ラフな格差論14-美人はうらやましくない

思えば私はブスだった

これを書こうとしていて思い出すまですっかり忘れていたが、私は30代前半ごろまで、永久歯が生えそこなって前歯がハの字になっていた。子どものころは美人の従姉二人といつも遊んでいて、団子鼻と家族親族から笑われていた。高校までは体重が60キロ以上あって男の子たちからブタとかデブとか言われていた。

ちょっと待てそれってめちゃくちゃいじめじゃないかと今なら誰もがそれ以外の連想はできないだろうが、しかし私は家族からはかわいがられ成績や性格をほめられ、学校では他の子たちからもだが、そういうことを言う男子たちから特に尊敬され信頼されていた。
大学での勉強でも就職してからの仕事でも、苦労も挫折も忍耐もあったが、むしろ実力以上に評価されたし、ぬけぬけと言うが愛された。外見にかかわらずでもないし、外見ゆえにでもない、どんな外見もそれが私のものである以上、尊敬や信頼や恋愛の対象になった。

そのくせ好みはやかましい

その一方で私は人の好みについては男女を問わず超やかましい。映画俳優でも身近な知人友人でも、人が美しいと思う大半の人を私は美しいと思えない。美しいと思っても、しぐさや表情、声、話、仕事の能力、さらには主義主張、思想信条、その生き方がちょっとでも気に入らなかったら、もう興ざめる。
それじゃ気に入った相手などいないだろうと言われればその通りだ。そのかわり、大抵の人がどこかいいところがあるから好きになる。事実、人でも猫でも私が最高に好きな相手は大抵、私と気が合わなかったり私をいらだたせたりするし、私も相手をそうさせているだろうと思う。人生同様、人づきあいも猫づきあいも、苦しみがなければ楽しみは得られない。
この二つの体験から来る実感に、美人と自分との関係を私が考える基礎がある。

「好き」と「なりたい」が、つながらない

私は男女を問わず美しい人が好きだ。見ていたら楽しい。だが自分がそうなりたいとは思わない。そうなっては困るとも思わない。要するにそこに思考の回路がつながらない。富士山やエメラルドが美しいと思っても、富士山やエメラルドになりたいとは思わないようにだ。

美人がうらやましいと思う人の中には、美人になりたいと思うのと同じかそれ以上に、美人がその美貌ゆえに得ているものを自分もほしいと思う人も多いのだろう。金持ちや天才と同様、私は美人もなってみたらそれほど楽しいばかりではなく、いやなことも相当に多かろう、第一そうやって「ああなりたい」という目で見られたり思われたりすること自体が私のような人間にはがまんできまいと思うのだが、かりにそう願うとしても、それは自分にできることをまずやってからだと考える。

うらやむ前に努力しないと

私も十年に一回ぐらいは美人でないために不愉快なことを言われたりされたりすることはある。だが、その時に私はこれを避けるために必要な努力を私はまだしていないと思う。
ひとつは、そんなことをその相手に言わせたり思いつかせたりしないだけの私への好意や愛を相手に抱かせるだけの工夫や努力をしていないこと。相手が周囲や力関係に影響されてそうしているバカだったら周囲や力関係を変えることも含めて、そういう内面の努力がまだ足りないと考える。

やればできるという展望

もうひとつは、私の肉体と容貌を徹底的に磨き上げ美しく見せる努力をしていないこと。実は私は三十代の一時期と、その後時々を除いては化粧もまったくしたことはない。しかし、その別に理由もなく化粧していた一時期や、やせていた一時期をふりかえると、周囲の反応も自分の気分も確実に美人になった気分だった。例の歯も差し歯に変え、服装や髪形に金をかけるなど、やってみればいくらでも、前よりきれいになる方法はあった。何だかだで他のことに忙しいからダイエットをさぼり化粧もさぼっている身としては、そして、どの程度手抜きしても男や周囲や世の中に自分を愛させられるだろうと挑戦しては、今でこれなら化粧やダイエットしたら、どれだけ人々を悩殺できるだろうかとほくそ笑んでいる身としては、美人をうらやんでいるヒマなど、とてもない。

何か途方もなくあんたはまちがっていると言われそうな気もする。しかし、自分や周囲を見ても、こういうことは実際に多いと感じる。世の中は美醜や外見で得るものや失うものが決まるほど、単純ではない。少なくとも、個人の努力で何とかできる範囲以上にそれが決定的な要因になるとは、実感としてとても思えない。

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カツジ猫