お買い物と文学16-緑色のカナリア
「配所の月」ということばがあって、これは、「罪なくして配所の月を見る」、つまり無実の罪で流罪になって、その流刑先で、罪を犯していないから罪悪感も後悔もなく、のんびりと僻地の美しい月を見る心境のことだと、私はずっと思ってきたし、今もそう思っている。
ところが辞書や注釈では、必ずしもそうではなく、「罪を犯さず流罪にならず、配所のような僻地で美しい月を見たらいいだろうな」という解釈もけっこう多い。
どっちが正しいのかよくわからないが、気になるのは私のように、「無実の罪で流罪になるのも悪くない」という感覚が、まったくわからないで解釈をしている人もいるのじゃないかということだ。
そもそもそうなると、「無実の罪で流罪になりたい」という私の感覚は、いったいどこから生まれたのかということにもなる。
いろいろ理由はあるだろう(このことに関して「ぬれぎぬと文学」というテーマでテキスト作って授業をしている私のことだし)が、少なくともそのひとつは、子どものころ愛読した児童文学「ドリトル先生」シリーズで、主人公の動物と話ができるドリトル先生が、温厚で優しい英国紳士でありながら、動物を助けようとするあまり、しょっちゅう法を犯し牢屋に入り、それをそう恥じたり苦にしたりするわけでもなく、時には自分の研究をしたくて、仕事が忙し過ぎて時間がないので、何とか牢屋に入ろうと画策までしたりするからである。
たしかツヴァイクの「ジョセフ・フーシェ」だったと思うが、牢獄で過ごす不遇の時代は人を成長させ偉大にすることが多いと書いていた。そう言えば、作家や思想家や芸術家で一流の人と言うのは、わりと長期療養で病院にいたり、投獄されて長く独房にいたりする。だから私も仕事が忙しくて、自分の勉強がまったくできない時など、絶対に回復するとわかっている病気で長期入院したり、絶対に冤罪が晴れるとわかっている無実の罪で無期懲役ぐらいの刑罰を受けたりしたら、もうちょっとこの忙しくて何もできない状況は改善されるのではあるまいかと、やけっぱちで考えたりすることがあった。
ちなみに最近の映画化では、ドリトル先生ははじけた黒人俳優が演じていて、よき家庭人、社会人でもあるが、これは原作とまったくちがう。小説の先生は、小太りの穏やかな人で、ひたすらに仕事と研究に打ちこんで、結婚どころか唯一の肉親の妹までに見限られ、動物たちを家族にして暮らしているという、世間の常識的には変人で世捨て人で落ちこぼれの人物である。それが、動物の世界では神にひとしい偉大な存在で、大変な有名人物でもあるのが、とてもいいのであって、映画の設定では、この精神がまったく伝わらない。
このシリーズについて話せばきりがないのだが、その中の一つ「ドリトル先生のキャラバン」は、先生がひょんなことから、サーカスに入り、やがてそのまま経営者になって巡業を続けている時期の話である。立派な紳士である先生が、サーカスなどという俗っぽいものと関わること自体が、ミスマッチの面白さであることは、大人になって私は気づいた。この場面に登場する動物用の肉を売る「ネコ肉屋マシュー・マグ」も、もちろん庶民階級もいいとこの人であり、その妻テオドシアとともに、先生が何のわけへだてもなく家族同様のつきあいをしているのも、決して普通のことではない。
この「キャラバン」で登場し、動物たちだけで演ずる「カナリア・オペラ」を大成功させる主役となるのは、緑色のカナリア、ピピネラである。彼女はメスなのに歌を歌い、その数奇な運命には当時の英国の女権拡張論者、いわばフェミニストが重ねられている。そして、このシリーズに登場する人間も動物も皆好きだった、子どもの私が、このピピネラは嫌いではないまでも、あまり魅力を感じなかったのは、作者がひいきし過ぎていたからか、私が実はこういう進歩的な戦う女は、あまり好みではなかったのか、よくわからない。
これは、先生がマシュー・マグと街でお茶を飲んでいるとき、動物屋の店先から聞こえてきたカナリアの声にひかれて、買い取りたいと思うのだが、他の動物に見つけられたら大騒ぎになるので、店先を通りながら確認して、マシューに買いに行かせる場面である。品物とちがって生き物を買うときの難しさ、意に染まぬ買い物をしてしまう時の成り行きなどが身につまされる。結局、この夜、まだ紙で包まれたままの鳥かごの中から聞こえる美しい歌声で、先生はピピネラの実力を知ることになる。
「それじゃ、目を、片ほうだけあけて、大いそぎで通りすがりに見れば、よろしいじゃございませんかね。」と、マシューが言いました。「立ちどまらなくたって、どの鳥だかぐらいのこと、わかりますでしょうよ。」
「よし、よし。」と、先生は言いました。そして、いそぎ足で店のほうへ、大またに歩いてゆきました。店のまえを通るとき、チラッと先生は窓のほうを見て、すたすたと歩きました。
「いかがでした。どの鳥だか、わかりましたですか?」先生が、店のまえを通りすぎて立ちどまると、マシューがききました。
「わかったよ。」と、先生は言いました。「入口のそばの、みどり色のカナリアだ。三シリングと正札のついている、小型の木の鳥かごにはいっている鳥だ。ねえ、マシュー、ちょっと、あの鳥を買ってきてくれ。それくらいの金はあるよ。わしは、じぶんではゆけん。ゆくと、店じゅうのものが一度にみんな、わしにむかって、さわぎ出すだろうからね。どうも、あの白ウサギが、もうわしを見つけたらしい。おまえ、いってくれ……。まちがえちゃ、いけないよ。―入口のそばの、木のかごにはいった、みどり色のカナリアだ。三シリングと書いてある。ほら、このお金。」
そこで、マシュー・マグは、三シリング持って、動物屋にはいってゆき、先生は、となりの店さきで待っていました。
ネコ肉屋は、まもなく帰ってきましたが、カナリアを持っていませんでした。
「先生、まちがえなすったね。」と、ネコ肉屋が言いました。「先生のおっしゃった鳥は、メスなんですよ。メスは鳴きませんよ。さっき鳴いたやつは、あの店のまえに出してある、いいつやの、黄色のオスなんです。あれは、二ポンド十シリングだと言いますがね。あいつは、賞をもらった鳥で、いままで、飼ったうちで一ばんの歌い手だと言いますね。」
「それは、おかしいぞ!」と、先生は言いました。「まちがいないだろうね?」
そして先生は、店の動物たちに見られる危険も忘れ、思わず窓のところへいって、みどり色のカナリアを指さしました。
「わしが言うたのは、あの鳥だ。」と、先生は言いました。「おまえ、あの鳥の声をきいたかね? いやはや! これはしたり。あれに見つけられてしまった。」
入口においてあるみどり色のカナリアは、有名なドリトル先生が、じぶんを指さしているのを見て、きっと、じぶんが買いとってもらえるのだと思ったのでしょう。もう窓越しに、いろんな合図をして、うれしそうに、かごのなかを飛びまわりました。
しかし、ほかの一羽のほうにしても、二ポンド十シリングもはらって、買うことはできないので、先生はゆきかけました。でも、じぶんを買ってくれないと知った、みどり色のカナリアの顔つきは、いかにもかわいそうなものでした。
ドリトル先生は、マシューと百ヤードほどいったとき、立ちどまりました。
「しかたがない。」と、先生は言いました。「あれを、買わずばなるまい。―よしんば、あれが歌わなくてもね。わしが動物屋に近づくと、いつもこんなしまつだよ。いつだって、店で一ばんだめな、くだらぬものを買わされることになる。おまえ、いって、あれを買ってきておくれ。」
ネコ肉屋は、また店にひきかえし、まもなく、茶色の紙でつつんだ小さな鳥かごを持って出てきました。
「いそいで帰らなくっちゃ。」と、先生は言いました。「もう、お茶の時間だが、手が足りなくって、テオドシアがこまっておるだろう。」岩波少年文庫「ドリトル先生のキャラバン」 ロフティング 井伏鱒二訳
で、これは私の祖父が、たくさん飼っていたメジロやウグイスを入れていた籠のひとつ。中にいる二羽のスズメはもちろん、にせものだが、よくできている。高校時代の友人と何十年ぶりかに会ってお茶した帰り、博多駅のデパートで、ふらふらと買ってしまった。
ドリトル先生は、動物屋、特に野生の鳥をとらえて売買するのは、とても嫌っている。ピピネラを買おうと思ったのも、「もともとのかごの鳥なら、かごで飼っても苦にしないだろう」と思ったからだ。祖父が近くの町で買っていたメジロやウグイスも野鳥で、一度庭で飼っていていたメジロをおとりに、野生のメジロを祖父がつかまえるのを私も見ていたことがあった。今ではもう、禁止されているのだろう。
こういう籠が、廊下の柱にいくつもかけられていて、私たちは毎朝彼らの声で目をさましていた。エサにする練り餌を毎日作るのも、祖父と祖母の仕事で、思えば大変な作業だったと思う。ときどき、しのびこんだ蛇が鳥を呑みこみ、消化しきれないで太くなった胴体で出られなくなっているのを、祖父は殺して捨てていた。わが家に代々いた猫は、鳥を襲わないよう、まずしつけられていた。
籠はもう、このひとつしか残っていない。中の水入れとエサ入れはまだかなりたくさんあって、私は浅い引き出しに並べてアクセサリーを整理するのに使ったりしている。