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2026年度前期集中講義用掲示板(3)

(4)も作ったので、見ておいて下さい。

■長くなったので、(3)を作りました。(2)から続きます。

■前回と前々回の小レポートより

私は罰を受ける際、それが正当なものであると思えます。罰が与えられる以上、そこには何かしらの理が大きい小さいに拘らず、必ず存在するはずであり、また、その理由がすべて自身に当てはまらないとは言えないと考えられます。また、理由の有無に拘らず、罰を受けることは確定しているので理由はあると思っていた方が精神的にも楽だからです。
 だから私は、罰を受ける際、無理やりにでも理由をつけて正当化します。これは自身が犯したものへの反省でもあり、自身の心を守るための手段でもあります。

私は自分が悪いことして何かバツを受けるとなったとき、「そんなことになるようなことを自分がしてしまった」と納得して受ける方が楽な気がします。もし自分が間違っていたら自分のことが許せなくなってしまうと思ったからです。自分には全く非がなかったり、はたまた大きすぎるバツの場は、「これは不当だ」と考えるかもしれませんが基本的には前者のような反応になると思います。

心が楽であるのは納得した上で罰を受けることだと考える。その理由は受動的であることによってエネルギーを使わずにすむからである。「自分は違う」「この罰はおかしい」と思いながら罰を受けることは、自分の意思と異なることをされつづけるということであり、心への負荷が大きい。納得して受ける場合、それがあきらめゆえだったとしても、何も考えなくてよいという点で楽であると考えた。

私は、何か罰を受けるとするなら、「それは自分の犯した罪を思えば仕方のないことだ」と思いながら受け入れた方が、気分的に楽だと思います。その方が大小の差はあれど、自分が罰を受けることで、罪を償うことができているという気分になれるかと思うからです。怒りを持って不当だと思い続けて受ける罰は、ただ苦痛なものである一方で、罪を受け入れて受ける罰は苦しみを伴ったとしても少し心持ちが楽なのではないかと考えます。

私は罰を受けたときは、しょうがないと受け入れた方が、気持ちが楽になると考える。もし、相手の立場の方が上だから罰は受けるが、不当であるため認めはしないまま罰を受けても、現状が変わることはないため、ただストレスがたまるだけだと考える。一方で、しょうがないと罰を受け入れた場合は、罰を科してきた相手へのストレスはたまらないためしょうがないと受け入れた方が、気持ちが楽になると考える。

私は処分や罰を受ける時、自分にどれだけ非があるかで納得できる場合と納得できない場合があると思う。自分に全く非がない場合はもちろん他に何か原因がないかよく確認し抗議する。しかし、自分が「事前にもっとこうすれば良かった…」と反省する所があれば、処分や罰を受け入れると思う。

(板坂からの質問その1)逆に自分が罪を犯しても見逃されて罰を受けない時はどうする?名乗り出たりはしないのか?それは苦にならないのか?

(板坂からの質問その2)他者が罰を受けている場合は、やはり「それが当然」「何か悪いことをしたのだろう」と思うのか?その方が気が楽か?

(板坂からの質問その3)自分の味方や同じ価値観を持つ人たちが、遠い過去や未来、または遠い国や異世界、つまり距離的時間的に広く長い範囲で存在するかもしれないということを、可能性として考えることはないか?

誤解されていたことに対する弁解をしなかったのにも拘らず、後になって周囲の人々に罪悪感を与えるのは、本人に自覚がなくても、悪意のある行動なのではないかと思いました。

「怒りのぬれぎぬ」でもおこる周囲の強い反省や後悔について私は、物語上であればとても魅力的で好みの設定だと思う。「怒りのぬれぎぬ」の軽いものとして、「飄々と生きていたり悪者をかって出たりしていた人が実は…」というようなギャップのある設定が関係していると考えるが、個人々にこのような物語がとても好きである。現代における小説などでもしばしば見られ、ハッピーエンドのものから後味の悪いものもある。しかし現実で起こり、自分が後悔する側となれば話は別である。きっと自分も後悔を過ばらいするだろうし、その人のあるはずの悪い面も見えなくなってしまいそうだ。

普段から悪い行いをしている人が良い行いをすると、それまでの悪行が薄まる感覚はよく分かる。(略)反対に普段から良い行いをしている人、良い評価を得ている人が1つ悪いことをするとその人のイメージが下がってしまうということもある。これは芸能人で多いように思う。

子どものぬれぎぬは時に真っ直ぐであり計算高くないからこそ、ややこしく難しいものだと感じました。かっこいいから、はやくおわってほしいから、そんな素直な心によって起こるぬれぎぬは悪いともいい切れず、また大人の指導のしかたも悩ましいものだなと思います。特に次郎の母の「どうせ私には次郎を育てる力なんてありませんから」という一言は共感できるものであり、教育的愛情の難しさについても考えるものでした。

私は、無実の罪を着せられているときに妙に安心するということに関して、よく考えると少し納得すると感じた。無実の罪を着せられたとしても、自分は絶対にやっていないという自信から安心できるのではないかと考える。また、いつか自分の無実が晴れたときは、自分を有罪だと勘違いしていた人達がたちまちに謝ってくるのではないかという少しの期待も、妙な安心につながっているのではないかと考える。

また「次郎物語」から、人が無実の罪を着る経緯は簡単に予測することはできないと実感した。次郎がぬれぎぬを着たのは、人をかばいたかったからではなく、やってないことをやったと言ったら偉くなるのではないかと思ったからであり、そのような経緯は、到底予測できないと感じた。

怒りのぬれぎぬのリスクと「配所の月」について、後に受ける罰や受け入れる罪が重い場合でも、「ぬれぎぬを着たい」「妙な満足を感じて…」と思うのか、疑問に思った。罪が重い場合、ひどい拷問を受けて殺される可能性もある。ぬれぎぬを着ることを楽しむ人にとって、覚悟のぬれぎぬと怒りのぬれぎぬは、後々安全であること、罰が命や人生に関わるほどのものではないことが保障されている前提になるのではないかと思った。

私はできるだけ「ぬれぎぬ」とは無縁でいたいと思っています。私は五回が怖いです。知らないうちに知らないことに巻き込まれて嫌われるのが本当に怖いからです。怒りのぬれぎぬでは自分が濡れ衣をかけられることを魅力的に思っている内容が語られていますが、じぶんのやってないことのせきにんをとったり、責められたりしたりすることは私にとっては苦しいです。その点、ぬれぎぬを楽しむことができる人間は少し、羨ましいとも思います。

「次郎物語」は、ここで読めます。そろばんの話は最後の方にあります。

映画「マレーナ」映像など

■映画「愛と哀しみのボレロ」予告編。最後の方のダンスをお見逃しなく(笑)。

 

■次回の授業の小レポートの課題は、次の二つになるかもしれません。
  別にぶっつけで書いてもらって全然かまわないのですが、運よく(?)これを見た人は、前もって考えておいて下さるなら、ぜひどうぞ。

1.「反省して修正しすぎ」のケースをどう思うか。
  誰かに「ぬれぎぬ」を着せていたことに気づいた時、申し訳なさに、先入観の修正をしてしまいすぎることはないか?
 ネットなどでよく言われるのは、「札付きの不良が、雨の日に子猫を拾って助けてやってるのを見て、普段とのギャップ萌えで株が上がる」事例とか。

有名なのでは、漫画「こち亀」の両さんが、「えらいやつははじめからワルになんかならねえ」と更生した不良を皆がほめそやすのに反論するせりふがある。

2.自分が死刑でも叱責でも、何か処分や罰を受けた時、納得して反省して後悔して喜んでそれを受け入れるのと、納得できないで「敗北しただけで自分は正しい」と最後まで確認し続けるのと、どちらが楽か。幸せか。

どちらも正解はありません。「怒りのぬれぎぬ」を理解する時に役立ちそうなので、自分の気持ちを考えて見て下さればありがたいです。(5月8日)

映画「仮面の男」より

私が昔見た時の「仮面の男」の感想集。ミーハーすぎるのとネタばれとに注意。

■前回と前々回の小レポートより

(引用した部分以外にも、面白く興味ある記述は多くあるのですが、一部しか紹介できないのが残念です。どうぞ、おたがい話し合ったり、自分で考えを深めたりして、さらに発展させてほしいと思います。)

私は、今までは、ぬれぎぬをきてまで誰かを救う人は、勇敢ですごい人のような印象があった。しかし、この絵本(「ないた赤おに」)を読むことで、救った相手まで悲しんでしまうようなぬれぎぬは、本当にその人のためになっているのか考え直したくなった。また、汚名を着せられているすでに亡くなった人が、本当にそのような悪い人だったのかということについて、今まで考えてたことがなかったため、歴史上の人物や親戚など、様々な人について、今されている評価が妥当なのか考えたく思った。

覚悟のぬれぎぬそのものをまねるべき見本としたり、人の目指すところであると指導することは、自己犠牲の奨励であることから慎重であるべきだと考えます。一方で覚悟のぬれぎぬを「美しいと思う心」については否定せず、むしろほめて伸ばすべき道徳心ではないかと感じました。これら覚悟のぬれぎぬについて子どもに伝えることがもしあれば人物の行為そのものでなく、それを見て感じるもの、つまり情操に着目したいと感じました。

「予期せぬぬれぎぬ」に関する話の中で、少し出てきた「理不尽な被害を受けた人にとって最も耐えられないのは、そこから目をそむけられ、なかったことのされることでもある」という内容が印象的だった。たしかに、セクシャル・ハラスメントや性加害の被害にあった人に対して「被害を受けた」ということを世間に知られることが二度傷つけてしまうかもしれないという免罪符のもと、そもそも被害自体なかったことにしてしまうという事例が存在していることは事実であり、私自身もそのような態度に対してずっと疑問に思っていた。

これまでいくつかの作品を扱いながら、「覚悟のぬれぎぬ」について考えていったが、私の印象としては、この作品(「ないた赤おに」)が一番「覚悟のぬれぎぬ」が表されているなと感じた。(略)またこのような青おにの行動からは、赤おにを心から大切に思う気持ちが伝わってくるとともに、自分のために悪役となり、去ってしまった青おにに対して、赤おにはどのような感情を抱き、これからどのように生きていくのだろうかということも考えずにはいられなかった。

私がこの「覚悟のぬれぎぬ」で一番印象に残っているのは、ハリー・ポッターの◇◇◇◇◇◇です。(略)この作品では、最後に本当のことが打ちあけられて、いい人だったと分かりますが、それがない作品も少なくないようです。そのことを思うと、本当に幸せになってほしいと心の底から思います。

ただ今日の授業の中で、必ずしも「あの人は善人だった」と信じることが良いことではないと感じた。人間だれしも弱く人に見せたくない一面があるだろう。それをどう受けとめるのかというところに相手の愛情のようなものが表れるのではないか、というところに大きく納得した。

覚悟のぬれぎぬは予期せぬぬれぎぬとはまた違った印象を受けた。どこか「カッコよさ」や「これからそのぬれぎぬを着た人物がどうにかして救われないかという期待」を感じた。不憫さは感じさせない強く芯のあるぬれぎぬに今回魅力を感じた。

「花さき山」のように人のためを思って耐えるという話は、人が必ずしもそうすべきであるという訳ではない。しかし、山で花が咲いたように自分の知らないどこかで誰かに評価されているかもしれないという気持ちをもっていることで、人々の傲慢で自己中心的な気持ちが少し抑えられるのではないかと思った。

今回の講義で『菅原伝授手習鑑』を扱いました。その中で私が一番印象に残った場面は、菅秀才の身代わりとなった子どもが、松王の息子だったと明かされるところです。(略)ここで私が思ったのは、人の印象はたった一つの出来事でガラリと変わるということです。人は善人にも悪人にも一瞬にして変われるということが、今回の濡れ衣を通して感じることができました。

私が一番印象に残ったことはリチャード三世に関する記録についてです。彼の記録は様々であり、良い印象を与えるものもあれば悪い印象を与えるものもあります。この違いは記録者の立場や置かれた状況の違いから生まれるものであり、現代に生きる我々は昔の資料を研究するとき、何が正しいのかを精査し続ける意識が必要であると考えました。また、資料の種類においても公式・非公式によらないものの見方が大切であると考えました。

私は、ぬれぎぬや誤解があまり好きではなくて、小学生の頃も「青鬼くんはいい鬼だ」と考える前に「かわいそう」という気持ちが先に着て、少し悲しかったのを覚えています。
 話の内容とは異なるかもしれないけど、村の人々と仲良くなれた今と、青鬼が友達でそばにいた昔と、どちらが幸せなのだろうと思ったりもしていました。

「わたくしです物語」は、はじめて見たのですが、ぬれぎぬが良い方向の働く内容は珍しく、おもしろいと思ったので、もっと読みたいと思いました。

「怒りのぬれぎぬ」は、微妙でややこしいので、まずは、資料に使う「義経千本桜」を中心に説明します。しばらくは、「ぬれぎぬ」は忘れて、この劇の内容や背景について、じっくり理解することに集中して下さい。

■歌舞伎「義経千本桜」について

あらすじなど(1)(2)

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こちらも

いがみの権太

下は文楽の舞台です。

 

「摂州合邦辻」歌舞伎

 摂州合邦辻あらすじ

■以下は、前回の「覚悟のぬれぎぬ」の76・77ページあたりで話した、戦争犯罪に関する資料です。

■戦争トラウマについて(1)(2)(3)

戦争トラウマについて(1)

戦争トラウマについて(2)

戦争トラウマについて(3、これでおしまい)

■映画「告発のとき」予告編など

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