お買い物と文学14-気になる作家

私は子どものころから今に至るまで、純文学も大衆文学も中間小説もケータイ小説もライトノベルも、いっさい区別して読んだことはない。意識すらしたことがなく、国文学者としてこれでいいのかと思うほど、実はそれらの厳密な区別がわかっていない。
だからかもしれないが、時々気になることがある。たとえば菊池寛などは、編集者としての功績や一般受けする作風が成功して評価されている分、純粋に作家、文学者として、もっときちんと研究されていいのではないかと、いつも漠然ともどかしい。
それにも増して、もっとちゃんとした作家として研究されていいのではないかと思うのが、森村桂だ。

そんなことを言うわりには、彼女の代表作の「天国に一番近い島」を私は読んでいない。読んだかもしれないが覚えてないから、もっと悪い。
彼女が結婚し、夫との日々の暮らしを面白おかしく楽しく書いて、多くの読者に愛されていたころ、私は彼女の本を一冊も読まなかった。嫌いでも避けていたのでもなく、なぜ読まなかったのか自分でもわからない。のちに感ずるいろいろなことの予感が、ひょっとしたら、読まなくても何となく、あったのかもしれない。

最初に読んだのは、彼女がその理想的な夫と離婚し、地獄のような苦しみの後、ようやく別の男性と再婚し、立ち直って書いた「それでも朝は来る」だった。その前に週刊誌で彼女がつらい日々を語っていたのを一度だけ読んで、気になっていたこともある。
彼女は、その本の中で、理想の結婚生活として、たくさんの本に書いた最初の夫との生活が、実は暴力におびえ、精神的にも追いつめられた非常に苦しいものだったことを詳しく書いていた。いい趣味じゃないとは思いながら、その後私は、彼女が幸せそうに書いていた夫婦の毎日を題材にしたエッセイを十何冊か、すべて読んだ。そして、彼女は決して嘘を書いたのでも美化したわけでもなく、同じ事実を楽しくこっけいに書くか、深刻に暗く書くかで、まったくちがった世界が生まれることを、目の当たりにして、「真実はひとつでも、描き方でまったく異なる文学が生まれる」例として、授業でも使ったりした。

私は彼女の最初の夫が全面的に悪いとも思えなかった。「それでも朝がくる」は正直で良心的な本だから、二人の夫婦生活はよくわかり、それは夫にとってもいろいろと、つらいものだったろうということも予想はできた。そして、再婚した夫との日々を描いた「12時の鐘が鳴るまで」を読んでも感じたが、この人は、雑然とした人生をきちんと物語にして、めりはりをつけて、その中で生きなければやって行けない人なのだなと痛感した。いろんな出来事に確固たる意味を持たせ、人生の岐路や自分の決意について、ひとつひとつの節目を作り、その通りに生きようとする。人が見てわかりやすい、矛盾がなく破綻しない、あるべき正しい筋書きを作り、それに従って行動し、思考し、喜怒哀楽までそれにしたがって味わうのだ。私にはよくわかる。私自身がそうだから。

森村桂の場合、多分とても大きな悲劇の原因は、彼女が作る彼女自身の物語や、彼女自身の役柄が、彼女に合っていなかったことだ。
それが、どういうものであればよかったのかは、私は彼女でないからわからない。ただ、少なくともウーマンリブだかフェミニズムだかジェンダーだか、何でもいいが、そういうものがもう少し早く進んで、今に近い状態にまでなっていたら、もう少し自分にふさわしい、無理のない物語と役柄を彼女は選べたような気がする。
強いか弱いかで言うと、彼女はものすごく強い人だ。だが、彼女が描き、めざそうとした自分の自画像は、弱くてかわいい、へまばかりする、男性に守ってもらう女性で、そういう青写真、見取り図では、彼女の情熱や自由奔放さを制御や管理することはできない。それでも彼女がそれにこだわり、その枠の中で幸せをつかもうとし続けたのは、世間やメディアのそのような女性像、家庭像をやはり最低きちんと押さえておきたいというのが、きっとあったと思うのだ。

再婚した夫の献身的な愛にも関わらず、軽井沢の丘の上でケーキ作りをしばらく楽しんだ後、彼女は精神を病んで入院し、そこで自殺する。ケーキの店には美智子皇后も何度か訪れ、彼女と長いこと話しこむこともあったという。ともに高い志と深い愛情と、想像もできないほどの孤独を持つ、この二人が出あえ、つかの間でも心を通い合わせたことを、私は救いのように感じる。

ズラッと長い台の上の板が斜めになっていて落ちないように縁がつくってあり、とりやすくなっている。黒パンや、コッペの親分みたいの、それに、
「あ、ユーゴのパン」
ザルツブルグで、近所に住む八十人家族のおばさんが毎日いくつも焼いていた丸い二キロのパンと似たのがあるではないか。三日月パン、犬が舌を出したようなふざけたパン、ぶどうパン、プラムののった平たい丸パン、
「ワアッ、おいしそう!」
何と、キノコの型をした干ぶどう入りブリオシュである。粉砂糖がかかって、ロシア風なのか、どしっとしていていかにも上等そう。値段は八十円。黒パンは、日本でいつか六百円で買ったものが、一本たったの七十円。四分の一に切っても売っている。コッペの親分は四十円。
「あら、これ、何ですか」
赤十字みたいなマークのついたオビのかかってるパンが何種類かある。ディレクトール(所長)が注意深く何やら答え、通訳氏が、
「病気の人のパンです。それは腎臓、これは肝臓、これは、塩なしパン、これはふくらむのが入らない。これは膵臓…」
「膵臓? 膵臓のパンまであるんですか」
膵臓と腎臓と心臓病持ちの私は感激だ。日本じゃこんなのなかった。私はもううれしくて、ブリオシュはじめ、持って来た手さげにどんどん入れた。ここの人たちはいつも袋を持っていて、行列があると、何を売ってるか確かめるより前にまず並んでしまう。従って袋は男の人でも持ってるというけど、男も女もブリオシュはじめ、それぞれに袋に入れている。病人用のパンも素晴しいけど、無漂白、防腐剤なしのパンたち、ずっしりして、どれも、滋養になりそうで頼もしい。それに何より安い。中公文庫『ソビエトってどんな国』 森村桂

これは、彼女がテレビの報道番組の企画で、再婚した夫とともに、まだあまり知られることのなかったソビエトを訪問したときの旅行記だ。江戸時代の紀行文学を専門に研究していて、いきおい旅に関する古今東西の本も読んでいるわりに、私は旅に行ってその国をどれだけ知ることができるかは、とても疑わしいと思っている。行かなければわからないことも多いが、同じくらい行ってもわからないことは多い。森村桂はソビエトの歴史もあまり知らないし、けんのんな社会主義国として敬遠し警戒している多くの一般の人たちの代表として、この国を見ようとしている。一方でテレビ番組という公式の訪問だけに、ソビエト側の姿勢も用心深く、このパン屋の取材にしても、しばらく日をおいてふいに訪れてみると、ほとんどのパンがなくなっている。他の施設や店舗や市民の生活も、かなりが報道用の作られたものである。

その中で作者はソ連の人々とふれあい、彼らの平和への熱望、素朴な優しさを知って行く。だが、取材班のメンバーとの対立や齟齬もひんぱんに起こり、よくもここまで書いたなと苦笑するほど、彼女はその行き違いや不満や不快を克明に記している。
「それでも朝はくる」にしても「12時の鐘が鳴るまで」にしても、それ以前の幸福で明るいエッセイでも、彼女の書くものは、いつもどこか暗い。すみずみに思いがけない爆弾がある。それを予測するからか、買い物も含めてどんなに楽しい場面でも、決して手放しで楽しくはない。いつも緊張と不穏さが漂っている。

そんな描き方は、それこそ純文学だったら普通で珍しくもないのだが、おそらくは読者を幸せにしたいという優しさだろう、彼女はどんな残酷な悲劇でも混乱した不快な状況でも、必ず、結局、明るくわかりやすい幸せな少女小説や大衆小説の枠組みに落としこもうとする。本当に真剣に努力して、そのようにまとめようとする。
言いかえれば、現実を何とかそのようなかたちにできなかったら、彼女は書けないし書かない。ハッピーエンドにしないまま、筆をおくことを、彼女は自分に許さない。芸術が人生を模倣するのではない、人生が芸術を模倣するのだとか言ったのは、オスカー・ワイルドだが、彼女はまさに、人を幸福にする、満足の行くハッピーエンドにするために、現実の生活そのものと全身全霊で格闘するのだ。それは時に見ていてつらい。無頼派を決めこみ破滅型の人生や、犯罪や狂気をそのまま文学にした作家たちなど、お気楽なものだと思いたくなるすさまじさが、森村桂の文学にはある。

彼女はソ連政府のつくりものの演出に不信を抱き、仲間のスタッフとの関係に消耗しながら、結局はソ連の人々の暖かさや優しさを深く愛し、モスクワの廟に展示されるレーニンの遺骸を見たあとでは、深い感動を見せている。実は私もソビエトには行ったことがあって、あまりにも混んでいるからとレーニンの遺骸を見るのはパスしたので、彼女のこの感動をしっかりと検証できない。ただ彼女はこういう時に嘘を書く人ではなく、もうひとつ言うと、まちがった印象を持つ人ではない。そうなると、もう今では片づけられてしまったレーニンの遺骸は、やはり彼女の心をゆさぶり、革命の正しさや人類の未来を信じさせる何かを持っていたのだろう。彼女のこの、幼いほどに素直な表現から、逆に私はそれを信じる。

それにしても、書かれないだけで、いつもこんなものかもしれないが、同行したスタッフと彼女の対立は尋常ではない。そして、今読むと、私はこれは、彼女もいくらか書いているように、自分を主張する女がテレビ局の男性たちは扱いにくかったのだろうという気がしてならない。彼女が見るからに切れ者のばりばりキャリアウーマン風なら、まだ覚悟もあったろうが、一見頼りなげで無邪気な、それこそ彼女自身がそれをめざしてもいる、かわいいぼんやりした女のように見えて、自分のペースは崩さず、要求も主張もし、予想外の行動もする強靭さが、男性たちには驚きで裏切られた思いがし、どう対応すべきかわからなかったのではないだろうか。
年にも外見にも関係なく、トップに立つ女性が、どこか頼りないお嬢さん風で、実際も無力だったら、部下や周囲の男性は案外許す。てきぱきと有能で、確固たる自分の主張と方針を持っていたら、確実に風当たりは強い。女性に優しいとか理解があるとかいう男性ほど、「保護してやる余地のない」女性に対する冷たさは、憎悪に近いものがある。森村桂のこの旅の間の位置は、この点で直球どストライクに、男性たちの敵意と混乱をあおったのではなかったか。この本の初版は昭和五十八年。この状況が今の日本で、どのように、どの程度変わっているのか、退職して社会の第一線から引いた私には、幸か不幸か、わからない。

で、これが、もう何十年も前に私がどこかのソ連展の会場で買った木製の壁掛け。同じときに買った緑と白のタペストリーは今もベッドにかかっているし、母が冷蔵庫の上においていたら猫が落っことして耳が欠けた白いきれいな陶器の馬は、窓辺に飾っている。
この壁掛けは何枚かあって、手作りだから顔が皆ちがった。私がどれにするか迷って見比べていたら、隣りの女性も同じものをねらっていたらしく、「それを買わないなら私が買います」と横から言うので、私もつい「いえいえ、やっぱりこれが」とか言って買ってしまった、思えばちょっと恥ずかしい戦利品である。わが家には、ソビエトのものが案外多い。叔母の家にあった、たくさんのマトリョーシカは巨大な一つを残して人にあげてしまったが、私自身が数少ない海外旅行でソ連に行ったときや、いろんな催しで買った小物が、あっちこっちにちょこちょこある。
多分、最初に田舎の家に持ちこまれたのは、母が大阪万博のときにソ連館で買って来た、みみずくの壁掛けなどのいくつかの品物だろう。「アメリカ館は月の石ぐらいしかなくて、貧弱だった。ソ連館がよかったよう」と社会主義びいきの母はご満悦で、いろいろ買ってきた中でもニワトリがコツコツと木製の円盤をつついてエサを食べるおもちゃを特に大好きで「かわいいねえ」と、目を細めていた。昔田舎の家でたくさん飼っていたニワトリたちのエサをつつく音を思い出すせいもあっただろうか。でも、これも母が誰かにあげたのか、今は残っていない。

母がこの大阪万博に行ったのは何かのツアーだったか一人旅だったか覚えていないが、後でよく私に「あんなに愉快なことはなかったよ。見渡す限り人がいっぱいで、広場もどこもぎっしりなのに、その中に誰一人知ってる人がいないんだから」と満足そうに興奮気味に語って聞かせたから、一人で行ったのだったかもしれない。母は、この時、使い始めたばかりのカメラで、まだモノクロのいろんな写真を撮ってきていた。オランダ館かどこかで、男性が口上を述べてビールを売っているのが面白かったので、最前列で撮影していたら、その男性がいきなり母を指差して、オランダ語(かどうか知らないが、母は英語の教師だったので、英語以外のことばだったのはたしかだ)で、何かまくし立てたから、母はすたこら逃げ出した。そうしたら男性は壇を飛び下りて追っかけて来て、出口のあたりで母をつかまえ、カメラをつかんで、ふたが閉まったままになっていることを教えてくれたそうである。

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