ラフな格差論17-業績の数え方
大学の先生になる方法
私はもう定年退職したので、今はどうなっているか知らないが、どちらにしても、大学その他で教員の採用や昇任の時に、業績を評価するのは、いろいろ難しい問題があることに変わりはないだろう。
昔からある基準は、著書や論文、研究発表などいわゆる研究業績である。最近ではこれに教育活動を加えたりすることもあるが、まだ形式が確立していない。
この研究業績の数え方が問題になる。理系文系その他分野のちがいによって、一年に数本論文を書くのがあたりまえの学問もあれば、一年一本でも書き過ぎ(つまり粗製乱造)と思われる学問もある。大変長い論文もあれば、数ページにも満たない報告だが大発見を述べているものもある。誰にでもわかる基準としての、本数や文字数では、はかれないことが多すぎる。
何とか基準を作ろうとする人は、それが国際的にも有名な雑誌に掲載されたか、町内会の同人誌に掲載されたか等でランクづけして点数をつけようと思ったりする。ところが私自身もそうだが、研究者の中にはわざと、名もない小さな雑誌にものすごい研究内容を発表したりする人もいる。少なくとも、発表する場によって手を抜いたり力を抜いたりすることは、ちゃんとした研究者なら絶対にしない。そんなことをしたら、いろんな意味で自殺行為であるという常識ぐらいは、まだ日本文学の研究者の中にはある(だろう)。
一口に著書と言ってもピンキリ
著書がこれまた問題で、学術書も教科書も教養書もエッセイも、どこまで業績として認めるかは、はっきり言って機関によってさまざまであり、特に今は大学の制度が変わりつつあって、いろいろな場合が想定される。
私が採用され昇任して行った時代は基本的には、何を著書とし論文として挙げるかは本人の判断にまかされていた。審査の段階で、これは業績とは言えないと検討の対象から外されることはあったが、それで印象が悪くなるようなことはなかった。
私自身はエッセイのような本も平気で業績に挙げていた。今ならクレームがついたかもしれない。その一方で翻刻や注釈を業績に挙げなかった。「これは論文か」と文句を言われるのがいやだったからだが、今考えるとこれはまちがっていた。資料調査、翻刻、注釈、辞書の一部担当、翻訳、現代語訳などは、論文ではなくても重要で貴重な仕事で、これを業績として認めさせる努力をしなかったのは、それこそ自殺行為だったと反省している。
今は誰でも出版はできる
著書の定義が難しくなったひとつは、昔とちがって、本を個人や小規模な団体で出すことが簡単になったせいもあるだろう。昔はとにかく出版されるような本なら、著書としての内容はあるというのが普通だったし、研究者が書くのはほとんどが学術書と決まっていた。
私の博士論文は一般向きの教養書の体裁で出版された本だったので、面接で「珍しいきれいな表紙の本を読ませてもらって」と面接官の先生の一人から言われた。ひょっとしたら皮肉だったのかもしれないが、私はそれを押しも押されもせぬ学術書と信じていたから、にっこり笑ってびくともせず、ずっと後になって、ちょっと異例だったかなと気がついた。
その頃は、それが珍しかった。だが最近ではむしろ若手の研究者が、一般向きの教養書というかたちで博士論文級の学術書を書くのは普通になってきている。いろんな場所でそういった本を読んで審査することがあって気づいたのだが、自分自身の場合も含めて、これには一つ問題がある。
売るためには難しいことを書けない
私はそれまで書いていた論文をまとめて、その本を出版したのだが、その際「一般の読者には難しいだろし興味もわかないだろう」と判断した個所は編集者と相談して削除した。新書などの出版では、もっとそうした。
若い人のそういう教養書を読んでいると、随所で明らかにつめが甘い。ここの証明は不十分だ、ここの資料は欠落している、この論証には飛躍がある、そういう部分がいくつもある。
だが、自分の体験からしても、これは専門外の読者にとっては冗長になり煩瑣になりすぎるから、あえて書いていないのだろうなと推測できる。
推測できるが確信ではない。もとになった論文でも添付されていれば別だが、その本だけで判断する限り、研究としては甘いし雑と判断せざるを得ないのだ。
著書を研究業績として提出し評価してもらう際には、もとになった論文も提出するなりして補充しないと、そういう危険もあると思う。もとの論文もない書きおろしなら、読者サービスを犠牲にするか、研究業績としての評価を犠牲にするか慎重に工夫した方がいい。
選別なんて、決定的な優劣を決めるもんじゃない
まだまだあるが、きりがない。要するに、評価され選別されるというのは、職を得たり資金を得たりする点で重要だが、決して自分の価値を判断されるものではないということだ。予算や人員が限られている以上、評価や選別はやむをえまい。だがその結果には実にさまざまな要素がからむ。不正や誤謬はないにしても、客観性や正確さを過度に信じると危険である。