ラフな格差論9-生きるためならしかたがない

革命や反抗が成功する条件

「スパルタカス」の映画やドラマにせよ、漫画の「カムイ伝」にせよ、最低限の暮らしをし、もうこれ以上我慢していたら死ぬしかないと思った人たちが生きるために最後の努力をしようとする時、それはそこまで困っていない他の人たちも救う正義の戦いになることがある。わかりやすい場合で言うと、圧制者を倒すとか悪い法律を変えるとか。

もちろん、いつもそうなるとは限っていない。「そこまで困っていない人たち」の共感や支持を得られなければ、彼らの戦いは敗北し彼らは滅びる。逆に彼らが倒そうとして成功し、滅ぼしてしまう支配者層の中にはそれほどひどい悪人ではなかったのに、いっしょくたに滅ぼされてしまう人もいるかもしれない。

最底辺の声を聞け

生まれ育った時代のせいか、小説をはじめとするいろんな本を読んだせいか、その他の何かの理由からか、私はそのどちらの場合でも・・・敗北して滅びてしまっても、勝利して悪だけでなくとばっちりで滅ぼされる犠牲を生んでも、最底辺で最も苦しんでいる人たちの戦いは常に正義であり必要であり、それに耳を貸さずにいることは私がどういう立場にいても危険なことだと思っていた。
私が支配者でもその側近でもかなり遠い存在でも最低限の人たちに近い位置でも、要するにどこにいても、最も苦しんでいる人の声に耳を傾けないでいることは、私をふくめた人類全体を危機にさらすことだと感じていた。
それは私にとっては常識で皮膚感覚だったと言っていい。だが今では多分世間一般でそうはなっていないだろう。自分の住む社会で世界で共同体で最低の存在があげる悲鳴や抗議や怒号は、かなり多くの人たちにとって自分をおびやかす不愉快なもの、不快なもの、忘れていたいものだろう。

私は今でも、どこであれ誰であれ、そういう最低の存在の人たちがあげる叫びは、この私の代わりにあげてくれている叫びであり、私を助けてくれるものとして、ありがたく、ほっとする、感謝したくなる声であるとしか感じられない。
それは、いつ自分もそこに落ちてそうなるかもしれない場所で私の代わりに戦ってくれている人の声である。その人たちの叫びによって、少しでもその最低の場所が改善されれば、将来万一自分がそこに落ちて行っても少しは今より住みやすくなっているわけである。

次に落ちるのは私たち

また私は、最低の場所や存在がひどい状態になることを許せば、次はその少し上がそういう状態になると思っている。弱い者や少数の者、ひどい目にあわせても大丈夫な者から、我慢させ切り捨てて行こうとしていると、結局、最低の人の生活水準が切り下げられたら、次はその上の人の生活水準も切り下げられ、文句をあまり言いそうにない、言っても聞いてもらえそうにない人から順に、どんどんひどい状態が広がってゆく。
最後に勝って生き残る一握りの人には、ほとんどの人がなれない。そういう状態になった社会や世界で少数の人が幸福に豊かに生きようと思っても、世界や社会全体の生活水準がひどくなっていたら、多分もうそんな幸福も維持はできない。

痛い、苦しいと口にするのは義務

「どこが痛いか言って下さい」と医者は患者に言う。最低の水準でひどい暮らしをしている人が、その実態を訴え改善を求めることは、世の中全体の健康状態をチェックし治療するために絶対必要で欠かすことができない大切な作業だ。ひどい状態にある人たちは、その実態を改善してほしいと訴える権利どころか義務がある。

大学改革が行われ組織の改編が行われるたび、私は一番条件が悪そうな皆が行きたがらないような部署こそ快適にし優遇し、それでも不安や未知数の要素があるなら、改編を行った当のメンバーが率先してそこに行くべきだと主張した。自分自身もそうしてきた。最低の場所をどれだけ快適にし、そこに住む人たちをどれだけ幸福にできるかが、その社会の安定と発展を保障する。

私は勇敢な人間でも高潔な人間でもない。ぜいたくが好きだし、怠惰だ。それでも、いや、だからこそ、私の理想とする最高の幸福は、私以上に不幸で不遇で貧しい人間はいないと確信できる、この世で最低の場所に住み最低の生活をすることだ。そして、これが何より重要だが、その場所と生活が、快適で満足できるものであることだ。

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カツジ猫