映画と戦争ノーマンズ・ランド

近年のヨーロッパの戦争についての知識は少なく、ボスニアとセルビアが対戦していた事もよく知らず、ボスニアの兵士が軍服の下に派手なTシャツを着て居るのは、当時ボスニアに軍隊がなく市民が自分のシャツを着て参戦したからだという事も、特典映像の監督のインタビューで初めて知った。
監督はボスニアの人で戦争にも参加して居るが、この映画はどちらかの国に肩入れする内容ではない。

前線に赴くボスニア軍の兵士たちが夜中に道に迷って両軍の中間地帯に出てしまう。夜が明けて敵陣から攻撃された彼らは壊滅状態で、放棄されていた空の塹壕に逃げ込む。
生き残りを確認するため、セルビア軍の前線から古参兵と新兵の二人が塹壕に向かう。生存者が見つからなかったので古参兵は敵の死体の下に地雷を仕掛ける。

以下この塹壕の中での、実は生存していたボスニア側の兵士とセルビア側の兵士の、ほんの数人の対立が延々と続く。まるで密室の舞台劇のような緊張感と緊迫感で、前衛劇並みに象徴的なのに、実戦の体験者ならではのリアルさがある。
置き忘れた銃、落としたナイフ、ちょっとした気の緩みや感情の爆発が次々に形勢を逆転させ、思いがけない事態を発展させる。黒澤明の映画を思わせる、ゲームにも似た面白さは、真剣になればなる程、滑稽さも生まれる。

戦争は馬鹿馬鹿しい。どんなに高尚な言葉で飾っても、所詮人が人を殺すと言う点で根本的に愚かな行為だ。「マッシュ」や「キャッチ22」等の映画や小説は、そのくだらなさと不条理と狂気を笑い飛ばした。この「ノーマンズ・ランド」にも、それと似た味わいがある。ドタバタ喜劇と言いたくなる様な展開は、人間の尊厳を侮辱して居るかに見えて、実は戦争そのものが生む人間性への侮辱を描くのだ。

狭い塹壕の中でそのドタバタを演じ続ける主役三人が、いかにもそれらしい愛すべき普通の人間の風貌をしている。三人の抜き差しならぬ状況は、やがて両陣営を動かし国連軍を動かしマスメディアを引き付ける。拡大する関係者の中に、無責任な上層部、傍観するしかない国連軍、視聴率が最大の関心事である報道陣といった姿が、戯画の様に分りやすく正確に浮かび上がって来る。

この中では国連軍の一人の士官だけが積極的に何かをしようという姿勢を持ち、人道的に動くものの、その誠意と勇気にも挫折と限界がある。
「縞模様のパジャマの少年」もそうだが、この士官を初めとした登場人物全員に対して、歯痒さも苛立ちも感じる気になれない、説得力と現実感が全編に漲る。彼らの疲労や野心が伝わって来て、全てがやむを得なかったと思わせてしまう。こんな多様な馬鹿馬鹿しさやそれが生むひどい結果は、平和な時にもきっとあるだろうとさえ思わせてしまう。

人間以上にこの映画で主役級の役割を果たす小道具は、兵士の死体に仕掛けられる地雷である。パイナップルの様な形をして居て、踏んでも爆発しないが、その足を上げた瞬間、空中に飛び上がって爆発し、小さい鉄球を四方に撒き散らし、広範囲にわたって生存者が居なくなる程の殺傷力を持つ。ベトナム戦争の頃使われたボール爆弾の地雷版なのだろうか。
古参兵はこれを敵の死体の下に埋め、誰かが死体を動かせば爆発してあたり一面の生物が壊滅する様にしている。彼はこれを特に残酷な事をして居る風もなく、遊び感覚とも仕事感覚ともとれる絶妙な雰囲気で、ほいほいと仕掛けてしまう。何がどこまで正気か狂気か見ている方もわからなくなる。

さまざまな行き違いから、多くの人の中途半端なりに懸命な努力にも拘らず、最後はシェイクスピア悲劇なみの救いのない展開で終わる。中でもラストシーンの恐ろしさは血も凍るばかりで夢に見そうだ。「ハート・ロッカー」の恐さにも通じるが、それ以上に凝縮された絶望がある。死ぬ事そのもの、あるいは残酷な死に方への恐怖ではない。もっと苦痛に満ちた死は平和な日常の中でさえあるだろう。だが、そんな事とは違う、人間の有り方としての恐怖がこのラストシーンにはある。

こんなに恐ろしく救いが無いのに、この映画はどことなく明るくて滑稽で微笑ましい。苦々しい冷やかさはどこにもなく、人間の弱さや愚かさへの暖かい愛が、どの場面にも満ちて居る。
ホラーやスプラッタを基調とした恐さなら、人間の感覚は麻痺する。どんな残酷な酸鼻にみちた映像を見ても、無神経で居られる。
だが、この映画は最後の最後まで、見る者に人間への愛を失わせない。その上で、そんな人間が手放したもの、見捨てるものを最後にさしつけて見せつけるからこそ、見ている方は叩きのめされる。

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カツジ猫