人間らしい暮らし3-たぬき

年末の31日が月曜で、最後のごみ出し日だが、私はこの日出かけていて、ごみが出せなかった。おかげで年頭は、家中のごみ箱が満杯になり、今朝、やっとごみ袋3つになった燃えるごみを玄関において、これで正月がやっと来るような気がしていたのに、食事している間にけろっと忘れ、寝巻のままで「太平記」を読みふけっていた。10時近くになって、ぎゃっと気づいて、まだ集配車が来てなくてぎりぎり間に合うかもと、寝巻の上にコートを着て飛び出した。幸い、ごみ袋の山はまだ残っていて、何とか間に合った。ほっ。
こういうことがうまく行った日は、朝から優しい気持ちになれる。情けない。

このコートもラグラスで買った。お店の改修のための大安売りで、ミラノから取り寄せた、とてもいい生地の軽くてあたたかい、ぼったりした気やすそうなやつで、9700円とものすごく安かったので、つい買ってしまった。こげちゃ色のようなワイン色のような地の上に、くすんだオレンジ色の筋が斑点のように入っていて、最近オレンジ色のバッグや手袋にこっている私にはうってつけである。オレンジは愛猫キャラメルをしのばせる色で、つい、その色のがこのごろ増えつつあるのだ。
でも、よそ行きにするつもりだったのに、ごみ出しに使ってしまったとはなあ。

「太平記」は、「平家物語」みたいに簡単に筋が説明できないのだ。すごく、ごちゃごちゃしている。これは、時代そのものがそうでもあるし、もう、簡単な善悪の基準で話を作れなくなってるのだろう。小さい頃に読んだ時はそれが不愉快だったのだが、今はかえって面白く、ダイナミックなものを感じる。
描写は「平家」よりもしばしばどぎつく、凄惨である。そこもまたいい。追いつめられた軍勢が自害しようと思っても、寒さで凍えて太刀を持つ手に力が入らず、地面において、上からのしかかるようにして身体を貫いて自害したなんて記述は「平家」にはなかった。
また、戦闘の様子が細かく、リアルで、多様である。「平家」はだいたい、夜襲、急襲をすれば勝つ、という程度のセオリーしかなかったが、「太平記」はそう一筋縄ではいかない。どっちが勝つのか、なぜ勝つのか、いつも最後まで読まないとわからない。そこも面白い。

それに、脱線のしかたも激しい。馬琴の「八犬伝」が教養をひらめかしたがり、浜辺で竜について里見義実が家来に3~4ページにわたって長々説明する場面は有名で、そんなことしとるヒマがあるんかいと読んでいて心配になるのだが、あれは「太平記」を読んでいれば(もちろん読んでたろうが)あたりまえのことなのである。ことあるたびに、中国の故事がえんえんえんえん、またえんえんと引用され、本筋の話を忘れそうになる頃、戻って来る。これがしょっちゅう。馬琴の竜など、かわいいもんだ。

この脱線教養講座は、最近では大西巨人の「神聖喜劇」がそうですな。あれも面白かったけど。

「太宰府市史」は、ワープロで打ってるのだが、フロッピーがすべて満杯になっていて、新しい文書フロッピーを作っていたら、昨夜はそれで終わってしまった。今夜は少し前進しないと。

今日は朝の内はうららかだったが、昼から曇って、寒くなった。雨もぱらついていて、3時間めの授業中、学生たちが気にして窓の外を見ていた。
この時間は「ことば再発見」という、去年から新しくできた授業で、国語教育の先生と私とで分担してやっている。もうちょっと話し合って構成したいと二人とも思っているのだが、その暇がない。
この相方の先生は超まじめな人で、死ぬほど忙しがっているくせに、「学生のレポートをゆっくり見て採点したいから、授業の人数を半分にわけませんか」と去年の暮れに提案してきた。「それって、授業の回数が倍に増えるってことですよね。だめです。そんな余裕ありません」という意味のことを、まわりくどく丁寧に言って、私は彼の教育的情熱に燃えた提案をすげなく反故にしてしまった。悪いけど、こっちの命の方が大事だ。それでなくてもカリキュラムの改正と定員削減で担当のコマがじりじり増えてる。予習をする時間も、ノートを更新する暇もなく、ストレスばかりが増大する。

せめて新しい試みをしてやれと思って、今年からこの授業は「ら抜きの殺意」という戯曲をテキストにすることにした。市民劇場の公演で見た時は面白くて腹の皮をよじったのだが、それだけ、役者の演技力にも負うところがあるなと思い、学生たちに朗読させて、どこまで面白さが伝わるかと不安があった。シェイクスピアや歌舞伎なら、わりと間違いないのだが、こういう現代劇は初めてだったからだ。

そうしたら、これが意外とうけた。授業のたびに書かせるレポートでは全部の学生が「この本は面白い」と書いていた。分担させて読ませるのも、何とかうまくいっている。いや、なかなかうまくいっている。それというのが、彼ら、案外読むのがうまい。前回いきなりあてて読ませた連中もうまいなあと思ったが、今日からは前もって募った希望者に読ませたところ、演劇やってるという男子学生がそりゃもう、教室をわかせたぐらい、主役の一人の、ら抜き言葉を使う若者のせりふを読むのがうまかった。
私は、演劇のようにやりたい者は、いくらでものって、はまっていいが、別にそうしなくても、普通に読んでもかまわないと言っている。ただ、とにかく大きな声で読め、前に出て読む度胸をつけろと言ってある。このクラスは小学校の先生になるコースなので、そう言っているのである。また、聞く方も、ちゃんと聞く練習をしてくれ、小学生は先生や友だちが聞いてくれなかったり、バカにして笑ったりすると、とてもいやになって、朗読も国語も嫌いになるのだから、と。

以前、私立の文学部でも何でもないところで、大人数のクラスを担当した。その時、見上げるようなたくましい兄ちゃんたちが、テキストを読ませると、何度頼んでも、蚊のなくような細々とした声でしか読んでくれないのに往生した。何でだろうと思っていたら、レポートに何人もが、「昔、小学校であてられて間違うと、先生や皆に笑われるので、とてもいやで読むのが大嫌いだった」と書いてきたのを見て、何だかすごく納得して、思い知らされた気がした。そのことを今日も話して、「あんたたちは多分、授業中に読むのが得意だったかもしらんから、そんな気持ちはわからんかもしれんけど、教科書を読んで間違って笑われるのはいやなものだし、読み方が下手で、皆が聞いていてしらけたりイラついたりしてるとわかるのもいやなものなのだ。それがきっかけで授業や国語が嫌いになることだってある。今日、前で読んでくれた人は皆、上手だったけど、仮にすごく下手な人がいたとしても、熱心に聞いてあげる練習をしておいて、先生になった時に使え」と言っておいた。
「すみません。朗読を全然聞いてませんでした。本が面白いから一人で先を読んでました」とレポートに書いてきたやつもいたけど、ま、しょうがないか。

これがおかしいのは、「ら抜きの殺意」って、コギャル語や、ら抜き言葉がめちゃくちゃ飛び交うのだけど、それを読ませると案外皆、読みにくそうで、こういう言葉はまちがっていると、妙に感じてしまうのらしい。もちろん、正しい言葉使いに固執する中年男に対しても「これじゃ、かえって反発される」と批判はするが、はちゃめちゃな言葉を大声で読んでいると「ちゃんとした言葉を使わなくては」と逆に実感するところもあるようだ。
「きれいな言葉を使わないといけないと思った」のような型どおりの感想、流れをつかもうと意識している傾向が、学生たちのレポートにはある。だが、「ら抜きの殺意」は、実はそんなに単純なことを主張している戯曲ではないし、私もそんなことを言いたくてやってるのではない。どうせその内にそのことには皆が気づいてくるだろうと思うけれど。

昨夜はそんなに遅くもなく帰る途中、キャンパスの中で、立派なたぬきを全部で4ひき、見かけた。最初は1ぴき、ついで3びき。車のライトにふさふさのしっぽが絵のように浮かび上がっていた。たぬきならまだいいのだが、イノシシにでも遭ったらどうしよう。労働災害と認められるとも思えない。

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カツジ猫