お買い物と文学19-金に飽かせて

子どものころ、お手伝いさんの部屋にときどき遊びに行って、彼女たちが読んでいる雑誌を見せてもらっていた。「明星」とか「平凡」とかいう雑誌だったと思う。芸能人の情報や、ドクトル・チエコの性問題の相談コーナーや、連載小説などが載っていた。小山いと子の「私の耳は貝の殻」という、奔放な美少女リリを主人公にした小説もその雑誌で読んだ。

いつも行っていたわけではないから、飛び飛びにしか読んでいない。ここに引用した場面を思い出してなつかしくなり、古本をネットで注文して取り寄せ、初めて全部読み通した。引き上げ船で日本に来た少女リリが、サーカスで暮らしたあと、泥棒の手伝いをして豪邸にしのびこんで捕まり、その家の夫人に愛されて養女になり、やがて養父にレイプされて家出し、テレビ女優として成功するが、スポンサーの社長の愛人になることを拒み、どこへともなく去って行く、みたいな波瀾に満ちた筋だが、当時のエネルギッシュで荒っぽい社会の活気のようなものがあふれており、リリの野性的で無欲な清々しさが、当時の市井の人々の潔い矜持もしのばせる。

昔がいいとはめったに思わない私だが、これを読んであらためて感じるのは、今の社会が金とか権力に対して本当に弱々しくなり、そんなものを無視し一蹴するという気概をなくしていることだ。リリのような、社会性がなく、常識もなく、だが聡明で行動的で、人を魅了する主人公は、現在の小説ではとても登場させられまい。小山いと子は決して著名な作家ではなく、純文学の作家でもないが、だからこそかえって、今の時代には失われた、当時の人たちのあこがれ求めたものが、この小説には漂っている。
テレビドラマで新人としてデビューし、成功したリリは、彼女にひかれつつ、だからかえってそっけないプロデューサーの砂津とともに、スポンサーの社長に呼び出される。社長はすっかりごきげんで、彼女を宝石店や時計店に連れて行き、金に糸目をつけずに装身具や腕時計を買い与える。もちろん、いずれ彼女をホテルに連れこもうという下心あってのことだ。

玄関正面の丈高い一枚ガラスの扉越しに鏡のように光っている大型車が停り、社長が乗っているのが見えた。制服の運転手が扉の外に立ち近づくのを見はからっていたが、彼は待ちきれぬように中からポンと開けて、
「おめでとう、おめでとう。リリさん、おめでとう。私は百万べんいっても足りないくらいだ。これでわがヴィナスの売上げは確実に百万はちがうね。さあ乗って下さい。ようやってくれた。砂津君にもお礼をいうよ。ありがとう。君はなかなか優秀だよ。プロデューサーのピカ一じゃよ」
砂津は苦笑している。車が動きだすと、彼は、銀座といいつけて、
「リリさん、お祝いに何か買ってあげるよ。何がいいですか?」
「何でも結構ですわ」
彼は時計を見て銀座の高名な真珠店の名をいった。
「いそいでくれ、もうじき閉店時間だから。―リリさんはまったくきれいな耳をしてるね。男はこういう耳たぶを見ると、噛みつきたくなるものだ。ははは、そんな顔しなくてもいいですよ。冗談だよ。私はただ血の色の透けているその耳たぶに、大粒の真珠を留めてみたくなっただけだよ」
彼はリリの耳にちかぢかと顔を寄せた。
閉店間際の真珠店はこみ合い、身だしなみのよい男女の店員たちが総出で応対にあたっていた。彼は陳列品など見ないで、まっすぐ奥へ行き、品物を出させた。
「リリさん、来て、自分で気に入ったのをえらびなさい」
リリは一つとりあげてみたが、どれもびっくりするような値札がついていた。彼女は、中では値も手ごろでおとなしいデザインのものをえらんで砂津に訊いてみた。
「こんなの、どうかしら」
「いいだろう」
砂津は、無愛想な声で応じた。すぐ怒る人だ、とリリは少しおかしく思いながら、
「では社長さん、これにしますわ」
彼は品物より値札を先にひっくりかえしてからいった。
「もっと大粒の、もっと上等にしなさい」
「高いですわ」
「高いほど、上等ですよ。私のプレゼントじゃ。飛び切りのやつにしなさいよ」
「これで結構ですの」
「いやいや。私はうんといいのにしたい。―こっちのはどうじゃな。ええ色をしとる。どれ、つけてみよう」
彼は太い短い指で金製のねじを開き、無器用にリリの耳をつまんだ。そして店員に手つだわせながら、両方つけ終ると、少し放れて目を細めた。
「うーむ、こりゃいい。これにきめなさい。どうじゃね」
ガラスケースの上に立てられたしゃれた鏡に、二つの真珠が豪華な輝きを見せている。さすがに目を奪う見事さである。
「気に入りましたわ。でも高いんでしょう」
彼は店員に訊ねた。
「何ぼじゃね」
「あの、これはセットになっていますので、ネックレスと一緒でなければお分けできないんですが―」
「では一緒に買おう。どうせ首へかけるやつもいるんだろう? リリさん」
「ええ、ですけどそれではあまり……」
「遠慮しないでいいですよ。どれ、これもかけてごらん」
彼は、大粒の同じものをそろえたチョウカをリリの首にかけた。
「なかなかええ。桃色真珠というのは、やはりあでやかなもんだな。リリさんの肌から匂い立つようだ」
「さようでございます。アメリカでは一番珍重されております。その代わりお値段の方もよろしゅうございます」
「何ぼじゃな」
店員の答を、リリははじめ、聞きちがいではないかと思った。更におどろいたのは、社長が、よかろう、といったことである。それだけの金があれば数人の家族が一年は暮せる。

講談社ロマンブックス 小山いと子『私の耳は貝の殻』

ちなみに、この後、リリはホテルの一室でサーカスでつちかった軽業まがいの身のこなしで社長を翻弄し、指一本ふれさせない。しかし、ひと晩をともに過ごしたから、当然彼女が社長のものになったと砂津はじめ誰もが考える。やがて彼女は皆の前から去るが、その時に養父母の遺してくれた莫大な遺産も戦災孤児の団体にそっくり寄付し、この時の首飾りとイヤリングもライバル女優にあっさりやってしまう。

そんなリリの姿は魅力的だ。その一方で、だがなぜか、小さい子どものころ読んだときも、そして今も、この場面で私はこの金満セクハラおやじの「社長」が、そんなに嫌いではなかった。もちろん好きとは言えないが、少なくとも唾棄し戦慄するような嫌悪感は持たなかった。一見上品だったり聖人君子だったり厳格だったりするくせに、実は女性をさげすんだり性の対象としてしか見なかったりする男性(この小説にも何人も登場する)よりは、わかりやすいだけましだったから、いっそ気分がよかったのかもしれない。

もうひとつ、それとは関係ないことだが、私が快かったのは、銀座の高級宝石店の格調高い上品な雰囲気の中で、この社長が金の力を充分知っているだけに、まったく萎縮も緊張もせず、のびのびとふるまうことだった。多分外見も、しぐさも発言も、泥臭く俗っぽく洗練されておらず、だが、そのことにいささかのひけめも持たず、「首へかけるやつ」などと、平気で口にする彼が、うらやましくもカッコよかった。金の力は、このように上品さと下品さ、教養と無学、貴族と庶民、その他さまざまな格差や差別をぶっとばす力でもある。最近の日本政府の中心にいる人たちの、下司さ、無知さ、卑しさは吐き気がするが、案外あれに、上品さや教養や礼儀作法に対して肩身のせまい思いをしてきた積年の恨みを晴らされてすっとし、それらいっさいを無視する楽しさを与えられて、喜びにぶるぶる震えている人なんかもいる可能性がある。

私は九州出身で、数年間仕事の関係で名古屋に住んでいた。職場でも街中でも、名古屋の方言を耳にすることはめったになく、東京と京阪という二つの大文化圏を常に意識し、そこはかとなく緊張しているような雰囲気を常に感じていた。ちなみに、それ以前に二年ほど住んだ熊本では、あっという間に地元のことばを私がマスターできたほど、方言は公用語で、官庁の入口のガラスのドアに「あとぜき」という注意書きが平気で貼られていたから、つい比べてしまったということもある。(「あとぜき」は、「後をせく、つまり開けた後を閉める」ということで、「ドアを開けはなしにしないこと」という意味。他県の人にはまずわかるまい。)

その後、九州に帰って福岡で暮らし始めて間もないころ、博多の繁華街に新しくできた地下街に出かけた。流行の先端を行くような、それまで九州にはなかったような、お洒落な新しい店が立ち並ぶ中、バッグや服を華やかに並べている、とある店に入って、スマートな店員の目を意識しながら商品を見ていると、どことなく地元の人らしい、元気そうなたくましい青年が入って来て、バッグを物色しはじめた。

何となく私は、彼がバカにされたりびびったりするのではないかと、少し気にしながら様子をうかがっていた。ところがすぐに、その若者は、あっけらかんと陽気に店員に向かい、「これは、ここはどげんすっとね、何ぼね」とか何とか、めいっぱいの博多弁で話しかけたのだった。
店員はもちろんきちんと感じよく応対したはずだが、私はそれも覚えていないほど、その彼の、何の警戒も緊張もない堂々とした雰囲気に、どしんと背中をどやされた気がして、「そうか、ここは九州だった。関門海峡の向こうには国がないと思っているかのように、中央コンプレックスとは無縁の風土だった」と、あらためて思い知ったのだった。
リリの社長は、金と言う後ろ盾があるから、この若者ほど立派ではないが、それでも、しょせんは金でものを売るのに、格調も気品もあるかという気分で考えると、もともと田舎者の私には、彼の態度がどこか痛快で爽快なのだろう。

で、これが、私が風呂場に飾っている、貝殻のいろいろ。「私の耳は貝の殻」という、この小説のタイトルは、

私の耳は貝の殻
海の響きをなつかしむ

という、たった二行だけの、フランスはジャン・コクトオの詩によっている。ただし、この写真の貝殻のうち、海の響きをなつかしんでいるのは、ひとつだけ。あとの二つは、湯布院の山の上のギャラリーで買った、作家さん制作の、作り物である。本物の方は、多分、貝が好きな友人にプレゼントしようと思って、ずっと昔に買って、持っているうち、そのまま忘れてしまったのだろう。
本物にせもの取り混ぜて、もうすっかり風呂場の風景の一部になった。

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カツジ猫