ラフな格差論11-金持ちはうらやましくない

苦労を増やす

金はもう、いくらでも欲しい。使い道など山ほどある。だが、だからと言って、金をうなるほど持っている人をうらやましいとは思わない。
金を持ったとして、とっさに思いつく方向は三つだ。一つはそれを元手に資料を集めて研究したり、自分の小説を出版したり、何か前向きな方向で仕事を発展させることだ。それは、まちがいなく、やりたいし楽しい。だが、その一方で、楽しいが忙しくなるなと思う。研究や創作はすばらしいが、同時にエネルギーもついやする。結局自分で自分を今より働かせることになる。

そのうち飽きる

もう一つはうまいものを食べ、洒落た服を着、旅行をし、絵や家具や宝石を買い、人を集めて宴会をし、要するにぜいたくをして使いまくって楽しむことだ。
だが、それも考えていると疲れる。ぜいたくなものを買うには、自分の好みであるにせよ、一心に鑑定し選択しレイアウトし、いつくしまなければならない。うまいものを食べると言っても、胃袋と口の大きさは誰も同じで、際限なく豪勢な食事をつづけられるものではない。
好きな人や愛する人を呼んで宴会をするにしても、その皆が金持ちではないだろうし、それなりに忙しいだろうし、いつもいつも相手をさせるわけにもいくまい。結局彼らの時間や好意を金で買うようなことにもなりかねない。
旅行だって食事だってセックスだって、やれば疲れる。こちらの体力以上にやり続けられはしない。せいぜい普通の人間なみにしか、美食も美男も美景も味わえるものではない。その内あきて、だんだん強い刺激を求め、サドマゾに走るか、とことんバカな遊びをするか、そういうことでもしそうである。

管理に疲れる

最後の一つは、そうやって得たものの管理とアフターケアだ。友人であれ恋人であれペットであれ指輪であれ家であれ何であれ、手にいれたからにはセキュリティーとメンテナンスに膨大な時間と金と手間がかかる。本なら書庫が必要になる。庭なら剪定に費用がかかる。服ならクローゼットがいる。宝石や通帳は貸金庫を借りなくてはならないだろう。ペットや人間はいわずもがな。そんなこんなで、たくさん得たらそれだけ管理に追われるのだ。捨てるにしても廃棄料を取られるし、第一好きなものばかりだから捨てられないし。

代わりがいない

そういうのが全部、別にいやじゃない。それなりに楽しかろう。だが、そのくらいなら、食うにさえ困らなければ、もっとつましく小規模に、同じ楽しさがいくらでも味わえる。今でも私はやけに忙しいが、その大半は私にしかできない仕事で、金で人をやとってしてもらうわけにいかないことばかりだ。好きなものも人も多いが、その全部を大切にするだけで大変で、これまた金があっても誰かに肩代わりしてもらうわけにはいかない。金がなくても貧しくても、私にだけしかできない仕事で私はかなり忙しく、金があっても基本的にそれは変わりそうにない。

趣味に合わない

これまで現実にも架空の物語でも、うなるほど金を持ってぜいたくをしている人の人生や生活が、どれを見ても「ああ、あんな暮らしをしたいなあ」と心から思えるすばらしいものはなかった。ある人は金があってもやっぱり時間に追われていたし、ある人は山ほど素晴らしいものに囲まれていても、時には徹底的に、時にはどこかしら趣味が悪く、ある人は大勢の人を呼び寄せて囲まれていてもあまり面白い実のある話をしている風でもなく、とりとめのない会話をしては淋しがっていた。その人たちにとって、それは貴重で幸福なものなのだろうから、それでもいいが、それは決してうらやましくなるものではなかった。
金にあかして手に入れられるものは、どれもそれほど大したものはない。どうしてもほしいものは、どんなに貧しくても人は何とかして手に入れるだろう。今のところは、それが私の実感である。

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カツジ猫