映画と戦争サラエボの花
「ノーマンズ・ランド」の衝撃が余りにも強かったので、引き続きユーゴ紛争を題材にした映画です。
紛争後十数年後のサラエボの町で、貧しいなりに仲良く生きて居る母と娘の話です。
がっしりして頼もしそうで女傑風なのに、重苦しげな表情でガラスの様に儚い神経を抱えて生きて居る風の母親と、ほっそりしなやかで気が強い負けず嫌いな娘の取り合わせが良い。
父親は戦死していて名誉の戦死である「殉教者」の称号を持って居る筈なのに、娘の修学旅行の金で苦労する母親に、父が殉教者なら無料になるのにと思う娘の疑問や不満が中心になって親子の間がぎくしゃくして行く。
そうでなくても娘は反抗的で傷付きやすい年齢で、背景になって居る戦争が生みだした悲劇が無くても、普通の思春期の娘と母の対立として見ても、それぞれの人物が細やかに描かれた優しい暖かい映画だと思います。
その悲劇とは、この戦争でサラエボも含めたボスニアの女達は、戦場の混乱で生じたのではなく敵のセルビアの戦略として組織的軍事的に集団レイプされ妊娠させられたという事実です。映画はその悲劇を直接の映像としては一度も見せません。しかし、医者志望の医学生だった母親の、それにふさわしい高い知性と強い意志がこれ程無残に打ち砕かれ偉大な精神が廃墟になってしまって居る様な現在の姿を見事に見せる事で、それが一人の人間を、その人達の集まる国をどれだけ破壊し荒廃させたかを、映画は余す所無く見る者に伝えます。
カウンセリングの為に集められた女性達の姿と顔をただ映して行く場面はどんな血なまぐさい戦場の映像にも増して、見る者を戦慄させます。
私の友人で吉原と大奥の映画は絶対見ない人が居ます。女性が性行為を行う為に集団で集められて居る場所等、見るだけでおぞましいと言います。しかし、この映画で映し出される性行為の被害者となった女性達は選ばれた美女でも何でもない、見るからに普通の平凡な特に美しい訳でもない女性達で、それだからこそ凄まじいおぞましさがあります。
見て居て私は自分の近所の顔見知りの婦人達と共にその様な被害者になり、何年後もそうやってその記憶を共有した儘、同じ地域で過ごす恐怖と苦痛をありありと想像できて息が詰まりました。
更に平和な現在も母親が住む社会の日常の中で女性差別は普通に有って、それが彼女にとってどれだけ苦痛か、それも痛切に伝わります。
犯罪が紙一重ではびこる町、子どもも銃が身近な毎日、豊かな様でも年金生活の苦しさを漏らす老婦人。戦争の爪痕は至る所に有って人々を蝕んで居ます。
その中心に、それを乗り越えて芽生え伸び行く若い身体と魂が有り、でもそれがその儘、戦争の最も汚らわしい部分の記憶と傷その物でもある。
何と言う皮肉、矛盾。人間はどうやって、これを解決すれば良いというのか。母親と娘の戦いは私達の誰とも重ねられる様に等身大で、しかも偉大です。
結局、戦争を止めさせる事が出来る人類の未来は、この様に平凡で小さな、血の滴る様な戦いを数限りなく続けて重ねる事でしか作れないのでしょう。
昔、ソ連の女性作家の書いた「虹」と言う小説を読みました。赤ん坊をドイツ軍に殺されても仲間を裏切らない母親、ドイツ軍の兵士に妊娠させられて悩み抜いた後、戦いの中で敵を倒しながら大きくなった腹を刺されて喜びの中で死ぬ若い女性等、逞しい彼女等の生き方に共感しながらも私は、他にも解決法、むしろ解決しない方法が有るのではないかとも感じました。
この映画もまた、その様な多くの解答の一つなのだと思います。突き付けられてはならない質問で有るだけに、どの解答も間違って居るとは言えない問題の。
戦争における性犯罪は被害者加害者双方をどれだけ深く汚し傷付けるか。それは両者の所属する社会全体をどれだけ苦しめ蝕むか。私は従軍慰安婦問題を知識や理屈ではともかくリアルに捉えては居なかったという事もこの映画を見て痛感しました。日本の責任や補償の問題はさておいてさえ、国としてこの様な悲劇を味合わないで済んだ国民と民族は、自分達の幸福への感謝という意味だけでも、この様な被害を味わった人々の体験と現実に耳を傾け、手を差し伸べるべきではないか。それが人間としてするべき事ではないかと感じないでは居られませんでした。