お買い物と文学17-買ってはいけない

「買い物と文学」というテーマで以前、授業をした時、学生たちに「では、売買したらいけないもの、金で買ったり売ったりしたらいけないものといったら、どんなものか」と聞こうと思っていて忘れた。どんな答えが出ただろうかと、今でもときどき予想する。人間、臓器、愛情、セックス、情報、誇り、信念、などとともに、予想できるのは、選挙などでの票だろう。

寺内大吉「はぐれ念仏」に登場する、僧侶たちの選挙は、公職選挙法とは関係ないから、票を買うことは法律上の罪には問われない。それでも望ましいことでないのはわかっている。主人公の三来(さんらい)和尚は、聖人のように清らかな生活を送っていたのに、東西の宗派の対立をやめさせようという正しい目的のために、寺の財産を使いこんで法外な報酬で、貧しい寺の票を買い集め、尼寺の票も獲得するため、そこの尼僧と関係を持ち、ものすごいスピードで一気にダークサイドへ落ちる。その様子を呆然として見守り、自分たちが立候補をすすめたことに良心の痛みを感じてもいる若い僧侶が語り手である。

これは、その票を買収する場面だが、何しろかなり昔なので、貨幣価値がぴんと来ない。多分、五万円というと五百万とは行かなくても、五十万か百万と思っていてもいいのではないだろうか。大ざっぱすぎるかな。

「これを御本尊さまの前へ」
と、ぼくらは恭々しく金包みを、さしだした。破れズボンにジャンパーなんか着こんだ教会所の主は当惑顔で、
「今の方もそうおっしゃったんですがね。うちにはお仏壇もないんですよ」
「お仏壇がないんですか」
「お恥ずかしいんですが、私らは葬儀屋にこき使われる日雇い労働者みたいなもんで、女房子供を喰わせるのが精一杯なんです」
そうかも知れない。教会所の坊主の生活なんてそんなものなのだ。だがそんな坊主でも一票は一票である。
そのときモーニング姿の三来和尚は、ひとつ咳払いをした。
「わしから率直にお話するが、おたくに選挙の投票用紙が来ておるじゃろう」
「はい」
「わしらは、その紙を買いにきたんだよ」
「さっきの方もそうおっしゃっていました」
「もう渡してしまったのかね」
「いいえ、考えさせてもらいたいとだけ申しておきました」
「わしらはその紙を五万円で買いたいんだが、どうだろう」
「五万円ですって!」
うらぶれた教会所の主は、思わず膝頭へおいた手を、がたんと畳へ落した。
「嘘じゃないよ」
三来和尚は、ぼくの手にある金包みを引ったくると、中身をむきだしにしてみせた。
ぴかりっとした一万円札が五枚。
教会所の主は、はじかれたように無言で立ちあがっていた。汚たない箪笥の前へいった。
「お売り申上げます。それをそっくり頂けるんでしたら。さっきのお方は千円だということでした」
一も二もなく投票用紙をさしだしてきたのである。

学研M文庫「はぐれ念仏」 寺内大吉

この短い部分でもわかるように、作者自身も僧籍にある体験から来るリアルさと、あるいはそれも僧侶ならではのテンポのいい巧みな語り口が魅力的である。この文庫に収められた他の三編もいずれもそうで、荒っぽく熱っぽく、誇張された奇想天外な話のようでいて、不自然さはなく、なまなましい躍動感で一気に読ませてしまう。

「はぐれ念仏」は、一九六〇年の直木賞をとった作品である。私は当時、家の二階を自分の根城にして、めったに使わない十八畳の座敷の立派な床の間に、本を重ねて読書コーナーにしていた。祖父の読んでいた「文藝春秋」で、その年初めて、芥川賞の三浦哲郎「忍ぶ川」と、この「はぐれ念仏」を読んで、母と感想を言いあった。座って読んでいた床の間の、つるつるした床の冷たく快い感触を、今でも思い出す。クライマックスで、議場ですっぱだかになり、相手側の僧侶たちを圧倒する三来和尚の男根が屹立している描写の意味が、正確にはどうなっているのかよくわからないほど、まだ私は子どもだった。多分十三歳ぐらいだったろう。

「忍ぶ川」はたしか映画やドラマになったと思うが、「はぐれ念仏」はなった記憶がない。仏教界の内情があらわに書かれ過ぎていたのだろうか。代わりに作者の寺内氏は、その後タレントのようによくマスコミに登場して人気もあったように思う。私が二つの受賞作をよく覚えているのは、何をかくそう、これ以前はもちろん、これ以後も私は芥川賞や直木賞を全然読んでいないからだ。あまりに話題になる作品は敬遠するのでそうなるのだが、この小説は私が大人の小説を読みはじめた最初のころで、そういう抵抗感もまだ生まれてなかったのだろう。

で、これが、数か月前の市長選挙で、私が事務所に貸していた、白い花器。前に私が育てて婿入りさせた子猫が写っているのはご愛嬌。
 残念ながら選挙は敗北したが、もちろん買収などは行っていない。資金もほとんどない、手作りの選挙戦で、事務所びらきでこの花器に入れた花も、私の家にあった造花に、運動員の女性が庭でつんで来た水仙をあしらって、何とかかっこうをつけたものである。この花器は、風呂場においてアクセントをつけようと思って買ったのだが、場所をとるので、今はウッドデッキにおいている。(その後、居間の机の上に移動させた。)貝殻のような奇妙なかたちもさることながら、何よりいいのは、見た目より軽いことで、私が片手で持ちあげられる。

敗因の一つは投票率が低かったことである。全国どこでも同じようで、これは嘆かわしい危険な兆候だろうが、いちがいに昔が立派でよかったとも言い切れない。私が「はぐれ念仏」を読んだ幼いころの、田舎の選挙は投票率は百パーセント近くあったと思うが、買収が横行して、すさまじいものだった。もちろん法律違反、選挙違反なので逮捕者も出るが、そんなこと、どこの陣営もかまってはいなかった。祖父がけっこう、地元の有力者に対抗する候補に肩入れして、選挙の中心にいることが多かったので、子どもの私もいろんな話を聞くことになる。開票が進むにつれて、負けそうな候補の事務所から次第に人がいなくなるとか、金を配って票を買った家に、夜中に別の候補者の運動員が金を持って来て寝返らせないように、若者たちが周囲の田んぼのあぜ道で見張りをしていて、やって来た運動員ともみあいになり田んぼに落ちたとか、そんな話をいくらも聞いた。
私が「はぐれ念仏」を夢中になって読んだのも、そういう身近な選挙の世界をよく知っていたから、感情移入しやすかったのかもしれない。

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