お買い物と文学11-英雄たちの経済事情
映画「L.A.コンフィデンシャル」で、同じオーストラリア出身のラッセル・クロウと、タイプが正反対の若手刑事二人を演じたガイ・ピアース(二人は当時どちらも新人だった。仲もいいらしい)は、その後も、ラッセルほど派手ではないが、「メメント」「タイムマシン」などの出演作でいい演技を見せている。二〇〇三年公開の「モンテ・クリスト伯」では悪役を魅力的に演じている。映画自体もそれなりに悪くないが、どうも今ひとつ迫力がなかった。
なぜかなと考えていてひとつ思い当たったことがある。原作ではこれでもかとばかり出てくる、主人公が「金にものを言わせる」場面がほとんど登場しないのだ。
そう言うと映画だけ見ている人は「充分出たじゃん、そういう場面」ときっと不思議に思うだろう。でもぜひ文庫本で十冊近くかもっとある原作の「モンテ・クリスト伯」を通読してみてほしいが、原作の金の使い方、金を使う場面の多さは、絶対にあんな程度のもんではないのである。最近の日本のテレビドラマ「巌窟王」は私は見損ねたが、そこはどうだったのだろうか。
あらためて筋をいうのもはばかられるほど有名な話ではあるが、「モンテ・クリスト伯」は、善良で優秀な若い船員エドモン・ダンテスが、雇い主から嘱望されて後継ぎになろうとしていた時、それをねたんだ同輩や恋敵に、当時は失脚していたナポレオンの一派というぬれぎぬをきせられ、裁いた検事がまた自分の立場を守るために冤罪と知って無視し、裁判にもかけないまま、彼を牢獄に送り込み、何が何だかわからないまま絶望していたダンテスは、やがて真実を知り、脱獄し、牢獄で知り合ったファリア司祭がくれた秘密の地図で、離れ小島に隠されていた巨万の富を発見し、以後、それを使って謎の貴族モンテ・クリスト伯爵になりすまし、かつて自分を陥れた人々にかたっぱしから復讐していく、という物語である。
たしかに恋もある。決闘もある。戦闘もある。誘拐も、カーニバルも、中東世界の謎の姫君も、山賊も出る。しかし、それらにもまして印象に残るのは、主人公が駆使して絶対の力を発揮する「金の威光」のカッコよさだ。それが皆、いやらしくもえげつなくもなく、清々しく心温まる名場面になっている点でも、この作品は実に珍しい。金に困って破産しかけているかつての雇い主をはじめとする、善意の人々を救う場面などもだが、最後に近く、拉致した仇敵の一人である銀行家に、法外な値段で食物を買わせて飢えに耐えられず全財産をなげうつ苦しみを味あわせるのも、どこかユーモラスで、とことんの暗さはない。そういう力のこもった場面の合間にたとえばカーニバルを見物するのに最高の窓辺の席を楽々と予約する、といった金持ちならではのささやかな贅沢場面がぎゅうづめにつまっていて、ひっきりなしに読者に小さい快感を与えつづける。あえて言うなら、これは「思う存分お買い物ができる」夢物語風の大「お買い物文学」なのである。
考えてみれば、主人公が陥れられた原因は金も少しはからんでいるが、むしろ名誉や恋や権力や政治であり、まあそれらもすべて金につながるといえばそれはそうだが、それにしたって金が最大の理由だったわけではない。陥れる手段もまた決して金を使ったとは言えない。つまり、この主人公ダンテスは、そんなに「金がありさえしたら」「金がおれのすべてを奪った」とトラウマになるような状況ではない。「金色夜叉」や「嵐が丘」や「本格小説」の主人公ほども、ダンテスは「金に恨み」を持つ理由がない。
それなのに、彼は復讐をするのを、徹底的に金で行う。これは、よく考えると変な気もするが、もっとよく考えると、金にトラウマのない主人公だから、そのやりくちがどこか品がよく陰惨でない。「貧乏人の恨みは恐いんだぞー。思い知ったか、金持ちめー」という貫一やヒースクリフのいじけたすごみがないのだ。そして、金で復讐するということは、言いかえれば暴力には訴えてないということで、これまたマフィアの「血の復讐」とは一味ちがった、おおどかなのどかさ、からりとした合理性がある。
作品に即して言えば、それはダンテスというエリートの好青年の育ちと性格の良さが損なわれていなかったということにもなるのだろう。そのさわやかさと節度とが、この小説の後味をよくし、多くの人に愛された原因にもなったのだろう。(ここで、ちょっと気になるのが、この話の名訳で知られる黒岩涙香「巌窟王」は、このへんをどのようなニュアンスで処理していたのだろう。誰か調べて下さいませんか。)
これまたあまりに言うまでもなく、この小説はフランスのアレクサンドル・デュマの代表作である。それで、作者のデュマは、そのへんのところはどう考えていたのかということが当然気になる。
このことを細かく検討することは私には力不足でできないが、少なくともデュマという人は決してお金を軽視する作家ではないということは、「モンテ・クリスト伯」と並んで有名な(もしかしたらこっちの方が有名かも。映画化も何度も何度もされてるし)「三銃士」を見ても推量できる。
先日、同僚の先生から聞いた話だが、ある経済学者が「宮本武蔵は何をして食べていたのかわからない」と気にしていたそうだ。もしそれが、吉川英治の「宮本武蔵」を読んでのことだとするなら、少なくともデュマの「三銃士」の場合には同様の気づかいはまったく無用だ。主人公ダルタニャンを初めとする四人の銃士の経済状態は、ほとんど読者が彼らの家計簿をつけることができるぐらい、明瞭かつ詳細に記されている。
ちょっとかけ足で見てみても、まずダルタニャンは、父親から十五エキュの銀貨をもらって故郷を出る。マンの町で将来の宿敵となるロシュフォール伯爵と戦って負傷した時はそれがちゃんと十一エキュに減っている。宿の支払いに二エキュ、パリの近くで馬(読んだ人には忘れられない、黄色い毛色の変な馬)を売って三エキュの収入。
パリで三銃士と知り合ったダルタニャンは、王に謁見がかない、四十ピストールを拝領する。彼はそれを三人と分配し、更にその使い道を相談する。それからしばらくして四人の経済状態は悪化し、食事にも困って友人の家にごちそうになりに行ったりしている内、ダルタニャンは家主に部屋代を請求されたのをきっかけに、彼の妻がまきこまれている宮廷の陰謀に関わって…
と、何から何まで金がからむ。
私はこの話を小学生の頃から子どもの本で読んで大好きだった。その本は講談社の世界文学全集で、とてもいい訳だったと今でも思う。だが、ダルタニャンの色恋沙汰(それも人妻との恋、つまりは不倫)はほぼ完全にカットされており、王妃に忠誠を誓う青年たちの明るい友情物語だった。それでもこの話は充分おもしろく、本質をそこねてもいなかったと思う。
高校生の時、原作を読んだ。しかし、ダルタニャンの人妻との熱愛やアトスの妻との暗い過去、ミレディーとの濡れ場、といった色っぽい場面より、「こんなに金に関する会話が多かったのか」ということの方が衝撃的だった。この、お金にまつわる話も子どもの本では完全にカットされていたからだ。王妃のためにイギリスへの秘密の指令を帯びて渡った危険と冒険にみちた旅の帰り、バッキンガム公爵からもらった名馬を彼らがいくらで売り払ったかとか、ラ・ロシェルの戦場へ行く軍装を整えるのにかかる費用をどうやって彼らが工面したかなどの話はまったく入っていなかった。
原作ではこれらの細かいやりくりに、四人がどんなに苦心したかがことこまかに描かれる。背景や彩りといった段階ではなく、それ自体が重要な事件であり物語の主要な部分をなしている。
「けっきょく」と、ポルトスが言った、「払いをすませたら、三十エキュしか残るまいな」
「こっちは十ピストールばかりだ」とアラミス。
「そうすると」とアトスが言った、「おれたちはリディア王クロイソスみたいな大富豪だ。ダルタニャン、あの百ピストール、まだどのくらい残っているかね」
「おれの百ピストールだって。最初に、五十ピストール君にやったよ」
「そうだったかな」
「そうだとも」
「ああ、そうだ、思いだした」
「それから、宿の亭主に六ピストールやった」
「なんてひどいやつだ、あの亭主は。なぜ六ピストールもやったんだ」
「やれと言ったのは君だよ」
「なるほどおれはひとがいいからね。で、けっきょく残りは」
「二十五ピストールだ」
彼らはこんな会話ばかりしているのだ。これは第一部「三銃士」に描かれる彼らの青春時代だが、第二部「二十年後」や第三部「ブラジュロンヌ子爵」(この全部が「ダルタニャン物語」という一つの話になっている)でも、基本的にはこの状況は変わらない。
「まあ、落ちつきたまえ。(と言っているのはダルタニャン。板坂注)ぼくが君の代わりに計算をしてやろう。きみはマザラン殿の親衛隊長だった。年収一万二千リーヴル。十二年間で、計十四万四千リーブル」
「一万二千リーヴルですって!とんでもない!」ベーズモーは叫んだ。「あの強欲じじいは六千しかくれませんでした。それなのに、あのお役目には六千五百もの負担がかかった。おまけに一万二千の収入から六千リーヴルけずったのはコルベール殿。特別手当として五十ピストール出して下さっただけですよ。(後略)」(第三部の八「華麗なる饗宴」より)
話が国家規模になり、額も大きくなっているとはいえ、金銭問題をゆるがせにしないで描くデュマの姿勢に変化はない。
佐藤賢一「ダルタニャンの生涯 ー史実の『三銃士』ー」(岩波新書)を読むと、現実のダルタニャン(この人も三銃士も実在の人物)も、経済的なことでこまごま苦労しており、作品のもとになりそうな状況はたしかに存在する。だが、それにしても、これだけ金の問題がのべつまくなしと言っていいほど登場する冒険小説というのは、やはり珍しいのではあるまいか。と言っても、直接的な買い物場面はそう多くはない。ラ・ロシェルの戦いに赴く軍装を整える次の場面が多分一番ていねいな描写だろう。
アトスとダルタニャンは、軍人らしい機敏さと鑑識眼で、三時間もかからずに銃士の装具をすっかりととのえてしまった。アトスはおっとりして、どこからどこまで大貴族である。品物が気に入ったとなると、値切ろうともせずにそのまま支払ってしまう。ダルタニャンが文句を言おうとすると、アトスは微笑しながら彼の肩に手をおく。そこでダルタニャンは、なるほど値切ったりすることは自分のようなガスコーニュの小貴族にはかまわぬが、王侯のような風采の彼のような男にはふさわしくないことなのだ、とさとったのである。
銃士はアンダルシヤ産のすばらしい馬を見つけた。漆黒で、力強い鼻孔を持ち、脚はすっきりと美しい、六歳の馬である。じゅうぶんに調べてみたが、欠点はなかった。値段は千リーブルだった。
おそらく、もっと安く買えたかもしれなかった。ところが、ダルタニャンが博労と値段を交渉しているあいだに、アトスは金貨百ピストールをテーブルの上に出してしまうのだった。(角川文庫「三銃士」 竹村猛訳)
もっとも、デュマの場合はやや特殊としても、冒険小説、英雄物語のヒーローたちは、けっこう金に困ってあくせくしている場合が多い。理由は(多分)簡単で、そうでないと彼らは危険な冒険をする理由がないからである。
RPG(ロールプレイングゲーム)やそれをもととした小説では、主人公たちは冒険をはじめるにあたり、報酬を設定し、終った時点でマスターから経験値を点数でもらい、たまればレベルが上がって戦闘能力が高まり、また金を(むろん現実にではなく数字で)もらって、斧だの長剣だの呪文だのといった武器を買いととのえる。少し前にこの中で「バブリーズ・フォーエバー」などの作品に登場する、やたら金持ちになってしまったグループがいた。これはゲームマスターも確信犯でやっていて、ジョークにしていたが、本来避けるべき状況で、失敗しやすいやり方である。つまり、報酬の大盤振る舞いをしすぎると、プレイヤーたちには戦う理由がなくなるのだ。
思いつくままもほどほどにしろというぐらい、思いつくまま、机辺にある本を手当たり次第にあげるなら、たとえば児童文学の古典「ドリトル先生」シリーズでは、主人公のドリトル先生はいつも貧乏である。動物と話ができる特殊能力を持ち、実際いろんな冒険で山ほどの財宝を手に入れることも多いのに、無欲で情け深い先生はいつもそれを動物たちを救うための慈善事業に使ってしまう。家政婦のアヒルさん、ダブダブや、会計係のフクロウ、トートーはそれをいつも嘆いている。今からでは想像もつかないが意外と安定志向の子どもだった私は、ダブダブが大好きだったので彼女に共感し、先生が憎らしかった。早くお金をためて、沼の町パドルビーの「大きな庭のある小さな家」に皆で楽しく暮らせる日が来ればいいのにと切望した。だがよく考えると、そうなったらお話は終わってしまうわけなのであることを、子どもの私は気づいてなかった。
ローマ時代を舞台にした変り種のミステリ、リンゼイ・デイヴィス「密偵ファルコ」シリーズ(光文社文庫)では、ローマ市民で平民のファルコは元老院議員の娘へレナと深く愛し合っており、結婚するには彼女と同じ身分にならねばならず、そのためには莫大な金が必要なため、皇帝から依頼される危険な仕事を次々にひきうけている。そして毎回ライバルの企みや皇帝(ティトゥスとウェスパシアヌスの父子)の吝嗇のため、報酬をもらいそこねてしまう。かわいそうだし、私のような読者は欲求不満もつのるが、こうでないと愛する女がいるファルコが危険な冒険をする理由がない。
映画化もされた海洋小説、パトリック・オブライエン「ジャック・オーブリー艦長」シリーズ(ハヤカワ文庫)でも、主人公の艦長は恋人ソフィーと結婚する資金を貯めるため、しゃかりきで拿捕賞金を稼いでいる。彼の場合は海も船ももともと好きなので結婚して落着いたらそれはそれで欲求不満になるのだろうが、さしあたり彼が戦う理由は「愛する女性を守るため」ではなく「愛する女性と結婚する金をかせぐため」である。ここで欠かせないのが、ソフィーの母親のえげつない夫人で、金のない殿方などと娘を結婚させられるものか、と考えるこの女性がいるからこそ、この図式は成りたつのである。
このシリーズはどちらも長く続いており、翻訳がまだされていない先の巻では、ファルコもジャックもともに幸福な結婚をして家族を増やしているらしい。それで面白さが保てているかどうか興味のわくところだ。
というのは、そういう金めあてでがんばっていたヒーローが、願いがかなって恵まれた環境になった時、作品の味わいが変わってしまうこともあるからだ。
ローレンス・ブロックの「アル中探偵マット・スカダー」シリーズなどはまさにそうで、最初の数巻に比べると主人公は住む所から経済状態から何もかもグレードアップし、交友関係まで高級化して、別人としか思えない。こういうことは他の作者の作品でもいくつか見るので、「何でだろ?」と私がいぶかると友人の一人が、「書いてる作家自身が印税もうかって金持ちになっちゃったんじゃないの」と指摘した。それもあり得る。
スカダーのシリーズではその変化は一応成功しているようだが、こうなった時、最初の頃の味わいはかなり失われてファンをとまどわせ、時には失望させる。
リリアン・ブラウンのミステリ「シャム猫ココ」シリーズでも主人公のクウィラランは最初ただの新聞記者だったが、莫大な遺産を相続(だっけか)したのがきっかけで、地方都市に移り住み、ほとんどそこの支配者に近い町のスポンサー、名士になった。だが、このシリーズはそうなったのが早かったのと、思うさま莫大な金を使って小さい都市を理想の町に変えて行く地方起こしの面白さ、楽しさ、ある意味「モンテ・クリスト伯」規模の大々的なお買い物文学の夢物語としての形式を確保したため、その魅力を失わないですんでいる。私はこのシリーズ、読むたびにミステリとしてはよくわからないし、登場人物の誰が誰だか十数冊読んでさっぱり把握できないのは、逆にすごいことだと思ったりもするが、それでも読みつづけているのは、どうも、この「お買い物文学」「町おこし文学」としての快さではないかしらんと考えている。
このように見ていると、とりわけ冒険小説、英雄物語の場合、主人公たちの経済事情をどのように設定し、どのように活用するかは、それぞれの作家や作品の傾向を分析する上で、見逃せない要素といっていいのかもしれない。
ところで、「三銃士」に話を戻すと、アトスとダルタニャンはあんなにがんばっていい馬を選んでいるが、この小説は実は馬に関しては動物虐待小説と言ってもいいぐらい、当時としては当然ながら、馬はただの戦場の武器でしかない。ダルタニャンが(多分作者も)理想の人物と考えているアトスなどは、戦場で馬をたてにして銃弾をよける方法を一ページほどもかけて、長々と講釈している。冒頭のよれよれの老馬も、ダルタニャンのお父さんは大切にするよう命じていて、それなりの愛情は持っていたようだが、ダルタニャンはパリに着くなり売ってしまう。馬と文学に関しては、うっかりするとまた一冊本ができそうなぐらい、さまざまな話に登場するが、それからもうかがわれるように、近代の馬の暮らしは本当に悲惨だった。スピルバーグが映画化した戦場の馬を描いた演劇には、その一端が見てとれる。私はあの映画を見たとき、悲しく恐いが、それなりに救いがある内容に、感動するよりきれいごとすぎると感じ、その背景にあるだろうたくさんの現実を考えて、ほとんど感情移入ができなかった。
で、これが、私が物心つくころからずっと、田舎の家の応接間にあった、馬の置き物。ダルタニャンの最初の馬もどきに、たいそう古くてよれよれである。何か由来があるのかもしれないが、誰も教えてくれないままだった。薄暗い応接間で、幼い私はしばしばこれを手に取って遊んでいた。まだお話を作ったりするような知恵もなく、ただ手に持って見るだけで満足していた。
母が午年生まれなのと関係あるのかどうなのか、わが家には、馬の置き物はけっこう多い。私自身が母に買ってやったものもある。どれを選ぶか迷ったし、ずらりと並べても壮観だろうとも考えたが、結局、この最古参の馬に決めた。見ていると、ひんやりと暗い洞窟のようだった応接間の中で味わった、冒険をしているような気分と隠れ家にいるような安心感が、そこはかとなくよみがえる。