お買い物と文学6-タワーズ艦長の土産

もう二十年近く前になるが、愛猫のキャラメルが八歳の若さで死んでしまった。エイズから白血病を発症して、七キロあった体重が数か月で二キロまで減って板のようにやせてしまったが、なぜか金色と白の毛皮は最後までふさふさつややかで、いい匂いがしていた。いろんな薬を飲ませたり、効果があるというユーカリを首輪に巻いたり、あらゆることを試しながら、毎日彼を抱いては体重計に乗り、決して目方が増えることはなく、じわじわ減っていく悲しみを、表に出しては彼を動揺させるかもしれないと、私は平気な顔で陽気に微笑み、明るい声を出しつづけていて、最後は口の回りやのどが痛くなった。

こんな時期に読んだ本は、きっと死ぬまで読むたびに思い出しては苦しくなるぞとびびりながら、せめてそんな本を増やすまいと、数か月間同じ本ばかりくり返して読んですませていた。「慈悲のこころ」というミステリと、「ロリータ」と「渚にて」だった。

「慈悲のこころ」はミステリでもあって、さほど読み返すことはなかったが、「ロリータ」と「渚にて」は、今でもどうかすると読んでいる。思ったほど痛みは感じず、むしろほのかになつかしい。「ロリータ」の救いのない愛、「渚にて」の核戦争で滅亡に向かう世界は、どちらもあの時期、たしかに私を慰めてくれたと、あらためて気づく。死んだ後であの世から人生をふり返るような、穏やかさが心を満たしたりする。その「渚にて」の新しい訳が出たというので、買って読んだ。旧訳はあちこち自然に暗記するぐらいなじんでいたし、古いモノクロ映画はDVDを買って何度も見ているが、新訳もそれなりによかった。旧訳では「ポロ」とあったおもちゃが「ホッピング」になっていたのも、わかりやすくて、よかった。

新訳では鏡明氏が解説を書いている。バートラム・チャンドラーの「銀河辺境シリーズ」の解説か何かで対談していたときは、まだ若い人という印象だったのに、もう今ではSF界の大御所のようで、それも時の流れを感じた。鏡氏は、核戦争の結果の放射能降下物いわゆる「死の灰」が全世界に降り注ぐ中、北半球はすでに滅亡し、わずかに残されたものの死を待つしかない、オーストラリアのメルボルン近郊の人たちの最後の日々を描く、このSFが、今読むと意外なほどに明るく救いのある印象を与える不思議さについて述べている。たしかに、人々が混乱も狂奔もせず、残された日々をせいいっぱいに生きて端然と死んで行く、この小説には、ぞっとする恐怖だけではない、安らぎと暖かさがある。

とは言うものの、私はこれを今読むと、別の意味で恐くなる。現在の日本は政府がまったく常識を失い民主主義も議会主義も無視して暴走しつづけている末期状態としか、私の目には見えない。それでマスメディアも世論も何ともできず、これだけ社会が病んで麻痺していながら、日々の生活が穏やかに楽しく過ごされている、もちろんその一方で救いようなく絶望へ向かう要素は降り積もりつつあるという、この状況は、ぞっとするほど切実に「渚にて」が描いた、街や家や人々の姿と重なって行く。数か月あとには死ぬことがわかっていても、世界が終わり人類がいなくなることがわかっていても、なお人々は来年の計画を立て、とっくに死んだ北半球の家族に再会する予定を語る。

こんなに整然と美しく、秩序を保って人が死ぬか、と昔、最初に読んだときは、とても実感を持てなかった。今は寒気がする思いで、たしかにこうやって人は滅亡に向かって歩むだろうと実感する。現実に目をとざし、その日その日を楽しんで。もう、今がその時なのかもしれないと、冷え冷えとした思いにかられる。

この物語の中心となる二組の男女は、オーストラリアの若い海軍士官ピーター・ホームズとその妻メアリー、アメリカ海軍の潜水艦長で、オーストラリアに寄港しているドワイト・タワーズと、ホームズ夫妻に彼の接待役を頼まれた情熱的で奔放な女性モイラ・デビッドソンである。ドワイトの故郷は北米で、妻のシャロンと二人の子どもはもう死んでいるのがわかっている。それでも艦長は家族が皆生きていて、自分はそこに帰ることを前提にいつも話をする。彼を愛しはじめたモイラは、その気持ちを理解し、「もしも世界が滅びないなら、どんなことをしても奥さんから彼を奪うだろうけれど、わずかな時間しか残されていないときに、そんなことをする気にはなれない」と、ドワイトとはたがいに愛しあいながらも一線は越えないまま、最期を迎える。

ドワイトは勤務の合間に街で、家族に持ち帰る土産を買おうとする。幼い息子には釣り竿、娘にはホッピング、そして妻にはアクセサリーを。

そこでタワーズは〈マクフェイルズ〉という店にもいってみたが、やはりホッピングは置いていなかった。ほかの店も結果は同様だった。これはもう、市場そのものに出まわっていないのかもしれない。いらだちがつのるにつれ、いよいよ本当にホッピングがほしくなってきて、いよいよほかのものでは替えが利かない気がしてきた。コリンズ通りにまぎれこんで、玩具屋を探したが、玩具屋のない街区らしく、より高価な専門店ばかりが並ぶ街だった。
ウィンドー・ショッピングの最後は、ある宝石店の前で足を止めた。しばらく立ちつくしてウィンドーに見入っていた。エメラルドとダイヤモンドがベストの選択だろう。彼女の黒髪に、エメラルドはみごとに映えるにちがいない。
思いきって店内に入った。「ブレスレットが欲しいんだがね」黒いモーニング姿の若い店員にそう声をかけた。「エメラルドとダイヤモンドがついてるのがいいな。少なくともエメラルドがあるのがいい。黒髪の女性で、緑色を身につけるのが好きなようなのでね。ちょうどよさそうなのはないかな?」
店員は金庫のところへいって、三つのブレスレットを持って戻ってきた。それらを黒ビロードのクッションの上に置き、「ご希望に沿うものと申しますと、この三種になりますが、お値段のほうはいかほどをご予定でしょうか?」
「値段は考えていなかったな」とタワーズは答える。「とにかく、すてきなのがいいね」
店員はひとつずつとりあげ、「こちらは四十ポンドでございます。こちらですと六十五ポンドになります。どちらもたいへん魅力的なブレスレットだと存じますが」
「もうひとつのは?」
店員は三つめのものを手にとった。「こちらですと少しお高くなります。たいへんきれいなものですが」と小さな値札を見ながら、「二百二十五ポンドになります」
それは黒ビロードの上で美しくきらめく。タワーズは自分で手にとり、つぶさに見た。とてもきれいなものだと店員はいったが、それはたしかだった。シャロンは自分の宝石箱のなかにもこんなものは持っていなかったはずだ。きっと気に入ってくれるにちがいない。
「これはイギリス製かね? それともオーストラリア製?」
店員はかぶりを振り、「もともとはパリの〈カルティエ〉で作られたものでございます。じつは以前にはトゥーラックにお住まいのさるご婦人がお持ちになっていたものでして。ですがおわかりのとおり、比較的新しい品です。普通よく留め金の部分には注意を要することが多いのですが、このお品はまったく心配がありません。留め金も完璧な出来になっております」
妻がこれを身につけて喜ぶさまを、タワーズは思い描いた。「よし、これにしよう。支払いは小切手にしたいが、いいかね? 明日か明後日もう一度寄るから、現物はそのときもらっていくよ」
その場で小切手を書いてわたし、代わりに受領書を受けとった。店を出ようとして立ち止まり、また振り返った。「ちょっと訊きたいんだが、ホッピングを手に入れられるところを知らないか? 小さい女の子への土産物にしたいんだが、どうもこのあたりの店はどこも置いていないようでね」
「申し訳ございませんが、ちょっとわかりかねます」と店員は答えた。「玩具屋さんをすべてあたってみられるなら、そのうちどこかに、とは思いますが」


(創元SF文庫「渚にて」 ネヴィル・シュート 佐藤龍雄訳 旧版は井上勇訳)

ごらんの通り、とても詳しく、楽しげでさえある買い物風景だ。この前にある釣り竿を買う場面の描写も同様にていねいで、心がこもっている。そして、あらためて気がつくと、この小説はお買い物文学と言っていいくらい、買い物の場面が多い。ホームズの妻メアリーは、やがて来る九月に世界が滅亡することを絶対に認めず、知らないふりをして来年やその先の庭づくりや家づくりの計画を練っていて、生まれたばかりの赤ん坊がいるのだからそれも無理がないのだが、とにかく彼女はしょっちゅう夫に、ベビーサークルだの庭におくベンチだのを買ってきてくれるように頼み、夫はそれをいつもきちんと街の店で調達して来て、彼女を喜ばせる。

最期の日が近づくにつれ、街は次第に機能を失い、店も人がいなくなって品物を勝手に持ち出せるようになる。愛想よく平常通りの対応をしていた店員たちも、次第に「小切手でも紙幣でも玉ねぎの皮でもかまいません」などと、投げやりな発言をしはじめる。久しぶりに夫とともに街に出たメアリーは、その様子を見て衝撃を受け、早く家に帰りたがる。

戦場も爆撃もなく、一見平和きわまる日常に、次第に否応なくせまる死を、どのように表現するかは難しいに決まっているが、この小説がそれに成功している大きなひとつは、この一見健全にいとなまれていた貨幣経済が、じわじわと次第に変質し崩壊していく様子を描いたからではないだろうか。最終的に誰もが放射能に冒され、死に至る時期には、政府が無料で配布する毒薬の錠剤を飲んで、安楽死することが推奨されている。ドワイトは乗組員とともに沖で潜水艦を沈める死を選ぶが、多くの人はこの錠剤を飲む。それを配布する薬局の女店員も、けなげに愛らしく客に薬を配布しているが、やがていなくなってしまう。買い物が、きちんと行われることが、とりもなおさず、平和な国民生活の象徴であることを、「渚にて」の作者は充分に理解し、巧みに利用していると言えるだろう。少なくとも、この小説から買い物の場面を除いたら、静かな人類の最後の日々という描写は魅力を失い、決して成功しなかったはずである。

で、これが、新旧両版の「渚にて」の文庫本。見えにくいかもしれませんが、おまけに上にのせているのは、亡くなった叔母が遺したエメラルドの指輪です。ブレスレットはさすがに持っていないので、せめてこれでということで。

Twitter Facebook
カツジ猫