ラフな格差論15-それぞれの穴の奥

ばててる時に言うこっちゃないよ

格差についてだけでなく、最近よく言われるのは、「努力がたりない」「向上心がない」ということである。
しかし、人間が疲れきって、へたれきっている時にはそんなこと言われてもどうしようもなく、開き直ってふてくされるか、無理をして死んでしまうか、その前に自殺してしまうか、そういうことしか道はない。

そういう場合は別として、疲れきっているのではなくても人間には、努力が恐いということもある。全力投球してしまってそれでもだめだったら、あとがない。最後の切り札は使えない。そんな心理で努力するのをためらう人も、きっといる。

やればできるは、やらないと同じ、でもない

私の周囲でも、「全力でやらなかったから」「本当はもっとやれるんだから」ということを言葉や態度で示す人は多かった。「あいつは、やればできるんだけど」と周囲が言う人も多かった。私はいつも、「それは結局、実力がないのと同じだ」「発揮しなければ、それは実力じゃない」と、そういう本人にも周囲にも言ってきた。

だが、そう言う私自身、「美人はうらやましくない」で書いたように、「やればもっとできる」見込みのあることを、あえてやらずに、「この程度で通用する」とたしかめることで、逆に自信を得ていることもある。
それは、限界を見ることを恐れる臆病さか。そういうこともあるだろうが、いつもそうとは限らない。

まちがっていそうな選択肢から選ぶ

美人になることに関してだけでなく、私の生き方はいつもそうだった。たとえば選択肢がいくつかあって迷う時、私はいつも多分まちがっていると思うものから先にためした。ゲーム風に言うと、眼前に三つのほら穴があると、行き詰まりになっていて毒蛇がいそうな穴や、落とし穴や釣り天井がしかけられたあげく、元の場所に戻ってきそうな穴の方からまず入ってみた。ひょっとその穴が正解で、首尾よくいっぺんで山の向こうに抜けられると、得ではなく損をした気持ちになったものだ。見ないですんだ、知らないままに終わった穴の先には何があったのか、ずっと気にかかってしょうがなかった。

それは私のぜいたくだった。同時に良心でもあった。後から来る人のために、毒蛇は殺しておきたかったし、不用と確認した穴はふさいでおきたかった。
いつからか、その生き方をやめたのは、時間がなくなったと思ったからだ。それは自分が年を取ったからか、世の中がそういう無駄を許さなくなったからか、どちらなのかはよくわからない。
ただ、どちらにせよ、時間がなくなったと言っても、いったいどこへ到達するための時間なのか? 見ない、踏み込まない穴をいくつも残して、距離だけのばすことがそんなに大事なほど、目的地ははっきりしているのだろうか?

自分の美貌をみがく最大限の努力をしないで、どこまで他の魅力で勝負できるか試すのは、一つの限界はきわめないが、別の限界をきわめることだ。
ことさらに可能性のない穴を試すことは、あらゆる可能性をためすことでもある。

使わないものを持っちゃ悪いか

「使わないでいるものなら捨てろ」というのも、これまた今では常識となったことばだが、それがこれだけくりかえされるのも多くの人にとって、それが難しいことを示している。
まだしないでいる努力、最後にとっておく可能性の高い穴もそれと似ている。使わないでいるものがあるということは、人を安らかに元気づけるし、何かに耐えたり挑戦したりする力を育てたり養ったりする。

向上心がなければ、努力しなければ、全力投球しなければ、人は生きていく権利がない。そうしない人間には、どんな文句も言う資格はない。そういう意見もあるのはわかる。だがそれが常識になり、鉄則になるのは危険だ。
向上心がない人もいていい。努力しない生き方もあっていい。全力投球しない権利もある。誰もが何かについて、「まだしていない努力」「使わないけれどいつか使うもの」という、心の預貯金を持つことは許される。

しぼりつくすと、いいことはない

誰もが同じ方向に向かって最速で走り、そのことを常に証明していないと生きることさえ許されない社会は、危険だし弱い。憲法その他が保障する、最低の文化的な生活が、どの程度のものでどんな条件を備えたものかは、慎重に正確に検討する必要があるが、それだけは絶対にあらゆる人に保障しなければならない。努力や向上心や全力投球を要求するのは、あくまでその上でのことだ。生活保護を受けている人にも一定の貯蓄は認めるのと同様、どんな人にも一定の怠惰や無為を許さなくてはならない。あらゆる人に全力投球で生きろと要請し、努力のすべてをしぼりつくすことは、誰にとってもプラスにならないし、第一不可能なことである。

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カツジ猫