大学入試物語1-はじめに

はじめに

2013年1月30日、福岡地裁で、ある教育系大学の教員4名が不当に切り下げられた賃金の支払いを大学に要求する訴訟の、第一回公判が行なわれた。地裁の建物で最も大きい法廷の100人の傍聴席はほぼ満席で、訴訟を起こした先生たち自身も少し驚いたらしかった。傍聴席がこれだけ埋まることはめったになく、最近では諫早湾の開門の判決が出た時以来なかったということである。

傍聴人の多くは九州とその近くの大学の先生たちだった。その後に行なわれた報告会では全国の各大学で、法人化後の大学の教職員が公務員かどうかあいまいなことを利用して、充分な説明もないまま大幅な賃金カットや退職金の切り下げが行なわれて、「これでは教育も研究もできない」「もはや限界」と多くの先生が感じていることが、さまざまな大学から語られた。今回の訴訟は多くの大学にとって、決してひとごとではなかったのだ。おそらく、これをきっかけに全国の大学で、そのような窮状が訴えられはじめるのではないかと思う。

大学改革ということばがこの何十年かの間に語られ続け、実際にさまざまな改革が行なわれて来た。しかしそれは決して現場の教員や職員、学生の希望を中心に行なわれてきたものではない。その一方で、大学の外にいる一般の人たちの希望を反映したものとも思えない。
それどころか、そういう大学に現にいる人たち、また大学の外にいる一般の人たちが、大学とはそもそもどういう存在であるべきか、それに対して大学の現在の状況はいったいどういうものなのか、これからどのように変えていったらいいのかについて、虚心坦懐にじっくりと話し合う機会など、これまでいったいあっただろうか?
大学という組織はあまりにも巨大で多様で、おそらく今、最も積極的に「大学を利用したい」と考えて具体的に関わっている企業関係の人たちでさえ、その全貌や本質を充分に理解してはいないだろう。

最初にあげた、これから起こってくるだろう大学教員の待遇改善の訴訟にしても、今の日本の多くの人々の目には、ぜいたくな要求に見えたり、自分たちとは関係ない事柄と映ったりするかもしれない。だが本当は、このような裁判もひとつのきっかけにして、国民や人類の誰もが、大学とはどのようなものであってほしいか、教育とは知識とは真理とはどのような役割を果たすものであるべきか、じっくりと考えてみることが、健全で力強い社会や世界を作るためには欠かせないことなのだ。国民のひとりひとりが、子どもの受験先や履歴書の肩書としてだけでなく、「大学」のあるべき姿を夢見、語り合うことが、こんな時代だからこそ、どうしても必要である。

この文章を、そのために使ってほしい。
もしあなたが、大学に行ったことがなく、何の関わりもない人なら、そういうあなたにとって、大学とはどういうものか、これからどうあってほしいか、語ってほしいし、もしあなたが、大学に行ったことがある人や、今、大学にいる人なら、自分の体験も参考に、大学とはどういうものであったらよいか、考えてみてほしい。
もしあなたが、大学の改革や運営に何かのかたちで関わっている人なら、自分たちのやっている仕事の分野の感覚や論理にあてはめるだけでなく、大学というものの持つ性質をよく理解し、それを充分に活かすにはどうしたらいいのかを、見いだしていってほしい。
もしあなたが、報道関係者なら、入試など機密事項で取材しにくい事柄もふくめて、大学のおかれている実態を、どうか充分に取材して報道してほしい。
もしあなたが、大学の教職員なら、私がここで書いたさまざまな実態に関して、自分の職場ではどうかということを、できるだけさまざまな場で発言し、情報交換してほしい。
大学と、それをとりまく世の中とが、よりよいものになることを心から願っている。

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カツジ猫