お買い物と文学8-マシュウの憂鬱

あらためて、筋を紹介するまでもないほどに人気の高い読み物ではあるが、モンゴメリ「赤毛のアン」は、孤児院からもらわれてきた空想好きの少女アン・シャーリーが主人公である。彼女をひきとったのは、マリラとマシュウという中年の兄妹で、ともに独身である。暖かい人柄ではあるのだが、どちらかと言えばしつけが厳しいマリラに対し、無口で温厚なマシュウはアンを常に優しく見守る。彼はある日、マリラがアンに着せている服が、他の娘たちに比べてあまりに地味なのに気がついて、少し華やかな服を買ってやろうと決心する。ところが内気なマシュウは、知らない人や女性の店員にはうまく話ができない。そこで、次のようなことになる。

その翌日の夕方、マシュウはさっそくカーモディの町へ服を買いにでかけた。いちばんむずかしいことは早くすませてしまわなければならない。容易ならん試練をくぐることになるだろうと彼は感じた。物によってはマシュウもなかなか買い上手だが、女の子の服となっては、店の者の助力にすがるほかはなかった。
ながいこと思案したすえ、マシュウはウィリアム・ブレアの店ではなく、サミュエル・ローソンの店へ行くことにした。クスバート家の行きつけはウィリアム・ブレアだった。それは長老教会の信者で、保守党に投票するのとおなじくらい、クスバート家の伝統になっていた。だが、ウィリアム・ブレアのところではときどき、ブレアの二人の娘が店へ出て客の相手をするので、これがマシュウには頭痛のたねだった。それでも自分の買いたいものがはっきり言えるときならどうにかしのげたが、いまのように説明したり相談にのってもらわなくてはならない買物になると、どうしても男の店員でなくてはならないとマシュウは感じた。そこでローソンの店へ行くことにしたのである。この店なら主人のサミュエルか息子が出てくるはずだった。
ああ、かわいそうなマシュウは、ローソンが店を広くしたのといっしょに、女の店員を置いたことを知らなかった。この女店員はサミュエルのおかみさんの姪でしごく元気な若い婦人だったし、大きな、くりくりした鳶色の目をして、にっこりと魅惑的な笑い方をした。一分のすきもないこしらえで、いくつも腕輪をはめており、手を動かすたびにそれがキラキラ光り、ガラガラ、チリンチリンと鳴るのだった。彼女を一目見ただけでマシュウはすくんでしまった。おまけにその腕輪の音で、たちまち頭がみだれてしまった。
「何をさしあげましょうか、クスバートさん?」とルシラ・ハリス嬢は帳場の台をコツコツ両手でたたきながら、てきぱき愛想よくたずねた。
「ええ…そのう…そのう…ええ、熊手はありますかな?」マシュウはどもりどもり吐きだした。
ハリス嬢はすこしばかり驚いたようすだったが、それも無理はない。十二月もなかばだというのに熊手や鍬を注文されたら、だれだってきもをつぶしてしまう。
「たしか一つか二つ残っていたと思いますけれど」とハリス嬢は言った。「二階の物置にありますから、ちょっと見てまいりますわ」
ハリス嬢のいない間にマシュウはすこし気を沈めて分別をかき集めた。
ハリス嬢は熊手を持っておりてきて、「ほかになにかご入用のものは、クスバートさん?」ときげんよくきいた。マシュウは両の手にぐっと力をこめて答えた。「それでは、そう言ってくださるからに…それじゃ…ええ…そのう…乾草の種をすこしもらいましょうかな」
マシュウ・クスバートが変人だということは、ミス・ハリスもきいていたが、いまといういま、これはてっきり気ちがいにちがいないときめてしまった。
「乾草の種は、うちでは春しかおきませんから、ただいまはありません」とおうへいに言ってきかせた。
「おう、そうですとも、そうですとも、そのとおりです」みじめなマシュウは口ごもりながら、熊手を持って出て行こうとしたが、入口のところで代金がまだだったことに気がついて、おずおずともどってきた。ハリス嬢がおつりをかぞえている間にマシュウは最後の死にものぐるいの力をふりしぼって、
「そのう…もしあまりご迷惑でないなら…そのう…ええ…すこしばかり…そのう…砂糖を見せていただきたいんで…」
「白いんですか、黒いんですか」もうがまんがならないというようにハリス嬢はきいた。
「ええ…そうさな…黒いのを一つ」マシュウは弱々しく答えた。
「あそこに、その樽があります」とハリス嬢はそっちの方へ腕輪をふってみせながら「あれ一品しかないんです」
「では…では二十ポンドばかりもらいましょう」とマシュウは額に玉のような汗をかきながら言った。
帰りの馬車を走らせながら、ようやくマシュウはわれにかえった。せつない思いをしたが、行きつけでない店へ行くなどという、道にはずれたことをしたのだから当然の報いだと思った。


(新潮文庫「赤毛のアン」 村岡花子訳) 

かつて大学の授業で、この場面をとりあげた時、私は店員と客との関わり、あるいは、買い物しにくい場合の例として、紹介検討するつもりだった。ところが学生たちに資料を説明していて、ふと、そもそも「赤毛のアン」をはじめとした「アン」シリーズには、お買い物場面が極めて少ない…どころか、皆無に近い気がしてきた。ケーキやリボンやかわいい小物といった女の子が喜ぶものがあふれているこの作品に、お買い物場面がまったくないのは奇妙な気がするのだが。
「若草物語」などではどうだったろう。手作り中心の時代だったから、消費行動はあまり大っぴらにはできない、描けない、やや恥ずかしいうしろめたいことだったのか。
そんなことをしゃべったら、あとで学生の一人が「アンが髪の染め粉を買う場面は?」と指摘してきた。直接買っている場面の描写はないが、なるほど買い物をしてはいる。だが行商人から買ったこの怪しげな染め粉でアンはコンプレックスを持って何とかしたいと願っていた赤い髪を気持ちの悪い緑に染めてしまうという大失敗をしてしまう。ここでも買い物はあまりいい結果を呼んではいない。
ごく最近になって、「むなかた九条の会」などでいっしょに活動している、元市議会議員で「赤毛のアン」の愛読者であるという女性に、この話をしたら、即座に「アンがギルバートにプレゼントを買う場面」「アンの長男の幼いジェムが母親のアンに真珠の首飾りを買う場面」があると指摘したのはさすがであった。とはいうものの、これもたしか直接に買い物をしている場面の描写はなかったし、ジェムは首飾りがイミテーションであると知って身も世もない思いをするなど、最終的にハッピーエンドになりはするものの、やはりモンゴメリの「お買い物場面」には、手放しの喜びや快感ではなく、どこかに苦さがつきまとうのだ。
シリーズ最終巻の「アンの娘リラ」にも、かなり印象的な買い物場面があるが、これまた、あまり楽しい買い物ではない。第一次大戦が勃発してしばらくした頃、アンの末娘で十五歳のリラは町へ出かけて帽子を買い、日記に次のように記す。

「このあいだ、町へ帽子を買いに行った。初めてだれも一緒に行って選ぶのを手伝おうとうるさく言わないので、とうとうお母さんもあたしのことを子供だとは思わなくなったのだと思った。あたしはまたとない素敵な帽子を見つけた―まったく魅力的である。ビロードでできており、あたしに誂えたかのような濃い緑色である。あたしの髪と皮膚にちょうどよくうつり、赤褐色の髪とオリバー先生がよくおっしゃるあたしの『クリーム色』をたいそう引き立てる。こういう緑にめぐりあったのは今まで一度しかない。十二のとき、この色のビーバーの帽子を持っていたが、学校じゅうの少女たちが夢中でうらやましがったものだ。さて、この帽子を見たとたん、どうしても買わずにはいられない気がして―買ってしまった。値段は物凄かった。値段はここには書かないことにする。あたしの子孫にあたしが帽子一つに、しかも、すべての人がみな節約している―または節約しなければならない戦時中だというのにそんなにたくさんお金を払ったことを知られたくないからである。」

この部分はソフィー・キンセラの「レベッカのお買い物日記」の気分と大差ない。若い娘ならではの華やかさ、真剣さ、そしてかすかな罪悪感。だが、この後、話はこう展開する。

「家へ帰り、自分の部屋でもう一度かぶってみたとき、あたしは不安になってきた。もちろん、たいそうよく似合いはする。けれども教会へ行ったり、グレン村の質素な催しにかぶって行くにはなんだかあんまり手がこみすぎてごてごてした感じがした―つまり、目立ちすぎるのである。帽子屋ではそう感じなかったが、このあたしの小さな白い部屋ではそんな気がしてくるのだ。それにあの物凄い正札!それに餓えているベルギーの人たち!お母さんは帽子と正札を見ると、ただじっとあたしを見詰めた。じっと見詰めることにかけてはお母さんは熟練家である。」

(新潮文庫「アンの娘リラ」 村岡花子訳)

母(つまりアン)に、この値段はぜいたくではないかと、やんわり批判されて怒ったリラは、この帽子を戦争が終わるまでかぶりつづける、それならまさかぜいたくとは言えないだろうと母に宣言し、母にそんな態度をとったことを後悔して一人で泣く。そしてその誓いを守り、大嫌いになった帽子を終戦まで四年間かぶりつづける。そして連合軍の勝利で戦争が終わった時、喜びに村中がわきかえる中、彼女は「さあ、これからあたしは、この上なく女らしからぬ、赦しがたいことをするつもりよ」「この帽子を形も山もなくなるまで部屋じゅう、蹴りまわそうというのよ。生きているかぎり、二度とこの種類の緑はいっさい身につけないわ」と笑いながら言い、そう実行する。
買ってすぐ後悔するという体験は私たちにもよくある。しかし、その品物を一種の贖罪のようにあえて身につけつづけて苦痛を味わい続け、その義務を果たしたとたん、「何だかだ言っても長くつきあった」というような狎れた愛情は全く拒否して、決然と帽子を蹴飛ばすリラの姿には、モンゴメリという作家の厳しさがよく表われている。私はしばしば、「赤毛のアン」は決して甘い少女小説ではなく、時には冷たいほど厳しく激しい思想と情熱をみなぎらせた文学だと言ってきたが、嫌悪した人間との融和は決してなく、赦しがないのが特徴のこの小説は、品物に対してもまた仮借なく、赦しはない。

それはさておき、ここでもまた買い物は決して快楽や安息や活気をもたらさない。モンゴメリには買い物という行為への罪悪感があるのではないかと疑ってしまう。この問題に深入りする余裕は今の私にはないので、ここでやめておくが、モンゴメリの文学の特徴をさぐるのに、このような「買い物への執着度」の薄さは何かの参考になるかもしれない。

で、これが、私の母との思い出が残る帽子。かぶっているテディベアは、近所のスーパーの、ポイントためたら安く買えるサービスにはまって、何と四個も買ってしまったうちの二匹。いわゆるテディベア風の顔とちがって、多分日本人向けに、かわいく甘い目鼻立ちなのも気に入った理由だ。当時は母の施設の部屋や田舎の二軒の家など、あちこちに、それぞれの守り神のように置き、リボンをまいて名前もつけていたのだが、母が亡くなり家を売り、四匹すべてが今住んでいる二軒の家に集まって来たあたりから、もうその名前も忘れてしまったのは私の記憶力の減退の証明でもある。このハンチング風の二つの帽子は、今はなくなった博多の天神のマツヤレディス一階にあった帽子の店で、ストレス解消に衝動買いした。私の癖で、どっちか決めかねた二つをどっちも買った。その直後、田舎の母の入院していた病院に行くと(その頃は週に一度は車で母の所に通っていた)、母はたまたまその直前に骨折か捻挫かして、近くの整形外科の病院に運ばれており、私はあわてて飛んで行った。

幸い大したことはなく、その夜は別の予定があって、帰らなくてはならなかった私は「大丈夫ですよ」とヘルパーさんたちに言われて、予定通りに母の顔をちょっと見ただけで帰途についた。母自身もストレッチャーの上で元気にしていて、私に心配はしなくていいと言ってくれた。別れ際に私は、買ったばかりの二つの帽子をかわるがわるにかぶって見せて、母に「どっちがいいと思う?」と聞くと、常に好みのはっきりしていた母は一瞬のためらいもなく、白地に茶色と青のまだらの方を指して「こっち」と答えた。「うん、私もそう思った」と私は言って、それをかぶって母と別れた。空色の地の方も好きで愛用しているが、茶色のまだら模様の方は、今でも私にとっては「母の選んだ帽子」である。どちらももう、かなり色あせてしまったが、多分まだまだ使うだろう。

帽子と言えば、ついでに、これも。これは更にもうずっと昔、私が名古屋の大学に勤めていたころに非常勤で行っていた岐阜の女子大の学生数人がプレゼントしてくれたものだ。郊外の山裾にある美しい大学で、冬に雪に埋もれると幻想的な風景になり私は好きだったが、学生たちには淋しかったのか、ある年の初め、冬休みが終わって大学に戻るのが悲しくて駅で身を投げて自殺した学生がいたと聞いたことがある。雪深い田舎は都会育ちにはそんなにつらいのかと、田舎者の私にはちょっとショックでもあった。

恵まれた時代というか、やはりかなり辺鄙なところではあったのか、大学は駅までのタクシー券を支給してくれていた。どういういきさつか忘れたが、受講生の学生数人と帰り道におしゃべりするようになり、彼女たちはバスで通っていたのだが、私はしばしばタクシーにいっしょに乗せて帰ることもあった。感じのいいかわいい女子学生たちで、中でもいかにもご令嬢風の上品でお人形のようにきれいな子は、本人から聞いたのではないがお父さんが市議会の議員さんとかで、私はごく自然に地元の有力者の保守系無所属か自民党の議員だろうと思いこんでいたら、それも誰かから共産党の議員だと聞いて、うわあ私の頭の中にあんなご令嬢風の人は革新系とは結びつかない先入観か差別意識があったかしらんと、ひそかにあわててじたばたした。
まあ今になって考えれば、特に田舎では地元の有力者や代々名門の出のエリートが革新政党の議員というケースもけっこうあったりはするのである。
彼女たちは、車に乗せてもらったお礼もあったのか、この帽子をプレゼントしてくれた。重宝したし、大事に使っていたから今も新品同様だ。…って、いや実は本当にこの帽子だったっけと思うぐらい古びてないので、まちがえてないか心配なのだが、私は帽子は処分したことがほとんどなく、これは自分で買った記憶もないので、多分大丈夫だろう。

別の学生と、雪で降りこめられた教室でおしゃべりしたとき、彼女が窓からとった雪景色の写真を二枚くれたのも、小さな額に入れて私は今も壁に飾っている。もう何十年も前のことだ。あの学生たちももう皆、アン・シャーリーのように中年すぎて、子どもたちどころか、下手したら孫に囲まれているのかもしれない。

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