映画と戦争縞模様のパジャマの少年

衝撃の結末、と紹介されることが多い映画のようだ。なるほど衝撃の結末にはちがいない。後味は悪いし、陰惨だし、人を落ち込ませる映画だ。
きわだって残酷な場面があるのではない。登場人物もその行動や発言も、むしろ良心的で人間的だ。それにも拘らず、彼らは悲劇を防げない。不幸な人々を救ったり、誤った事柄を正したりすることは彼らにはできない。しようとすることさえもできない。そうやって、良心を殺して、たくさんのものを見捨てても、結果として彼らは自分たちを守ることもできない。まったく救いがなく、実りがなく、しかもこの人たちは決して愚かでもなく、冷たくもない。それでも、こうなってしまうのが戦争だと言うしかなく、だがそれが分った所で何になると言いたくなる程、空しい気持ちにさせられる。

ナチス政権下のドイツで軍人の父親が田舎のユダヤ人収容所の責任者としての任務につく。妻と幼い二人の子ども(姉と弟)も一緒に収容所に近い新しい家に引っ越す。町の暮らしに慣れて居た妻も子どももそこでの暮らしに馴染めない。弟の少年は禁じられて居た家の裏側の森への散歩に行き、その向こうの収容所に近づき、鉄条網越しに囚人服を着た同い年の少年に会う。

この一家は決してナチスに同調してはおらず、父親も仕事を真面目に勤めて居るが決してそれを好きではない。母親は明確にドイツの現状にも収容所にも批判的である。町に残っている彼らの老母は更に強い反感を現政権に抱いて居る。
しかし彼らは何も出来ない。家には父親の部下の若い軍人達が出入りし下働きに来る囚人達を軽蔑し虐待する。その彼らも戦争忌避者の家族が居たなどの些細な事が原因で、直ちに前線に送られるなど恐怖と緊張に満ちた日々を過ごして居る。

引っ越して来て程なく、可愛がって居た人形を処分した姉は子どもから成長して若い娘になりつつある。家に出入りする軍人にほのかな好意を抱き、家庭教師として訪れる老人の過激な(当時は普通の)愛国心とユダヤ蔑視の教育を優等生らしく素直に吸収する。
息詰まるような閉塞したこの状況下で、父も母も子どもたちに自分の思いも信念も語ることが出来ない。それは決して二人が臆病だからでも卑怯だからでもなく、うっかり子ども達がそれを口にすれば危険だからであるし、また醜く恐ろしい現実を子どもに見せない事で彼らを守ろうと言う、まっとうで聡明な判断もあるのだ。

親に隠れて鉄条網の向こうのユダヤ人少年と幼い友情を育む弟は、自分の行動を秘密にして居る事もあって、自分を取り巻く状況が把握出来ない。台所で下働きをする囚人の男が怪我の手当てをしてくれた事から、彼が医者であった事を弟は知る。ユダヤ人の少年がなぜ収容所に居るのかも含めて、この様な不思議な事の数々を彼は理解する事が出来ない。ユダヤ人の少年もまた、それを説明する方法を知らない。

戦争には様々な悲劇がある。人が思った事や信じた事を自由に語れないのは、その大きな一つである。言わなくても以心伝心で伝わる大人同士ならまだしも、学校や家庭で、自分を取り巻く世界がどのような物か知ろうとして居る年代の若い幼い子ども達に、彼らが見聞きする事の意味を説明出来ないと言う事は、親にとって教師にとって大人にとって何と言う悲劇だろうか。教えてもらえない子ども達にとってもそれは何と言う不幸だろう。

この弟の少年に訪れる悲劇は、たとえ誤った知識でも親が「あの鉄条網の中に居るのは悪い人達で近付いては危険だ」と教えて居れば避けられたのかも知れない。もちろん、そう聞かされて居ても友達の居ない淋しさから少年はユダヤ人の友達に近付いて行ったかもしれない。幼い二人の友情は過度に親密な訳でもなく、明確な個性が互いに有ってぶつかり合うのでもなく、それぞれが置かれた状況も自分が何者かも分らない儘に、むしろ分ろうとする事を恐れるように、遠慮深く表面的でひっそりと単純だ。様々な事を踏み込んで確認し合えば、もう会えなくなる事を分っているかの様に。

自分達を取り巻く世界が分らない儘に人間らしい繋がりを育てた少年達も、回りの状況が分かって居るからこそ、それを子どもに教えられなかった大人達も、決して責められるべき人達ではない。少年はもちろん両親と姉に与えられた運命は過酷すぎる。それがナチスに抵抗出来ずユダヤ人を見殺しにした罰だと言うのは余りにむごい。繰り返すが、これが戦争の悲劇だといくら痛烈に分っても、その辛さは少しも拭えない。

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カツジ猫