ラフな格差論7-身のほど知らず

 

見られたら汚される

私は人にうらやましがられるのが病的にきらいだ。何かを食べている時に猫でも犬でもじいっとそれを見ていると、耐えられない。その視線に耐えながら食べ続けることが絶対にできない。そのくらいなら、その食べ物を彼らに投げ与えてしまう。
昔、「クラス会でめだつ、奥様はだ~れ」というCMソングがあって、きらいという前に何を言いたいのかまったく理解できなかった。服装でも美貌でも、人からねたましげに見られるということが幸福とは全然思えなかった。成績でも何かの競技でも、それなりの成果をあげた時、うらやましそうに見られると、その成果に対する満足も消えるぐらい、ひたすらに不愉快だった。

友人、恋人、師弟等の人間関係でも、その相手とのつきあいそのものは最高に幸福でも、そのつきあいが誰か他の人から「いいなあ」とうらやましがられていると思った瞬間、もうその友人、恋人、師弟と遠ざかりたくなった。そんな気持ちを誰かに抱かせたこと自体で、もうその関係が汚されたような気がした。そんな気持ちを他人に持たせたこと自体、自分か相手に欠陥があるとしか感じられなかったのだ。

結局はいちゃもん

しかし、人によっては服装でも成績でも恋人でも、自分で楽しむだけでは完全でなく、周囲からの羨望や嫉妬があってこそ、初めてその幸福が完全になり、勝利感に酔いしれるということもあるのだろう。
そういう人に比べると、そういう幸福感はまったく感じない私の方が何だか性格が純粋で遠慮深くて高潔に見えるかもしれないが、そんなことはない。
私は人であれ、物であれ、地位であれ、自分が得て、手にしているものに対して、うらやましげな眼を注ぐ人に対し、「何という身の程知らずだ。おまえのような分際で、私ともあろうものを仮にもうらやましいと感じるなど、恐れ多いとは思わないのか」と、とっさに感じているのである。
言いかえれば、そのようなうらやましげな視線を私に投げる人は、「あなたの持っているそれは、私でも持てるのに、なぜかあなたが持っている」と言っているわけで、私がそれを持つのにふさわしくないと、いちゃもんをつけているとしか思えない。それがそんなに腹が立つというのも、自分が持っているものや得たものに対して、絶対的な自信がないからであろうが。

しかし、大神ゼウスが持っているいかづちを欲しそうにする相手に向かって、これをおまえが持ったらとたんに焼け死ぬって知ってるのかと言いたい気分はいつもどこか私の中にある。

苦労も危険もついて来る

この気分から生まれるのかその逆か、どっちが先かはわからないが、これまた私は他人をうらやましく思わないことは、ほとんど自分が病的と思うほどである。
まずもう本能的に、自分がうらやましがられた時、ものほしげにされた時の気分を思い出すから、絶対誰かをうらやましがってはその誰かにとても悪いという気がして、うらやむ気分になれない。誰だって、よほどのことがない限り、人を不愉快にはしたくない。
また、誰かが何かを持つか得るかしていたら、そのためにはその人はそれだけの苦労をし、今もしているだろうとそれも本能的に思う。傷つきもし、危険も冒し、何かを失いもしただろうと思う。その人の持つものを私が望むことは、その苦労や危険もひっくるめて望むことで、どんなものかわからないのに、そんな危険はとても冒せない。

だってそれは私ではない

決定的に思うのは、誰かが素晴らしい家族を持ち、莫大な財産を持ち、豪華な邸宅に住み、輝かしい経歴を築いていたとしても、その人は私ではないのである。だったら、私が同じものを得ても、同じ機会を与えられても、同じ結果を生むことはできまい。私とまったく同じもう一人の私がいて、今の私とちがう人生を歩んだら、あるいは私がもう一度ちがった生を生き直してみたら、それは今の私とどちらが幸福か比較できるかもしれないが、他人の得たもの、歩いた道を私と比べて何とする。友人でも地位でも恋人でも家でも、私が持つか他人が持つかで、その瞬間にちがったものになってしまうのに。

もっともう身も蓋もなく言ってしまうと、私はそもそもその人が、この私ではない時点で、何を得ていても持っていても、そのことに真剣には魅力を感じない。何よりも最高なのは、私自身であって、何を持っていようが、この私ではない時点で、その人は私に負けている。
おまえはいったい自分の何にそう自信があるのかと言われても困る。多分、この私の価値も、私以外の人にとっては大したものではあるまい。それでも私は、他ならぬこの私自身でない人なんか、うらやむ方法さえわからない。

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カツジ猫