映画と戦争いのちの戦場

アルジェリア戦争を描いたフランス映画である。主役の「あんな理想主義だといつかは死ぬ」と歴戦の古参兵である部下に思われていた、清々しい青年中尉が往年の美男俳優アラン・ドロンに似ているので思い出すのだが、ドロンも「名誉と栄光のためでなく」というアルジェリア戦争を描いた映画に出ていて、彼の主演が売り物のあくまで大衆的娯楽映画でありながら、きちんとアルジェリア戦争におけるフランスの悪を批判していた記憶がある。
そう言えばドロンがブロンソンと共演した「さらば友よ」でも彼はたしかアルジェリア戦線帰りの軍医で苦い記憶を抱えていた。昨今のアメリカ映画でベトナム従軍の体験を持つ主人公たちと類似の位置に、あの頃のフランス映画のアルジェリア戦争はあった。

アルジェリアの側から独立に至る過程を描いたのは名作「アルジェの戦い」で、今これを見るとテロリストが必ずしもどころか全く悪でない描かれ方なのが印象深い。そもそもロシア革命以前の学生達による圧政への抵抗運動、ヒトラーのナチスによる傀儡政権ヴィシー政府下のフランスレジスタンス等で、テロリストはむしろ正義と良心の象徴だった。現在の常識がテロを完全に悪として否定するのは、必ずしも近代史全体に共通する認識ではない。この辺の整理もいずれ必要になるだろう。

映画は主役の若い中尉が最初は人道的であろうとしても、現地の人々や敵であるゲリラ軍との対決の中で突きつけられる残酷な事実の中で、次第に拷問や一般人の殺害にも関わってしまい自己の人格も破壊されて行く過程を描く。王道で定番の展開でもあり、どの戦争でも必然の人間が内部と外部から破壊されて行く様子が良く理解できる。
一般人の住む村が敵味方両者によって引き裂かれ破壊されて行く様子も十分に描かれ、これまたアルジェリアでもベトナムでもその他の何処でも繰り返された戦時下の地獄図絵であった事を思い知らされる。

この映画のもう一つの特徴は、かつて戦友としてドイツという「悪」と戦ったという正義の戦争に携わった人々が敵にも味方にも蹂躙される村にも存在するという事だ。拷問に携わる仏軍の士官はかつてレジスタンスの闘士だった経験がありゲシュタポに拷問を受けた事もある。敵に内通していると疑われて殺害される村人は必死で、かつてドイツと戦った体験を訴える。この戦争の参加者たちのやりきれなさと救いの無さは、そういう美しい正義のための戦いの記憶がことごとく汚染され陵辱される事にもある。前の戦争の名誉ある記憶を残す世代にとって、醜く哀れで恐ろしい敵だったゲシュタポやナチスドイツの心境を理解できる立場に立たされる事以上の拷問はあるまい。

「アルジェリアはフランスだ」と登場人物の一人が口にする独特の植民地文化の美しさはこの映画では具体的には描かれない。そこは小説「昼が夜に負うもの」(ヤスミナ・カドラ)等で補完するしかないだろう。だが荒涼とした山岳地帯の前線のみを部隊としたこの映画でも、アルジェリア戦争の他の戦争すべてとあまりにも共通する、また一方でこの戦争独自の悲惨は十分に伝わって来る。

9.11.のテロ事件以降に米国民が(その影響下の日本国民も)激しい愛国心に燃え、国連決議で退けられたアフガンへの攻撃を英国と日本の協力を得て独自に行うという軍事行動を国をあげて支持した時、それに批判的だったフランスも米国民の憎悪の対象になり、各地でフランスワインが割られたりしたのは記憶に新しい。当時フランスがどのように考えているかは全くといっていい程日本では報道されなかった。だが、改めて感じるのはベトナム戦争も含めて米国が近年辿って来た道に対する冷静な視線と距離は、同じ第二次大戦の盟友として、一足先にナチスと同一の役割を担うという苦汁に満ちた堕落をかみしめたフランスの、この様な体験と記憶から生まれたのでもあろうと、あらためて実感する。

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カツジ猫