
戦争の中では大人達も皆こうなる。そして平和の中でもどうかすると人はこうなる。戦争と平和を問わず「ただ生き延びる」という事が人をどれだけ破壊し蝕むか。決まり切った図式ではなく少年の目を通して世界を見る事で、この映画はそれを伝える。