ラフな格差論12-この世界のどこかには

誰が豪邸を掃除する?

金持ちがうらやましくないという理由のひとつは、彼らが持っているもので、うらやましいと思うものを見たことがないということだと書いたが、少し訂正しておくと、たしかに豊かな人の持っている素晴らしい屋敷や庭園、職場、交際相手その他を見ていて、これはすばらしいとか、なかなかいいじゃないかとか、そんなに悪くないと思うことは私にもないわけではない。

ただその場合、それは天才がうらやましくないのと同様で、そういう美しいすばらしいものがあると、自分のものにしたいというより、こういうものがとにかくこの世の中にあって、自分がそれを見られることの喜びをまず感じる。家でも庭でも物でも人でも、そういうものを管理し守っていくことは生やさしいことではない。私にかりにできたとしても、アラビアの寺院とモスクワの聖堂と日本の皇居とインドの宮殿とナイアガラの滝とパリのおしゃれな街並みとその他もう何でもいいが、世界各地の美しい珍しいものをすべて所持して管理できるわけがない。人間にしてもたくさんの美女をハレムに集めておいたところで、彼女らの一人ひとりの美しさと魅力を最高に発揮させるのは到底できることではない。その一人とバレーボールを毎日したいし、その一人とカーマスートラも顔負けの痴技に毎日ひたりたいし、その一人と世界を旅したいし、その一人にとっかえひっかえ美しい服を着せて毎日ながめていたいし、その一人に千夜一夜も物語を語らせたいし、それぞれとたった一晩、一週間いたところで本当のその魅力はわからないし、ああもうどうしよう状態(笑)になる。

幸福な人を見ている幸福

私は限りない欲張りだから限りなく無欲になるのだ。人間のたかが百年たらずの一生で、本当に心をこめてみがきあげ育て上げ、最高にしあげることのできるような存在は、人でも物でも限られている。何かを選べ、いくつか選べと言われても、それで満足などできない。アラビアの夕日も北極のオーロラも両方ほしいし選べない。
しょせんだめなら、もうそういったすべてのものを自分で持たずに他人に管理してもらうしかない。
私は天皇制も王室制度も女人禁制も否定するし好きではない。だが、そういう制度のもとに美しい自然や建築や人間関係が保存され、それを手に入れることはできないが、目にすることによって人々が力づけられ心をいやされ、自分の生活にも応用し生かせるというシステムが効果的であることもあるのは理解できる。手のとどかないスターやタレントの幸福な家庭や友人関係を見ている人たちの気持ちも同様で、どこかにそんな人たちが生きていて、そんな世界が存在していると思うだけで、幸福になれるし、生きる力を得ることもある。

だから私は幸福な家族や恋人、友人どうしを見ているのが楽しい。本当にすばらしいと思える家や財産を他人が享受しているのを見るのが楽しい。自分がそこに加わっていなくても、たとえば身につけない高価な宝石がひきだしの中にしまってあると思っただけでも笑みがこぼれてくるように満足する。

神様モードで気分は最高

昔からそうだった。幼い時の私が一番好きだった時間は、自分のへやで暗い中で寝ている時、家族や客たちが隣の部屋で私の聞いていることを知らないで、にぎやかに楽しそうに酒を飲んだり騒いだりしている声を、欄間からもれてくるわずかな光を見ながら、寝床の中で聞くことだった。学校時代もクラスが分裂したり誰かが孤立したりしないように気を配って、皆が仲よく楽しく遊んでいると確信したあとでこっそり一人ぬけだして、校舎の裏の柳の木の下で、目の前の池を見ながらのんびりあくびして、遠くに皆の楽しそうな笑い声を聞いているのが至福のひとときだった。

私がいなくても皆が幸福ですごしている。世界のどこかに美しい場所、楽しい世界がきちんと保存されている。それはいつも私が思い描く最大の幸福だった。それらは結局、皆私のものだったから。
その逆に、自分が最高のぜいたくをしていても、どこかにみじめで不幸な人たちがいると思ったその時点で、私の幸福は汚れて傷がついてしまう。
私は神も仏も信じていない。しかし、あの暗い子ども部屋の寝床や、校舎の裏の池のほとりで私が味わった幸福は、あるいは神が感じるものだったのかもしれないと思う。そして宮殿を出て不幸な世界を見た釈迦の気持ちもまた私は、手にとるように、よくわかる。

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カツジ猫