お買い物と文学5-干し柿とヴァイオリン
母は夏目漱石が好きだった。「森鷗外よりいい」と、いつも言っていた。「『彼岸過ぎまで』とか『硝子戸の中』とか、タイトルもいい」とも、ほめていた。「坂道を登りながらこう考えた。知に働けば角が立つ。情に掉させば流される」の「草枕」冒頭の例の一節は、家事の合間に口ずさんでいたりして、この作品のことを、「あの、傍観者でいようとして、関わりかけてはいけないいけないとまた距離をとるのが最高」とくり返していた。
私は母ほどではなく、漱石の全作品を熟読はしていない。とは言え、「吾輩は猫である」は中学高校時代の私の愛読書で、いや愛読という意識さえないほど一心同体になっていて、当時の友人家族の思い出よりもあざやかに登場人物や各場面を覚えている。 最後に近く、猫の主人の苦沙彌先生宅へ、訪れて来ていた友人たちが、皆勢ぞろいして、碁を打ったりしながら、だらだら無駄話をしてごろごろしている場面など、私は今でも、天国とか理想郷というものを具体的に連想しようと思うと、この場面しか浮かばないぐらいだ。自分の理想の人間関係、人との距離の取り方、遊び方について、この場面から決定的な影響をうけた気さえする。
私に限らず、この小説のファンは多くて、最初に勤めた大学にいた社会学の若い女性の先生も、好きで好きで何度も読み返したと言ってたし、他にもそんな人が何人もいた。変り種では、「あの猫がもうかわいくてかわいくてたまらなかった」とそれこそうっとり甘い声で語ってくれた女性もいて、この人と明治村で漱石の家を見たこと、縁側においてあった変な顔の色あせた猫の模型を私がついなでたら、そばにいた子どもも真似してなでて、お父さんから「だめ」と怒られ、でもこのおばさんなでたのに、という顔でじっと見られてあたふたしたこと、あれもこれも何ともなつかしい楽しい思い出である。
で、そんな愛読者ならずとも、多分読んだ人なら皆覚えているだろうが、その皆がそろっておしゃべりに興ずる中、理学士で音楽家でもある水島寒月君が、かつて学生の頃、故郷でヴァイオリンを買おうと思うのだが、バンカラな学生たちから軟弱なやつと鉄拳制裁を受けるのが恐くて、夜にこっそり買いに行く、その話を長々長々して聞かせるくだりがある。
「君はヴァイオリンをいつ頃から始めたのかい。僕も少し習おうと思うのだが、よっぽどむずかしいものだそうだね」と東風君(ロマンチストの詩人)が寒月君に聞いている。
(略)
「君はいつ頃から始めたのかね」
「高等学校時代さ。―先生私しのヴァイオリンを習い出した顛末を御話しした事がありましたかね」
「いいえ、まだ聞かない」
寒月君は先生についたのでもなく独習したと言い、皆に天才とほめられても得意がる風でもない。そのいきさつを話せと言われて彼が話し出すので、向こうで独仙(飄々としたマイペースの哲学者)と碁を打っていた、おしゃべりで陽気な迷亭(私は高校時代、彼の大ファンで、あこがれていた。理想の人物だった。笑)が気にする。
「話してもいい。先生話しましょうかね」
「ああ話したまえ」
「今では若い人がヴァイオリンの箱をさげて、よく往来などをあるいておりますが、その時分は高等学校で西洋の音楽などをやったものはほとんどなかったのです。ことに私の居った学校は田舎の田舎で麻裏草履さえないと云う位な質朴な所でしたから、学校の生徒でヴァイオリンなどを弾くものは勿論一人もありません。…」
「何だか面白い話が向うで始まった様だ。独仙君いい加減に切り上げようじゃないか」
「まだ片付かない所が二三箇所ある」
「あってもいい。大概な所なら、君に進上する」
「そう云ったって、貰うわけにも行かない」
そこで迷亭は碁を打ちながら寒月の話に茶々を入れる。寒月はそれにも応対しながら話を続ける。迷亭は碁をしまい、几帳面に石の勘定をしている独仙を残して話に加わって来る。
「土地柄が既に土地柄だのに、私の国のものが又非常に頑固なので、少しでも柔弱なものがおっては、他県の生徒に外聞がわるいと云って、無暗(むやみ)に制裁(鉄拳制裁。なぐってリンチすること)を厳重にしましたから、随分厄介でした」
「君の国の書生と来たら、本当に話せないね。元来何だって、紺の無地の袴なんぞ穿くんだい。第一あれからして乙だね。そうして潮風に吹かれ付けているせいか、どうも、色が黒いね。男だからあれで済むが女があれじゃさぞかし困るだろう」と迷亭君が一人這入(はい)ると肝心の話はどっかへ飛んで行ってしまう。
そしてまた、寒月君も一同もつられて平気で脱線し、文庫本で二ページたっぷり女性論だか夫婦論だか恋愛論だかをかわす。独仙君もいつか加わり、宇宙の真理はヴァイオリンなどの遊戯三昧ではわからないと、禅宗の文句を引いて語るが、東風君はやはり芸術は人間の渇仰の極致を示したものだから、捨てるわけにはいかないと反論する。そこで再び寒月君が話を戻す。
「捨てる訳に行かなければ、御望み通り僕のヴァイオリン談をして聞かせることにしよう、で今話す通りの次第だから僕もヴァイオリンの稽古をはじめるまでには大分苦心をしたよ。第一買うのに困りましたよ先生」
「そうだろう麻裏草履がない土地にヴァイオリンがある筈がない」
「いえ、ある事はあるんです。金も前から用意して溜めたから差支(さしつかえ)ないのですが、どうも買えないのです」
「なぜ?」
「狭い土地だから、買っておればすぐ見つかります。見付かれば、すぐ生意気だと云うので制裁を加えられます」
「天才は昔から迫害を加えられるものだからね」と東風君は大に同情を表した。
「又天才か。どうか天才呼ばわりだけは御免蒙りたいね。それでね毎日散歩をしてヴァイオリンのある店先を通るたびにあれが買えたら好かろう、あれを手に抱えた心持ちはどんなだろう、ああ欲しい、ああ欲しいと思わない日は一日(いちんち)もなかったのです」
「尤もだ」と評したのは迷亭で、「妙に凝ったものだね」と解(げ)しかねたのが主人で、「やはり君、天才だよ」と敬服したのは東風君である。只独仙君ばかりは超然として髯を撚(ねん)している。
ここには「買い物」の一つの要素が明らかに示されている。金はある。品物もある。店の人(業者)も売ってくれるとわかっている。それでも買えない場合もある。「周囲の目」というやつだ。それを買い、所有し、使用することを周囲の文化が、社会が、共同体が認めなかったら、買い物は成りたたない。買い物というのは、個人の問題のようでいて、実際はとても社会的な行為だということが、寒月君のこう語ったらユーモラスだが、本当はかなり深刻な体験からは浮かび上がってくる。
「そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが第一御不審かも知れないですが、これは考えてみると当り前の事です。なぜと云うとこの地方でも女学校があって、女学校の生徒は課業として毎日ヴァイオリンの稽古をしなければならないのですから、ある筈です。無論いいのはありません。只ヴァイオリンと云う名が辛うじてつく位のものであります。だから店でもあまり重きを置いていないので、二三挺(木偏。「ちょう」)一所に店頭へ吊(つる)して置くのです。それがね、時々散歩をして前を通るときに風が吹きつけたり、小僧の手が障ったりして、そら音を出す事があります。その音を聞くと急に心臓が破裂しそうな心持で、居ても立ってもいられなくなるんですよ」
(略)
「私が毎日々々店頭を散歩しているうちにとうとうこの霊異な音を三度ききました。三度目にどうあってもこれは買わなければならないと決心しました。仮令(たとい)国のものから譴責されても、他県のものから軽蔑されても― よし鉄拳制裁の為めに絶息しても― まかり間違って退校の処分を受けても― こればかりは買わずにいられないと思いました」
「それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込める訳のものじゃない。羨しい。僕もどうかして、それ程猛烈な感じを起してみたいと年来心掛けているが、どうもいけないね。音楽会などへ行って出来るだけ熱心に聞いているが、どうもそれ程に感興が乗らない」と東風君はしきりに羨やましがっている。
「乗らない方が仕合せだよ。今でこそ平気で話す様なもののその時の苦しみは到底想像が出来る様な種類のものではなかった。― それから先生とうとう奮発して買いました」
「ふむ、どうして」
「丁度十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃って泊りがけに温泉に行きましたから一人も居ません。私は病気だと云って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行って兼て望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」
「仮病をつかって学校まで休んだのかい」
「全くそうです」
「成程少し天才だね、これや」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。
「夜具の中から首を出していると、日暮れが待遠でたまりません。仕方がないから頭からもぐり込んで、眼を眠って待ってみましたが、やはり駄目です。首を出すと烈しい秋の日が、六尺の障子へ一面にあたって、かんかんするには癇癪が起りました。上の方に細長い影がかたまって、時々秋風にゆすれるのが眼につきます」
「何だい、その細長い影と云うのは」
「渋柿の皮を剥いて、軒へ吊るして置いたのです」
と、いうわけで、ここからいよいよ、かの有名な「烈しい秋の日がかんかんして」の繰り返しが始まる。干し柿を一つ食べてはまたふとんにもぐって、しばらくして顔を出すと、また秋の日がかんかん、また干し柿を食べ…が繰り返され、皆がそれぞれ閉口する様子がばかばかしいが、ほんとにおかしい。涙をのんで割愛するが、ぜひ原作を読んでもらいたい。最後の甘干しを食べてもまだ日は暮れない。「僕あ、もう御免だ。いつまで行っても果てしがない」と音をあげる皆に「話す私も飽き飽きします」と泰然と応じていた寒月君だが、さすがに少し妥協して、「枉(ま)げて、ここは日が暮れた事に」して下宿を出る。「当夜の服装はと云うと、手織木綿の綿入の上へ金釦の制服外套を着て、外套の頭巾をすぽりと被ってなるべく人の目につかない様な注意」をした。通った道や町をすべてあげるので、苦沙彌先生がまたじれる。
「そんなに色々な町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と主人がじれったそうに聞く。
「楽器のある店は金善(かねぜん)即ち金子善兵衛方ですから、まだ中々です」
「中々でもいいから早く買うがいい」
「かしこまりました。それで金善方へ来て見ると、店にはランプがかんかんともって…」
「又かんかんか。君のかんかんは一度や二度で済まないんだから難渋するよ」と今度は迷亭が予防線を張った。
「いえ、今度のかんかんは、ほんの一返のかんかんですから、別段御心配には及びません。― 灯影にすかして見ると例のヴァイオリンが、ほのかに秋の灯を反射して、くり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びています。つよく張った琴線の一部だけがきらきらと白く眼に映ります。…」
「中々叙述がうまいや」と東風君がほめた。
「あれだな、あのヴァイオリンだなと思うと、急に動悸がして足がふらふらします…」
「ふふん」と独仙君が鼻で笑った。
「思わず馳(か)け込んで、隠袋(かくし)から蝦蟇口を出して、蝦蟇口の中から五円札を二枚出して…」
「とうとう買ったかい」と主人がきく。
「買おうと思いましたが、まてしばし、ここが肝心のところだ。滅多なことをしては失敗する。まあよそうと、際どいところで思い留まりました」
「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一挺(←木偏。ちょう)で中々人を引っ張るじゃないか」
「引っ張る訳じゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません」
「なぜ」
「なぜって、まだ宵の口で人が大勢通るんですもの」
「構わんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君は余っ程妙な男だ」と主人はぷんぷんしている。
「只の人なら千が二千でも構いませんがね、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って徘徊しているんだから容易に手を出せませんよ。中には沈澱党などと号して、いつまでもクラスの底に溜まって喜んでるのがありますからね。そんなのに限って柔道は強いのですよ。滅多にヴァイオリンなどに手出しは出来ません。どんな目に逢うかわかりません。私だってヴァイオリンは欲しいに相違ないですけれども、命はこれでも惜しいですからね。ヴァイオリンを弾いて殺されるよりも、弾かずに生きてる方が楽ですよ」
「それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と主人が念を押す。
「いえ、買ったのです」
「じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早く方をつけたらよさそうなものだ」
「えへへへへ、世の中の事はそう、こっちの思う様に埒があくもんじゃありませんよ」と云いながら寒月君は冷然と「朝日」へ火をつけてふかし出した。
皆、根負けしてしまい、聞いているのは東風、迷亭の二人だけになる。しかし寒月君はあいかわらず悠々と、これでは宵の口はだめなので、学校の生徒が散歩を終わり、金善もまだ寝ない時を見はからって来るしかないと考えたこと、それは十時頃と見積もって、それまで時間をつぶすようにしたこと、それでまた時間がたたなかったことを延々と語る。皆も何だかだ言いながらつきあっている。
「さて御約束の十時になって金善の前へ来てみると、夜寒の頃ですから、さすが目貫の両替町も殆ど人通りが絶えて、向からくる下駄の音さえ淋しい心持ちです。金善ではもう大戸をたてて、僅かに潜り戸だけを障子にしています。私は何となく犬に尾けられた様な心持で、障子をあけて這入るのに少々薄気味がわるかったです」
(略)
「思い切って飛び込んで、頭巾を被ったままヴァイオリンをくれと云いますと、火鉢の周囲に四五人小僧や若僧がかたまって話をしていたのが驚いて、申し合せた様に私の顔を見ました。私は思わず右の手を挙げて頭巾をぐいと前の方に引きました。おいヴァイオリンをくれと二度目に云うと、一番前に居て、私の顔を覗き込む様にしていた小僧がへえと覚束ない返事をして、立ち上がって例の店先に吊るしてあったのを三四挺(←木偏。ちょう)一度に卸して来ました。いくらかと聞くと五円二十銭だと云います…」
「おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか」
「みんな同価(どうね)かと聞くと、へえ、どれでも変りは御座いません。みんな丈夫に念を入れて拵えて御座いますと云いますから、蝦蟇口のなかから五円札と銀貨を二十銭出して用意の大風呂敷を出してヴァイオリンを包みました。この間、店のものは話を中止してじっと私の顔を見ています。顔は頭巾でかくしてあるからわかる気遣はないのですけれども何だか気がせいて一刻も早く往来へ出たくて堪りません。漸くの事風呂敷包を外套の下へ入れて、店を出たら、番頭が声を揃えて難有(ありがと)うと大きな声を出したのにはひやっとしました。往来へ出て一寸見廻して見ると、幸(さいわい)誰も居ない様ですが、一丁ばかり前から二三人して町内中に響けとばかり詩吟をして来ます。こいつは大変だと金善の角を西へ折れて濠端を薬王寺道へ出て、はんの木村から庚申山の裾へ出て漸く下宿へ帰りました。下宿へ帰ってみたらもう二時十分前でした」
「夜通しあるいていた様なものだね」と東風君が気の毒そうに云うと「やっと上がった。やれやれ長い道中双六だ」と迷亭君はほっと一と息ついた。
ところが、何と寒月君は「今までは単に序幕です」と言って、今度はそのヴァイオリンを、人に知られずに弾くためにはどうしたかの苦労話を延々とはじめる。また、聞き手も「大抵のものは君に逢っちゃ根気負けをするね」と言いながら、今度は苦沙彌先生や独仙も加わって、またしょっちゅう脱線して別の話になりながら、話はどんどん続いて行く。
寒月君のこのくだりも、「買った商品をどう使用するか」という「買い物」の最終段階としては実に意味もあるし、興味深いのだが、さすがにもう私もつきあってるひまがないので、ここで終わっておく。ただ、ひまな連中が集まってごろごろして無駄話してるだけの、どんな大宴会より贅沢な空間と時間がここにはあり、「買い物」の楽しみ、最終段階は、こうやって、「仲間にその品物を買った時の苦労話、自慢話をする」ことであるのかもしれない。
さて、寒月君につられて、私も余分な長話をすると、二〇〇三年に福岡教育大の「比較言語文化概論」の授業で、この「買い物と文学」のテーマをとりあげていて、寒月君の話の時には、「買いにくかったもの」を学生たちにレポートで書かせた。以下に紹介するように、複数あったのが「化粧品」「下着」で、いずれも女性。他に「生理用品」もあり、そうなると男性なら「コンドーム」となるのではないかと思うが、私の授業がはじけたりなかったのか、さすがにそう書いた男子学生はいなかった。 これらで見る限り、「買いにくいもの」が生まれる関係は、ついこの間まで高校生だったのだから当然かもしれないが、親とのそれが目立つ。世間の目は具体的に何かあったというよりも自己規制している印象がある。あるいは比較的まじめな印象のある教育大学の学生は、あまり「買ってはいけないもの」を買ったことがないか、そもそも思いつけないようでもあった。
「前、急に友達の家に泊まることになり、おふろにも入らせてもらえるので、コンビニで下着を買わざるをえなくなったことがあった。なんとなく恥ずかしいので、チョコレートとパンでその商品をかくしながら、レジに並ぼうとしたら、よりによって5人ぐらい並んでいた。私はこそこそ様子を見て、人が少なくなったときを見はからい、レジへ向かった。すると、若い男の人でよけいに恥ずかしかった。しかも、その人がのんびりとした人で、ゆっくりゆっくりビニール袋へ商品を入れていくのだった。私はいらいらして、しかもなぜか周りの人に見られている気がしてとてもそわそわしていた。あの時は本当に恥ずかしかった」
「高校生のとき、親に『絶対化粧とかしたらいかん!!』って言われていたのに、学校の友達はみんな茶髪で化粧もしていたので。どうしてもガマンができずにマスカラなどを買った。しかも地元のドラッグストアなので、親の知り合いとか親本人とかに見られたらどうしようと思いながら、買っていた。でも、買ったにもかかわらず、つかってバレたら殺されると思い、結局ほとんど使ってない。そして今もすっぴんである。金がないので化粧品がかえないのです」
「やっぱりポルノ雑誌やポルノビデオ」
「買うのにためらってしまうもには、値段の高いものです。(略)今、買ってみたいけれど、買えないものは、ものではないけれど、エステに行ってみたい、ということです。よく広告で『今なら割引』という様なことがでていたり、本当にきれいになる、と聞くので、やってみたい気がしますが、割引で1度行っても、その後にどんどんお金がかかると思いますし、第一、自分でお金をかせいでもいないのに、そんなことはできないと思ったり、親には絶対止められる気がするので、自分で稼いで食べていける様になったら行きたいと思います」
「まずマンガ本、(親からは)勉強をしなくなるからと言って買うなと言われ続けたが、ずっとこっそり買っていた。次に洋服、一度に大量に買うと怒られるので、大量に買ったときは徐々に親に見せていく。そういう風にしながら親の機嫌をそこねないようにする。なぜなら、怒らせたら次からおこづかいがもらえなくなるからだ」
「中学の時、テスト期間中に大好きな歌手のCD発売日だったので親に見つからないようこっそり家を抜け出し、いそいでCDを買いに行き、またこっそり家に帰った」
「スーパーなどで消費期限切れが近くなり安くなっている物を買う時、知り合いに見られたくないと思う」
「もうすぐ誕生日だから『何が欲しいか』と聞かれるけど、人に買ってもらいたいと思う物はこれといって浮かばない。(略)自分のお金で買いたいと思うものと人に買ってもらいたいと思うものは違うなあと思った」
「客の多い店で生理用品を買うのはとても気が引ける。全く知らない場所で買うなら、知らない人ばかりなので、別になんてことないが、自分のワードローブ内というか、住みついている所のお店で買うのはなかなか恥ずかしい」
「先生に見つかったら停学かなあと、かなりドキドキしながらお酒を買ったのを覚えています」(女性)
「買おうか買うまいかすごく悩んだことは何度もある。その時はもう100%と言っていいほどそれを買って後から何で買ったんだろうと後悔してしまう。どうでもいいものほど欲しくなって買おうか買うまいか悩んでしまうものだ」
「お金があるのに買えなかった体験というと、小学生の時、期末試験でクラスのトップになった子に嫉妬し、お金を貸してと言われたが財布を持ってないと嘘をついた。帰り道、パンを買おうとしたらその子に声をかけられ恥ずかしくて赤くなり、財布を出せなくてパンを買えなかった」(←要約した)
「中学時代の男性の友人が恋愛小説を買うのに非常に迷ってドキドキして周りの人に見られると恥ずかしいと思って買ったことの話を聞き、自分もそんな体験をしてみたいとかなり憧れた」(←要約した)
「中学2年生位で少し背伸びしてお化粧をしてみたいと思う年頃、友達と買いに行って家でこっそり使ってみた。親にバレるのではとドキドキしたが、少し大人になれたようでうれしかった」(←要約した)
また、次のような微妙な心境にふれたものもあった。
「(買うのがためらわれるものは)それは・・・キャラクターのカードです。ガシャポンと同じような20円入れてツマミを回すとキャラクターもののカードが出てくるものです。中学三年にもなってこれはないだろうともう一人の自分が自分に冷やかな言葉を投げかける中、小さな子供たちにまぎれて買いました。買うのがためらわれるものとは、『きっと周りから見たらこんな不相応なモノを買っている自分は変に見られるだろうな』というものではないでしょうか。つまり、本人が気にするかしないかが問題だと思います。(カードを買うのがためらわれた私はその頃にはもう子供心を失い始めていたのですね・・・)」
「以前、バーテンダーとして働いていたころ、(バーテンダーといっても、接客もしました)そこでもらうお給料のうしろめたさ、とそのお給料をずっと持っていることに不安を感じてすぐに使ってしまうものの、使うときのうしろめたさ。あと、お客さんにもらう数々の品とか。特に品物はすごくうしろめたい。その時は、バーテンダーという職種は『水商売』だから、はずかしかったのですが、今思うとちゃんと働いてもらったお金なのだから、はずかしく思う必要はなかったのかなぁと思います。(でもそうは思っても、またバーテンダーをやる気はありません・・・お客様に好意でプレゼントなど頂くことは、やっぱり、何か、うしろめたい。こっちは商売、あっちは好意っていう所が。)」
で、これが、干し柿でなくて申し訳ないが、私の田舎の家にある柿の木から落ちた柿の実。と言っても数年前にこの家は友人に売って、友人は貸し家にしているのだが、庭の物置きを私の本や荷物置き場に使わせてくれるので、ちょくちょく帰って立ち寄る。昔からここの庭には柿の木が二本ある。毎年たわわに実をつけるのだが、不思議なことにどちらもあまり太くならず、私の小さい時のままである。幼い私は、つやつやとした柿の葉をやっと背伸びしてちぎって、この葉っぱが大好きな、うちにいた山羊に食べさせていた。
私が家を離れて、母が一人で暮らしていたころ、母はときどき私に柿の木の根元に埋めるからと肥料を買って来させていた。家を売ったあと、私は肥料をこっそり埋めてやろうかと思ったが、もうよその庭だからと遠慮した。しかし柿の木は二本とも平気で、以前と変わらずいっぱいの実をつける。家を借りているご家族は、あまり柿は好きでないとのことで、取って下さいと言われるのに甘えて、私は山ほどの柿を毎年収穫させていただいている。先日帰ったらもう小さい青い実がたくさんついていて、一個が落ちてころがっていた。かわいかったので、持って帰って神棚代わりの冷蔵庫の上に供えてみた。下に敷いているのは、どこかで買った布のコースターだが、妙に似合っているのがうれしい。