お買い物と文学7-蛇皮の靴

アメリカの海外ドラマや映画を見ていて、時々びっくりするのは、ミュージカル「レント」でレスビアンのカップルになって、ものすごいなんてもんじゃない歌唱力を見せつけていた二人の女優が、それぞれ「魔法にかけられて」や「プラダを着た悪魔」で、まるっきり歌わないで主要人物の一人を演技力だけで平然と演じていたり、映画「レ・ミゼラブル」の革命家アンジョルラスを演じた俳優がこれまた完璧に歌を封印して「グレイスランド」のドラマの主役をやったりすることだ。もったいないというよりも、他の俳優にしてみれば、すごい才能の分野だけでやっててくれるならともかく、二番手の片手間の分野でそこまで脚光を浴びるのは、市場の独占すぎないかとムカつくのではと思ってしまう。

しかしまあ、考えて見れば、その昔「ウェスト・サイド・ストーリー」の映画で、あれだけ歌とダンスで世界を魅了したジョージ・チャキリスが、「ブーベの恋人」では貧しいイタリアの共産党の青年に扮した名演技で、それこそ歌も踊りも一生無縁なような地味で寡黙な若者になりきっていたから、今さらびっくりするようなことでもないのかもしれない。

ちなみに私は「ウェスト・サイド・ストーリー」は劇場公開時に見たが、田舎の映画館の後ろの方の席で、遠くから見る画面は小さくて迫力がない上に、戦争や暴力が大嫌いだった中学生時代だった(まあ今でも嫌いだが)こともあって、あのカッコつけた不良少年グループに何の魅力も感じなかった。のちに、大学時代に友人といっしょに見て、うってかわったようにはまり、それ以来何度も見ている。しかし、チャキリスにしても、「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥールにしても、文句なしの名作に出たあとは、どこか感覚が狂うのか、オトゥールも「何かいいことないか子猫チャン」とかいう相当しょうもない映画に出てたし、チャキリスももうタイトルさえ忘れたが、怪盗ルパンみたいな実にくだらない泥棒映画の主役になってた。私はどちらも友人といっしょに見たが、その友人が誰だったかさえ思い出せないほど、印象が薄い。

本にしてくれないかなあとずっと思っているがなりそうにない、「週刊朝日」に荻昌弘さんが連載していた「週刊試写室」が、小中高時代ずっと私の映画鑑賞の指針だったのだが、「ブーベの恋人」は、そこでも大変ほめられていた。チャキリスも評価されていたと思うが、荻さんは、恋人役の素朴な田舎娘マーラを演じたクラウディア・カルディナーレを激賞していた。今では嘘のようだが、当時の映画の字幕ではブーベが共産党員であることをはばかったのか、訳が「共和党員」となっていた。荻さんはそれを怒って、「おそらくゴールドウォーター氏には無断で、共和党員と変えている」この字幕のヘタレぶりを皮肉をこめて批判していた。これも今では誰も覚えていないだろうが、ゴールドウォーター議員は当時のアメリカの共和党の、戦後では初めてなほど過激な極右で知られた人物であった。

今、DVDを見直すと、「ブーベの恋人」はよくできているし、主役二人も魅力的だ。だが、戦争と暴力は嫌いなくせに戦争映画は好きで、その一方、ノルマと思って一応の名作は全部見ていたが、「主役二人の顔しか見るものがない(戦争映画や冒険映画なら、大勢が登場するから、誰か気に入った人を探して目で追いつづける楽しみもあるが)」恋愛映画は基本的に退屈でつまらなかった私は、この映画にもそれほど心は動かされなかった。ほとんど唯一覚えているのは、ブーベと街に買い物に行ったマーラが、お菓子屋のショーケースの開け方がわからなくてもたついているのを、貧しくても彼女よりははるかに都会派のブーベが、すっと指で押して開けてやる場面だ。あの一瞬のチャキリスの動きはもしかしたら、ダンサーならではの優美な力強さだったかもしれないし、それはブーベのイメージをそこなってはいなかった。

映画が非常にうまく小説を活かしているので、どっちがどっちと言えないのだが、「ブーベの恋人」の小説も、荒削りで力強く、生命力にあふれている。二人の買い物の場面は、この若々しいが重苦しく、輝かしいが暗鬱な小説全体の中での、数少ない胸躍る、華やいだ場面でもある。それにしても、ケースを開ける場面、映画でも一瞬だったが、小説でも簡単なこと!

二人がはいったのは、コッレでは最高の店で、マーラも一度か二度だけはいったことがあった。テーブルは鉄製で、上に大理石が張られていた。カウンターは木製で、彫刻が施されていた。
「掛けるかい?」とブーベがマーラに聞いた。「それとも、立ってたほうがいいかい?」
マーラはちょっと考えてから、「立ってたほうがいいわ」と言った。彼女がそう決めたのは、カウンターの先に黒ずんだ鏡が見えたからだった。
「何にしようか? ミルク・コーヒー? ミルク・コーヒー二つくれ」とブーベが横柄な口調で注文した。「それと、何か食べたほうがいいな」と言いながら、ガラスのケースの中の紙皿にのったパン菓子やケーキを指さしてさらに言った。マーラはケースをあけようとして、ガラスの戸を反対の方へ押した。ブーベがあけてやった。「好きなのを取れよ」マーラはケーキを取りたかったが、手や口を汚すのが心配で、パン菓子で我慢した。客が多くて、マーラは気づまりだったが、そのことさえもなんとなく楽しく、笑いだしたいような気分になった。それに、ブーベといっしょだったから、へまをやる心配もなかった。彼はマナーを心得ていた。彼はまずレジスターのところへ行って金を払い、スーツケースを預け、チケットを手にして戻ってくると、それをカウンターの上に置き、その上に硬貨を一枚のせた。「ありがとうございます」と言いながらボーイは湯気の立つコーヒー茶碗をそこへ置いた。
「ブーベ」
「なんだい?」
「すばらしい人ね、あんたって」
「もっと小さい声で言えよ。聞こえるじゃないか」
「いいじゃないのよ」しかし彼女も、愛の言葉を人に聞かせるには及ばないことぐらいは承知していた。しかし実をいえば、今のはほんとうの愛の言葉ではなく、むしろ満足の表明だったのだ。

今思うと、私はこういう場面で男性がリードするのも好きじゃなかったのだろう。そして、セックスの場面は今では女性も積極的にリードするものが多いが、買い物の場面に関しては、女性が男性をリードする自然な描写って、今でもないのではないだろうか。年を取って余裕もできた現在、あらためて読むと、きびきびとマーラをエスコートするブーベは、かわいらしくもたのもしく、それに満足し信頼をよせるマーラもほほえましい。そして、ひきつづき、主な目的の靴を買う場面は映画でもクライマックスで、蛇皮の新しい靴をはいたマーラの足が踏みしめる舗道がクローズアップされて、テーマ音楽がいっぱいに流れるのを記憶している人もいるだろう。予告編でも、この映像が使われていたはずだ。

 

二人は雑踏を脱けだし、中央広場へ戻った。高級な店はそこのアーケードの下に並んでいるのだった。
「さあ、まず、きみの靴のことを考えるんだ」とブーベが宣言するように言った。
三段になっているガラスのショーウィンドーに、あらゆる種類の靴が並んでいた。しかしマーラの視線は、黄色と褐色のまだらになった靴のほうへたちまち吸い寄せられた。
「ねえ、ブーベ! あんた、ああいう靴、好き?」
「ぼくじゃなく、きみが好きでなきゃしようがないよ」とブーベはまじめくさって答えた。
「でも、あんただって少しは気にいるんでなくっちゃ。あたしの姿がよくなれば、あんただってうれしいでしょ?」
「ぼくには、そのままのきみがいいんだよ」
「こんな髪で?」マーラはしなをつくり、「わらくずみたいだわ」と笑った。
ブーベは彼女の髪を見やり、まるではじめて気がついたように言った。
「なるほど……きみの髪は少し……ぼくのに似ているな。ま、とにかくはいろう」とせかせかと彼は言った。
女店員は褐色の髪をしていて、黒くて艶のある上っ張りをじょうずに着こなし、唇をハートの形に塗っていた。
「ハイヒールを一足ほしいんだけど」とマーラは言った。
「どんなのがよろしいでしょうか?」
「外に出ているみたいな」
「どれでしょうか? ショーウィンドーにもたくさんございますけど」と女店員は答えて言った。
マーラは外へ出て、気にいったのを指差した。
「ああ、蛇皮のですね」と女店員は言った。「蛇皮?」とマーラはびっくりしてつぶやき、やめにすると言いかけたが、女店員はもう店内へ戻り、箱を降ろしていた。
ちょっと恥ずかしい気持ちを覚えながら、マーラはほころびていやな匂いのする古靴を脱ぎ、細くて高いかかとのついた、ピカピカの立派な靴をはいてみた。
「ちょうどいいかい?」とブーベが問いかけた。
「ぴったりよ」
「じゃあ、それにしよう。いくら?」
「千二百リラです」と女店員が言った。ブーベはまばたきもせずに金を払った。「そのままはいてらっしゃいますか?」と女店員が聞いた。「ええ」とマーラは答え、店を出ようとすると、女店員が呼び止め、古靴をしまったボール箱を渡した。
「毒蛇じゃないといいけど」と言ってマーラは笑った。「だけど、あたしがじかに払えばよかったわ。あたしなら千リラ以上は払わなかったのに」
「冗談じゃないよ。市でなら値切れるかもしれないが、ああいう店じゃだめだよ」
ハイヒールが煉瓦の舗石の上でコツコツとかわいた音をたてた。マーラは、ピカピカ光る靴先を見つめたり、ショーウィンドーに映る自分の歩く姿を横目で見たりした。ハイヒールをはくと、歩く姿勢がまるで変わった。まず、背が高くなった。いつもならブーベの肩までがやっとだったのに、今は彼の耳まで届いた。それに、歩きながらでは自分の姿をよく映してみることはできなかったが、体の線がきわだって見えることは確かだった。

(カルロ・カッソーラ「ブーベの恋人」 角川文庫 大久保昭男訳)

「二遊間の恋」でもそうだったが、この小説や映画にも、直接的なベッドシーンはない。それだけに、「二遊間の恋」と同様、二人が買い物をする場面は、それに代わるような、ときめきと華やぎを持つ。ブーベが「君が好きでなきゃ」と、自分の好みを押しつけないのも含めて、二人の関わりとからみあいが、優しくてまぶしい。

で、これが、「ウェスト・サイド・ストーリー」を何度もいっしょに見に行った、大学以来の親友に買ってもらった、「ノアの方舟」の木彫りの置き物。それこそ素朴な木切れのような動物たちとノア夫婦と絶対皆が乗れるわけはないという大きさの方舟のセットである。二人で街を歩いているとき、私が面白がって見ていると、友人がいきなり「買ってやろうか」と言って、買ってくれた。

私たちは性格も趣味もまるっきりちがう。私は小柄なので、彼女の方が背も高くて大きいが、性格はむしろ彼女が女性的で、別にどっちが保護者とか庇護者とかいう感覚は全然ない。まあ、私の方がわがままで、ぶち切れやすく、これまでにも人として許し難いようなひどいこともしているので、たとえば二人で山道を歩いていて、いきなり突き落とされて殺されても、私はああしかたがないなあと、あきらめて、裏切られたとかは決して思わないだろう。それに価するようなことを、私は何かしたのだろうと心の底から思うにちがいない。

それはともかく、前にも一度、私が喜んで見ていた、巨大な猫のぬいぐるみを、彼女は「買ってやろうか」と言って買ってくれ、私はうれしさの余り、それをかついで、彼女とずっと街を歩いたこともある。その猫もまだ健在で部屋の隅の椅子にいつも座っている。彼女が他の人にもこういうプレゼントをするのかどうか私は知らない。プレゼントというなら、私も彼女も、いろんな相手に、もちろんおたがいどうしにも、さまざまなものを贈りあう。だが、いっしょに歩いて買い物をしているときに、「買ってやろうか」と、目の前の物を買ってもらうことは、今気がつくと普通にはなかなかあるものではない。

のべつまくなし、あらゆるものを私に買ってくれていた叔母でさえ、自分が買うと決めたものの売り場に勝手に私を引っ張って行って、自分の好みで品物を選ぶのが常だった。そもそも、叔母にしてみれば、そうする他なかったろうと思うのは、私が何かほしいとか、どっちがいいと聞かれてこっちがいいとかいうことを、かたくななまでに口にしない子どもだったからだ。考えてみれば、叔母に限らず誰に対しても、ものに限らず何についても、私は「ほしい」とか「好き」とか「こうしたい」とか、言わないし態度にも示さないで生きて来た。ということは、「買ってやろうか」と相手に言わせるような、「あー、いいなあ、これほしい」といった、顔やことばを私が見せるのは、くだんの友人だけということになる。なるほど、原因は私にあるのか。

友人は買ってくれるとき、「どうせ、あんたの猫がその内に、この動物をひとつずつくわえて、どっかに持って行くんだろうけどな」と言っていた。だが、歴代の飼い猫は別に興味をしめさないまま、ノア一族は無事に永らえ、私は本棚の一段にこの置き物をずっと飾って、ときどきノア夫婦や動物たちの配置を変えては楽しんでいた。ここ数年は二階の書棚の片すみに置きっぱなして放っていたが、このほど二階を片づけたとき、窓辺において、あんまりあちこち手を出し過ぎる自分に対して、よその世界がどうなっても見殺しにして、自分の仕事と生活を守り抜くぞという戒めにした。

どこまで効果があるのだろうかと、折から続く大豪雨の中、今では共和党などとごまかされることもなく多くの人に受け入れられるようになった共産党をはじめとする野党が、災害対策に後手後手の政府の国会運営に抗議しているニュースに心をはせながら、ぼんやり考えている毎日である。

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