お買い物と文学3-まっ赤なソファ
私がわりと最近、奥田英朗にはまって、何冊か本を読んだのも、感覚としてはちょっとジェフリー・アーチャーを楽しんだ時に近い。どちらも語り口が巧みで、女性その他への差別意識がなく、バランスがよくとれていて、快い。それでも奥田英朗の長編小説や、思想や社会問題を扱ったものを読むと、市民運動的なものへの敵意や、学生運動の歴史への明らかな事実誤認が気になって、無条件では楽しめないので、家や家族や職場など私のあまりよく知らない題材のものでも、実際の夫婦や会社員が読んだら同じような違和感があるのかな、と思うことはある。
そのへんはあきらめた上で、「家」シリーズなどは読んでいる。中でも『家日和』の中の短編「家においでよ」は、気がついたらまた読んでいたというぐらい、何度も読み直してしまう。さしたる理由もなく、妻と別居することになり、共稼ぎだった妻が自分の買った家具や家電をあらかた持って出ていって、がらんとなったマンションで、新しく家具を買いそろえている内に、友人たちのたまり場になる、快適で優雅な「男の城」ができあがるという話で、このハッピーエンドから妻(たち)も決して除外されていないのが、いつもながら行きとどいて快い満足を与えてくれる。
作者はいい意味でとても器用な人だから、いろんな材料を使って話を作る。この短編では「買い物の楽しさ」がぎっしり満載で、それに家づくりの楽しさが加わる。そして、どちらの材料も、他の作品ではこれほどに使っていない。「買い物の楽しさを書かせたら、誰にも負けない」という評価を求めてはいないだろう。その分、この作品では惜しげもなく買い物の描写がつぎ込まれている。主人公の正春は、家具や家電選びに一度も失敗していない。すべてがうまく行く。こんなことは実際にはほとんどないだろうから、ジェフリー・アーチャーの「掘り出し物」同様、これも非現実的な夢物語だ。それでも読んでいて、少しも不自然さも違和感も感じられず、読者は平気でどんどん幸福になるのは、作者のとんでもないうまさなのである。
そして二軒目でとうとう「出逢い」があった。それは真っ赤なレザーのソファで、意表を衝く色遣いが正春の心を捉えた。ポップでかっこいいのである。おまけに採寸したところ部屋にぴったりで、さらには、三人掛けと一人掛けがセットで出ているのも貴重だった。値段はふたつで八万円。長椅子のほうに寝転がってみると、自分の身長にもジャストサイズだ。
赤か。男で赤というのは勇気がいるなあ……。
でも、キッチンの椅子がすでに赤色だ。とくに浮いてはいない。
「それ、今週入った品です。代官山のカフェの模様替えで出たもので、お買い得ですよ」
よほど気に入った顔に見えたのか、女の店員が声をかけてきた。
「これ、派手じゃないですかね」正春が聞く。
「そんなことないですよ。茶系統の家具とコーディネートすれば、それほど自己主張はしないはずです」
腕組みをし、考え込む。茶系統か。まさに今の自分の部屋がそうだ。
「わたしの予想では、今日明日で売れちゃうと思います」店員がいたずらっぽく笑った。
「買います」
正春は、この一月で何度言ったかわからない台詞を発した。この出逢いを逃したら、絶対に後悔する気がしたのだ。
(集英社文庫「家日和」から「家においでよ」 奥田英朗)
全編、こういったショッピングとインテリアの場面が続き、どこもかしこも、まるで冒険小説や戦争小説やスパイ小説や恋愛小説のように、わくわくどきどき、本当に楽しい。ものを買うだけで、これだけの話を成り立たせて、あまりにもよくできているので、そのすごさにさえ読者はなかなか気づかないというのも、あっぱれだ。当然ながら、金額の説明もすべて、きっちり書かれている。そんな小説も、あるようでなかなかない。もちろん買い物の場面には金額は欠かせないが、案外すべてがそれを記すとも限らないのだ。
で、これが…残念ながらソファではないのですが、お客さんにもソファ代わりに座っていただく、私の愛用の椅子たちです。もともと、ワンルームの小さい家で、中心をセミダブルのベッドがどーんと占領しているので、椅子は皆小さいものを使っていた。ところが、学生たちとお茶とパンだけで長い時間しゃべっていると、そういう椅子ではいささか疲れるのに気がついた。私の叔母夫婦は、作りは豪華だが、見た目はちょっと味気ない広いワンルームのマンションの一角で、大きな食卓に六つばかりの椅子をおいて、そこでテレビを見たりしていた。二人の死後、マンションも人に売って、その食卓と椅子を田舎の家に持って行った私は、その田舎の家も手放す時、食卓と椅子は家につけて残して行くことにしていた。しかし、ひじかけがあるのとないのとが半々の、その椅子の六点セットが、いたく座り心地がよかったのを思い出し、私は無謀だと思いながら、今の狭い家に、その椅子を持ちこんで使うことに決めた。田舎の家にはそれなりの椅子を代わりに買って置くことにした。
ぎちぎちに、あちこちに押しこんだ叔母のその椅子たちが、他人にどう見えるかはわからない。だが、この椅子は幅が広くて座りやすく疲れないわりには、背もたれが低く奥行きが浅いなど、意外と場所を取らず圧迫感がないのには驚いた。それで何とかなっている。背もたれが、やさしいカーブを描いているため、帽子がひっかけられなくなったのが、ちょっと不便なくらいだ。叔母は、この椅子と、細めのソファとに、おそろいの毛糸のカバーをかけていた。既製品か、誰かが編んでくれたのかはわからない。椅子を田舎に残す気でいたころ、私は荷物のあちこちから、このカバーが出てくるのが、椅子を手放すことにしていたこともあって、何だかうっとうしく、じゃけんに適当にそのへんに突っこんでいた。おかげで、まだ半分ほどしか見つからないが、その内どこかから残りも出て来るだろう。もちろん冬用のカバーだが、かわいい模様のせいか、案外見ていて暑苦しくないので、猛暑になりかけた今も、私はそのままにしている。なお、上品なベージュの座面が見えないほど、やたらとタオルや毛布が重ねてあるのは猫の毛対策で、お客さんが来たときは、これをうやうやしくはいで、洗濯機に放りこんでから座っていただくことにしている。