映画と戦争わが教え子、ヒトラー
戦争責任とか戦争犯罪とか言っても色々有るだろう。戦争が人殺しを前提とする以上、戦時の戦闘員どうしの殺人は犯罪には問われまい。直接手を下した者も、命令を下した者も。
では、戦争を起こした事自体が罪になるのか。あるいは捕虜や非戦闘員への非人道的な行為が問題になるのか。
ヒトラーを描いた映画はこれまで数多い。チャップリンの「独裁者」はまだドイツが敗北しておらずヒトラーが勝利し続けて居た時期に製作された勇気も高く評価されている。まして戦後の映画ではヒトラーがわずかでも美化される事は決してないし、わずかでも共感や同情を抱く余地はないように描かれる。
彼の責任や彼の正体がその為却って見え難い。あの戦争でドイツが行った残虐な行為の数々は、どこまでヒトラー個人の責任を問える事なのか。その罪深さ、責任の重さは例えば日本がアジア各地で、アメリカがベトナムで行った多くの行為の責任者である日本の天皇、アメリカの大統領と比べて、あまりに問われすぎていはしないか。そんな感想さえ生まれる。
ベトナムは戦後復興の中でアメリカの残虐行為を徹底的に映画や小説で告発はしなかった。中国をはじめとしたアジア各地も日本に対して、また日本もアメリカの原爆投下に対して、相手国の当時の支配者を名指しした激しい告発はしなかった。それにはそれぞれの事情や状況がある。それに比べてヒトラーとナチスは常に悪の象徴として明確に指摘され描かれ続けて来ている。
だが文句ない悪の権化として描く事は逆にヒトラーを強力で偉大な魅力のある存在にしてしまう危険も有る。従って映画では彼はほぼ常に卑小で異常で狂った存在として描かれる。この映画でもそうで、戦争末期、自信を喪失し精神も不安定な彼に、かつてのカリスマ性を取り戻すべく、側近がユダヤ人の名俳優を収容所から連れ出しヒトラーの教師にして人心掌握のこつを思い出させようとするという筋書きである。
これは虚構であるらしいが、既に崩壊しかけているドイツとその支配者が虐げて居る相手を救い手として求めるという設定が生む、強者と弱者、支配者と被支配者の関係が動揺し逆転しかねない面白さが映画の中心であろう。
だがレマルクの小説「凱旋門」の医師が患者である敵を治療し、映画「戦場にかける橋」で橋の建設を命じられた英国人捕虜がその仕事に良心的に取り組んでしまうように、この映画の名優が生徒であるヒトラーの教育に打ち込み、その再生に熱中してしまうといった類の職業的な良心もしくは誘惑は描かれない。家族の安全を願う葛藤はあっても基本的に彼は教え子であるヒトラーに心を寄せることはしない。
それは快さを生む一方で後味の悪さをも生む。虐げられた人間は虐げて居る相手に心を許す事はあり得ないという清々しさ以上に、教育し訓練する相手が弱みを見せて居るのに、それに応えてやらないという不誠実さも感じてしまう。愚かで狂った独裁者が無気味な一方、哀れにも見えかねないのだ。それは、この映画の目的にどれだけ合致して居るのか。
前線の個人であれ、最高責任者であれ、戦争犯罪者について考える時、我々はそれを異様な怪物としてではなく、誤解を恐れずに言うなら愛を込めて描かなくてはその本質に迫れまい。ヒトラーやナチスドイツを悪の象徴として描くならなおのこと、それは必要な事ではないのか。