ラフな格差論13-塀の中の幸福

壁の外は地獄

芥川龍之介「蜘蛛の糸」の悪人はお釈迦さまが極楽からたらしてくれた、細い蜘蛛の糸をよじのぼって地獄から脱出中、自分の下から大勢の人たちが同じ糸をよじのぼってくるのに仰天し、来るな来るなおれの糸だと叫んだとたんに、糸が切れてまっさかさまに地獄に逆戻りに墜落した。

ポー「赤死病の仮面」では、疫病が流行する世界を遮断して裕福な人たちが豪華な屋敷にたてこもって、疫病がおさまるまでぜいたくざんまいの日々を過ごそうとする。

ワイルド「若い王」は戴冠式の日に身につける衣装や宝玉のためにどんなに多くの人々が苦しみ死んでいるかを夢でみて、それらのすべてを身につけることを拒否した。

さまざまに状況はちがうが、いずれも自分の安全や幸福をかちえよう、守ろうと願い、あるいは周囲がそうさせて、苦しみ滅びる人々との間に強固なバリケードを作って不幸な人の侵入をくいとめようとする位置にいる人の話である。

見捨てる瞬間

人間には時にはどうしてもそうしなくてはならないこともあるだろう。死にかけていたのを拾って育ててやった猫が、自分と同じような野良猫が家に近づくのを見て、うなって追い返すのを何度も見た。
猫はいざしらず、人間にとって、それは本当はとても苦しい不幸なことだ。戦争や災害の際、肉親や見知らぬ人を捨てて逃げなくてはならなかった人は言うまでもなく、日常でも家族や隣人の不幸に目をつぶって自分と愛する者たちを守らなくてはならないのは、決して喜ばしいことではない。

介護者の自己嫌悪

友人で母を介護している人がいる。彼女は母にそれなりの世話をして幸福にした後はまだいいが、充分にそばにいてやれなかったりして母を不満で不幸な状態のまま、自分の暮らしに戻る時が最高に苦しいという。本来ならそんな時、気持ちをきりかえて新しいエネルギーとパワーを得るためにおいしい食事をするとかショッピングするとか芝居を見るとかしたらいい、むしろしなくては自殺しそうな心境なのだが、しかし、そういう時、母が不幸でいる今、自分がそういうことをしても苦しいだけで少しも気持ちが晴れないし切り替えられないし、どんどん救われない不幸のスパイラルに落ち込んで行ってしまうのだという。母を救うことはもうできない。そんな気分に第一なれない。だがそんな自分も許せないし、救えない。どよんとひたすら立ちつくすだけで、何ひとつ進んで行ける方向がないのだそうだ。
幼い子ども二人をアパートに残して、ホストの恋人の家に泊まりつづけ、二人を飢え死にさせた若い母親の気持ちが痛いほどわかると彼女は言っていた。生きよう、死ぬまいと思ったら、あれしかなくなる瞬間はきっといつか自分にも訪れるだろう、と。

子どもたちを餓死させた母

幼い二人のことを思いやるだけで目がくらみそうになるぐらい、あの事件は私たちを戦慄させた。しかし私はあの母親が子どもを見捨てて男友達と無為な時間を過ごしていた間、決して幸福だったとは思えない。批判を承知で言うならば、暑さと渇きの中で死んだ二人の幼児以上に彼女にとって、その間の時間は地獄だったのではないだろうか。

「蜘蛛の糸」の悪人カンダタにとって、地獄で苦しんでいた間や、再び落ちてからの永劫の苦しみにもまして、救われると思った望みの糸の中間で、下から大勢が上ってきているのを目にした時の恐怖と怒りと憎しみこそが、最大の地獄だったかもしれないように。

壁の中も本当は地獄

格差社会の定義も実態も私はよく知らない。ただ漠然と感じるのは、格差のある社会は、その底辺にいる者以上に、底辺に落ちまいとして自分の持っている幸福を守り、奪われることを恐れつづけて生きる人たちにとってこそ、まぎれもない地獄そのものではないかということだ。赤死病の恐怖をしめだして宴会にあけくれる人々のように、蜘蛛の糸の中間で下にぶらさがっている人たちに戦慄するカンダタのように、幼い子どもの死を忘れて恋人と眠る母親のように、私たちの多くは今生きている。格差社会の犠牲者は切り捨てられる人たちではない。切り捨てて生きることを余儀なくされている人たちなのだ。

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カツジ猫