「グラディエーターⅡ」感想続き
前の感想に続けます。
今ネットで見たら、けっこうCG使ってるらしい。だとしたら、昔に比べて技術が進んでるんだよなあ。
思いつくままに書いて行きます。前作と比べるし、悪口もまじるので、そこはお許しを。
とにかく最初に字幕担当が戸田奈津子と出たので、それだけでげっと思って、一瞬帰りたくなった。あの前作の名作を基本の基本からぶっこわしてくれた大間違い字幕をいけしゃあしゃあと作った人を、何でまたこの作品に使うの。「グラ」関係には二度と触れてもらいたくなかった人なのに。きっとまた、どこかでとんでもない誤訳をして作品ぶちこわしてるのじゃないかと、全編ずっと生きた心地もなかったわ。実は今でもまだ心配。ものすごくまちがった解釈の映画を見せられてるんじゃないか、真価が伝わってないんじゃないかという疑いから逃れられない。
もう大御所で、収入や名声や生活や経歴に問題はないかたなんでしょう。だったら何もわざわざこんな映画に関わらなくってもいいじゃありませんか。くやしくて情けなくて、だから思い切り批評もできない。本当に腹が立つ。
ひきつづき最初の部分で、前作の名場面を映像処理しつつ、どんどん出してくるから、おおとうれしくもあった一方、そこまで前作によっかかって作ってるのか大丈夫か、これは自信の表れなのかそれとも逆なのかと、またそこで落ち着かなくなった。
でも本編が始まると、そこの映像は圧倒的に美しくて壮大で緻密で、海から押し寄せる大艦隊なんて、映画「トロイ」とそっくりなだけに、「トロイ」が絵葉書みたいにちゃちに見えて、嫌味かいとつい思った。まあ私は「トロイ」の映画は大好きで、あの軽い絵葉書調がまたとても華やかで明るくて好きなのよ。だから、びくともしないんだけど。
主役の俳優さん(ポール・メスカル)は知らなかったのだけど、とてもよかったです。マキシマスやラッセル・クロウを意識したり対抗心やなんかをまったく感じさせない自然体で、マキシマスの重厚さや哀愁はまったくないんだけど、それが新世代というか育ちの良さというかをにじみ出させていて、その出自やら時代やらにすごくしっくりはまっていた。
超難しいと思うんですよ。ラッセル&マキシマスの後を継ぐのは。それを決して焼き直しじゃなく、カリカチュアでもなく、あー、時代が流れて、同じ素質や志を持つ別の剣闘士がいたんだなあと、ほんとに自然に納得してしまう存在感。ラッセルやマキシマスと似た場面もいくつかあるのに、それをやりすぎず、遠慮しすぎず、ほどよくきちんとこなしてしまうセンスの良さ。
そりゃ、マキシマスに比べれば、深刻さや複雑さはありません。でもそれはしかたがない。味わった体験の悲惨さが、段違いなわけだし、敵への憎しみも個人的な知り合いじゃない分、単純でややこしくないんだもの。
それは敵役の方もそうで、今回のバカ皇帝はゲタとカラカラという、何だか語呂合わせみたいな(笑)二人組なんですけど、狂気で空っぽで危険でアホな、見た目はそこそこかわいいという気味悪さは相当なもので、これまた俳優二人はとてもよくがんばってました。
でもそこでまた、あらためて感じるのは前作の敵役コモドゥスの内面の複雑さ、病んだ心の哀れさと不幸さで、それを演じきったホアキン・フェニックスの名演技です。私は小説以外に「コモドゥス論」という長い論文(笑)も書いて、彼をずたぼろに批判してますが、それは彼に夢中になった私の周囲の数人が、多分まったく何をしているのかもわからないまま、私や私のサイトや作品を攻撃しまくったことに対する防衛で、今思い出しても吐き気がし、その人たちは当時や今の私の感情に多分まったく気がついてないのでしょうが、私としては、もう多分死ぬまでその人たちと会ったり消息聞いたり名前聞いたりすることはないだろうというのが、人生最高の幸福だと思うぐらいに根強くしつこく、細かいことまで何ひとつ忘れていないし忘れる気もない。
しかし、そういうことになると言うのも結局コモドゥスの造型やホアキンの演技に、それだけの厚みや説得力があればこそで、それに比べれば、続編の皇帝ズは、薄っぺらでまるでもう紙人形です。まあ、それでいいんですけどね、この作品では、皇帝は。
一方でローマの将軍や奴隷商人なんかの入り組んだ政治闘争、人間模様は、これは前作よりもはるかに複雑です。それを退屈させずに見せるのは、これまたデンゼル・ワシントンや将軍役の人(ペドロ・パスカル)の演技力と存在感です。この部分がややこしいし、わかりにくいと感じる人もいるかも知れないけれど、決して興ざめや退屈までにはなっていない。
将軍と奴隷商人双方の誰が悪か正義か見えにくいし、わかりにくいのは、私にはまさに「現代」の世界を連想させました。マキシマスの悲劇は単純でまっすぐでした。先帝の夢、腐敗したローマ、大衆とスター、家族への愛と復讐。しかし、続編が描く実態は腐敗をきわめたローマの中で、人々の思惑や利害が入り乱れ、誰が敵かを見誤って主人公は迷走する。現代の世界情勢や武器商人や軍需産業の暗躍とも重なりそうな、その錯綜した複雑怪奇さ。これが今の私たちの戦いなのだ、と苦い決意をかみしめました。
その中でコニー・ニールセン演じるルッシラの役割りは、途方もなく重要になっている。ほとんどもう一人の主人公です。なのに気の毒に、それにふさわしい場面や展開があまり準備されていない。前作でもそうでしたが、ルッシラは、ものすごい大切な位置にいながら、ものすごく適当に使われて、それは今作でも変わってないことに、私はほとんど怒りを覚えます。
だから彼女は前作でも今作でも似たような場面ばかりで似たような演技を要求され、得体のしれないじれったい、しょうもない女性にさえ見えかねなくなっています。それをかろうじて食い止めているのはニールセンの格調高い雰囲気と力のこもった演技ですが、しかしそれにも限りがある。私が彼女なら、くやしくて欲求不満で死にそうになるでしょうよ。彼女の果たす役割りの重要さをしっかり理解していながら、それにふさわしい場面を監督は準備していないのだもの。
この映画と監督のすごいと思うのは、これだけの映画で、若い女性の主人公格がまったく登場しないのですよ。端役にさえも現れない。その潔さと言うか大胆さには、つくづく頭が下がります、マジで。
結局、若い美人女優の果たすべき役割りは全部ルッシラがになってるんです。年もとってるし、美貌も昔のようではない。なのに、ヒロインで母親で、女性代表ですよ、すごくないですか。主人公の奥さんなんて、すごく魅力的なのに、思い出の中にさえもほとんど出て来ない。ルッシラを霞ませてはいけないと思うんだろうか、まさか。
そこまで彼女を大役にするのなら、もっとていねいに設定し、もっといいセリフや場面をちゃんと作ってあげなければ。だからリドリー、あんたのすることは、立派なのに中途半端って言うんだよ。年だから無理ないとは言いたくない。言われたくもないだろ。どうしてもっと彼女の心理や立場を真剣に作ってあげないの。私ですらが、自分の非力を承知で、小説もどき「海の歌」や「その一夜」で、めいっぱい、彼女を描いてあげようとしたというのに。
あーもう、時間がなくなった。あと二つだけ。
前作ではほとんどまったく使われなかった弓矢が、今回は武器として最初から最後まで利用されまくりのアイテムになってましたね。主要人物も軒並み矢で殺されるし。歴史上の事実か映画の工夫か知りませんが、この変化は新鮮でした。
それから、パンフレットがなかったんだけど、これって発売されてないの? 宣伝がやたら派手なわりには、あまり力を入れてないのかな。ひょっとしてはやばやと終了になっちゃったらどうしよう。字幕版といっしょに吹替版も同時公開されてたから、これもぜひ、見とかなくちゃと思っているんですけどねえ。
あ、下の絵は、前回同様、前作「グラディエーター」の感想もどきの小説を「砂と手」シリーズとして刊行する予定の、第一冊の目次のページにくっつけようかと思ってるイラストです。下のモノクロのままにしようか、上のように薄く色を塗ろうかと、これも思案中。