映画と戦争コレリ大尉のマンドリン
第二次大戦下のギリシャの小さな島が舞台で、敵であるイタリア軍に進駐され、更にドイツ軍も来て、と当時のヨーロッパの情勢を知らないで見ていると混乱するだろう。だがそれがわからなくても、複雑な情勢下で翻弄される素朴な小村の悲劇は十分に伝わる。
舞台や設定、雰囲気が似ている「聖アンナの奇跡」は全体が重苦しいが、この映画は冒頭から前半はむしろのどかな村の様子が強調され、ニコラス・ケイジの一面を生かした飄逸なイタリア軍人たちの描写もあって人情喜劇風でもある。村人達の抵抗もどこやら牧歌的で微笑ましい。このような異文化の交流や外部の人間との交渉の楽しさも確かに戦争の生む一面ではあるのだ。
中盤から後半、それが次第に勢いを速めて暗転する。個人の資質に関係なく戦争の生み出す苛酷で残忍な現実が浮かび上がる。ヨーロッパを舞台にし、村や民衆の視点を持つ戦争映画は例外なくこの種の描写は容赦ない。それは刻み込まれた記憶なのか、現代にもつながる実感なのか。
この陰惨さがドイツ軍と常に重なるのが興味深い。また、これだけ共産主義や社会主義が否定され弱体化している様に見える時代でも、「聖アンナの奇跡」でもそうだったが、パルチザンの人々は決して悪く描かれないのも印象的だ。一方でナチスとドイツ軍を区別して後者は悪役にしない映画も多い中、この映画ではドイツ軍が明らかに非人道的な犯罪者である。これもまた現実の歴史の蓄積から導き出された約束事なのだろうか。最後の字幕では、この島の悲劇が史実であったことが示唆されているが。
パルチザンの行った行為の中で観客に衝撃を与え抵抗を覚えさせるのは、ドイツ軍と親しくした娘の運命だろう。私の記憶にある限り、この様に占領下でドイツ軍と親しくなった女性が、悪でなく加害者でなく、被害者として描かれたのは映画では「愛と哀しみのボレロ」が最初だった。最近では「マレーナ」のヒロインが同様のリンチにあう。彼女達をその様に攻撃する隣人の女性達を、占領下で虐げられて居た不幸な人々の当然の怒りによる正義の執行者としてでなく、残酷で冷酷な醜く厳しい存在として登場させるのが定着して来た流れを、私は否定も肯定も出来ずに居る。
異国から来た征服者と親しくなり受容する者と、それを許さない者の相克。征服者が敗北して去った後に残された、彼らと交流した者の運命。そこに最も鮮烈に示される様に、村が戦場となる事はありとあらゆる形での悲劇を生み出す。
「太陽の帝国」の登場人物が言った様に、戦争の始まりと終わりは特に危険で、それは敵味方が判然としなくなり、それなりに存在した戦線の安定が崩れるからだ。この映画はそれもまた具体的に描き出す。破壊された秩序の上に築かれた秩序もまた崩壊する。戦争は徹底した管理で始まるが、それを責任持って最後まで貫く事は決してしない。結局は個人を個人として混乱の中に放置する。それがどのような戦争にも共通する、戦争の本質である。