ラフな格差論5-神も人民も守ってくれない

キリストとマルクス

キリスト教とマルクス主義もしくは社会主義、共産主義は相性が悪いということになっているようだ。フランスレジスタンスを讃えたアラゴンの詩は「神を信じた者も信じなかった者も」とナチスに抵抗した人々の共同戦線を表現するが、それはふだんはその両者が共闘することは難しいからこそ感動的なのでもある。

だが、幼い頃から多分今でもそうだが、私の中ではずっとこの両者は同じような存在だった。実際には私の周辺でも日本でも外国でも、クリスチャンで共産党員という人は珍しくないから、これはこれで、そうまちがった感覚でもあるまい。
あえて言うなら、戦後という時代もあったかもしれないし、その両方の知り合いが多かった家庭環境もあったかもしれない。(まあ、仏教関係者や国粋主義者とも、そこそこつきあいのある家族ではあったが。)それ以上に小説を多く読んでいるとどうしても外国や日本の知識人の世界は、社会主義とキリスト教の色彩が強い・・・違うか?

私は彼らに愛されてない

ともあれ、その二つは漠然と私の行動規範や倫理の基準になっていた。それは、弱い者、虐げられた者をいたわり救うということ、清廉潔白で公正で無私であるということだった。私はその二つの思想のどちらにも恐怖を抱かず、親しみと信頼と温かさを感じていた。何よりも頼りになる存在だったと言っていい。
そして、それにもかかわらず、私はいつもどこかで強く静かに確信していた。私の最もつらい苦しみや悲しみは、この二つの存在は決して認めてくれないと。

私は優等生で家もそこそこ豊かだった。本当は父がいなくて美人でもなくて体育は劣等生だったのに、なぜかそのことに私も周囲も気づかなかったのは今思っても実にふしぎだ。(笑)常にあこがれられ、うらやまれ、文句などあるはずもない人間として扱われ、実際いうべき文句がなかった。
もちろん、その頃は、誰もがそれぞれに文句を言わずに我慢していたのだろう。それが美徳とさえも意識せずに。

ただ私はその中で、たとえばもし貧しい家の子どもや成績の悪い友人が、そのことに不満をもらし怒りを燃やし抗議の叫びをあげたなら、親や先生や世間はともかく、神様と革命家は絶対にそれを理解し支持し認めて彼らを力づけ慰め戦ってくれると知っていた。
一方でもし私が、彼らに対して不満や怒りをぶつけたら、神や革命家は絶対に私の味方にはならず、私をいさめ叱り、下手したらたたきのめして滅ぼすだろうと知っていた。

私はそのことに不満は持たなかった。そして、世間や家族や学校で私はいつもあたたかく守られて認められていたから、いつも幸せだった。今でもだ。
ただ自分でも気づかずに、ひどく自分が無防備であると感じたり淋しいような気持ちになることがある。
自分の最も信頼し愛する人が、私を最も誰よりも理解し愛してくれることは決してない。愚かな人への軽蔑、弱い者への怒り、そういうものは確かに私に存在するが、それが認められることはあり得ない。あっては困ると誰よりも私自身が思っている。私が神や革命家に理解され愛されるのは、私が最高に決定的に不幸になった時だけで、今持っている幸福のすべてを失うのとひきかえに、それは得られる愛なのだと思う。

孤独であたりまえ

こんな感覚を持つ人がどれだけいるのか私には見当もつかない。知らなくても別に困らない。こんなことに仲間や同志がいたら、それもどこかおかしい。
ただ、私が、法律にも常識にもまったく守られない、誰にも理解も認めもしてもらえない悩みや苦しみを抱く社会的弱者の恐怖やあきらめ、孤独を少しでも理解できるのは、この感覚が自分にあるからだと思う。

強者や優れた存在には、持ってはならない、抱いてはならない感情がある。決して認めてもらえない、許されない痛みや疲労がある。それがなくなったら、もうその人は強くも優れてもいないし、エリートでも人の上に立つ存在でもない。死守する気はないが、そういうこともあって、このふしぎな淋しさを持てる間は大切にしておきたい。

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カツジ猫