ラフな格差論6-マイダンニコフの憂鬱

 

ソ連という国のはじまり

「静かなるドン」と言ったら漫画のタイトルしか知らない人も多いだろうが、もともとはロシア革命を描いたショーロホフの大長編小説だ。同じ作者に「開かれた処女地」という長編小説があることは、更に知る人は少ないだろう。革命以後の、社会主義体制に生まれ変わって行く小さい村が舞台で、私は「静かなるドン」以上にこの小説が好きだ。

「生まれ変わってゆく」と書くと、ひとりでにそうなるようだが、実際にはモスクワから派遣された労働者で共産党員の若者ダヴィドフの指導のもと、村人たちが懸命に新しい世界を築いて行く苦労が描かれる。反革命を企んで村に潜入する軍人や一本気なナグーリノフ、やや優柔不断なラズミョートノフなど、さまざまな人物が活躍する中に、マイダンニコフという中年の真面目な農民がいる。

彼は革命を支持しており、熱心に村の社会主義化に取り組んでいる。しかし彼には悩みがある。自分の飼っていた牛を深く愛していたために、村が共同で経営するコルホーズの農場にすべての牛がまとめて飼われるようになった後も、どうしても自分の牛が気にかかり、そこを訪れるたびに、つい自分の牛を熱心に世話してしまう。そのこと、という以前に、その心の動きに彼は深い罪悪感を感じて悩み、友人達にことあるごとに、自分はどうしても私有財産を大切にするという精神から脱却できないと告白して嘆くのだ。

それっていけないことですか?

こういう小説ではコサックの方言は東北弁で、マイダンニコフが「おら、どうしても、おらの牛のことが他の牛より気になってしまうだよ」といった調子でくどくど述懐するのは、あまり深刻な感じがしない。文庫本の解説で誰かが「このように悩む姿が深く心をうつ」とか書いているのを見て、冗談だろうと思ったほど、私はマイダンニコフの悩みはユーモラスな描写としかとらえられなかった。

言いかえれば私には、マイダンニコフの悩みは真剣に克服をめざすような性質のものだとは思えなかった。作者の意図はどうだったのかいまだにわからないのだが、私には社会主義社会でも何でも、マイダンニコフの心理は全然悪いものと感じられなかった。だが、今思うと、これは社会主義下でも資本主義下でも、私には譲れない心境であると同時に、どの体制の下でも許されない危険な感覚かもしれないと思う。

「貸して」と言われちゃ断れない

私は自分の持っている物を、持っていない人に与えろと言われたら、与えなくてはいけないと小さい頃から思っていた。持っていない人から「それがほしい」と言われたら、拒絶する理由が思いつけなかった。「貸して」「見せて」ならなおのこと、断れなかった。
それはしかたがないと、あきらめていた。ただ、いつも深く傷つき、つらかったのは、「この人にとって、この本、このおもちゃ、この人形、この鉛筆は、私にとってそうであると同じほど、かけがえのない、大切な、愛しているものなのだろうか」という疑問だった。「これが、私にとってどんなものか、それを知っていて、その上でなお、この人は私にそれを使わせて、貸して、読ませてと言っているのだろうか」という疑問だった。

そんなことは確認しようがないし、第一、他人が持っていて、まだ手にしてさえいないものを、愛せるわけがないし、大切に思えるはずがないのだから、そんな質問をしても相手が答えられるはずはないから、いつも黙って笑って気持ちよく貸したりやったりするしかなかった。それが明らかに気軽に粗末に扱われ、私がそれに感じたような魅力を引き出されないままに、こわされ、汚され、捨てられることもよくあった。私にとって、それがどういう存在だったか、相手には少しもわからないままで。

それで相手を責めたり恨んだりする気にはなれなかったが、ただ、自分に与えられたもの、今持っているものを大切にし、愛することに私はひどく慎重になった。それでも私は、与えられたもの、持っているものをいつも大切にし愛してしまう癖をやめられず、したがって、次には、何かを与えられたり持ったりすることが恐くなった。それを大切に守り育て、愛してしまったら、持っていない人からそれがほしいと言われた時、ひきわたさなくてはならないのが恐かった。

誰もが私のようになれば

だから私は、自分の周囲に、この世のすべてに、私の持っているものを持たない人をなくしたい。牛でも家でも人形でも洋服でも誰にも同じものを与えてもらえれば、私は自分にもらったそれを安心して愛し、いつくしみ、私だけのものとして心おきなく大切にできるだろう。「あなたには自分のがあるじゃない」とぐらいは、少なくとも言えるだろう。それでも万全に安全ではないことぐらいは承知しているが当座の気休めにはなる。
与えられたものを、自分にとってかけがえのないものに私はできる自信が、いつもある。だが、そのことが、何も与えられないでいる人にとっては決してわからないだろう。いろんな意味でそのことが、私は心配でたまらないのだ。

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カツジ猫