お買い物と文学2-女装するアキレス
最近サボってめったに行かない、出身大学の学会から、今年度の開催通知が届いた。今回はキャンパス移転の前の最後の学会で、研究室や書庫なども皆で見て回る催しも企画しているという案内も入っていた。少し、いや、かなり心は動いたが、別の予定が入っていたこともあり、結局行かないことにした。ぎっしりと本のつまった書庫は、夜更けまでよくその中で資料をさがしてさまよったなつかしい場所だが、皆といっしょに、ぞろぞろ歩いて見て回るのでは、かえって名残りを惜しめない気もした。
私の大学は教養部と本学のキャンパスが離れていて、専攻する研究室を決めてからの二年生後半以降に本学のキャンパスに移動する。研究室と廊下を隔てた書庫には、ぎっしりと膨大な書籍がつまっており、後に同級生の数人が、それを見た瞬間に圧倒され「とても全部は読めない」という絶望を感じた、と言っていた。私はまったく、かけらもそんなことを感じなかったので、それを聞いて人間はさまざまだと、ただ驚いた。「とにかく、とてもうれしかった」と言っていた人もいて、私はそちらに近かった。うれしいというより、純然と漠然と快感を感じたと言った方がいい。
その書庫に限らず、どんなに立派な図書館で、どんなに大量の本を見ても「死ぬまでかかっても読めそうもない」という絶望は私は決して感じないだろう。なぜだろうかと自分の心をのぞきこむと、多分私は「これだけ本があるのなら、私の読みたいものもきっとあるだろう」という方向に考えが進むからではないかと思う。本に限らず昔から私は、すべてをほしいのではなく、好きなものをさがすことの方に関心があった。そして、たくさんあればあるほど、好きなものが見つかる可能性が高くなるという意味でだけ、たくさんのものがほしかった。
今でも学生たちに、授業で調べるテーマを与えて、よく言うのは、「図書館にあれだけ本があるでしょう。でも行って調べてごらんなさい。知りたいことが書いてある本はめったにないから。だから図書館には、めったに人が読まないような本もすべて置いておかなくてはいけないし、限りなく量を増やしておかなくてはいけないんです」ということばだ。
それはインターネットも同じこと、いやもっとひどい。あれだけ情報があふれていても、私が知りたい大抵のことは、どこをさがしてもまず絶対にみつからないことになっている。
文学の中のお買い物場面で、一番古いのは何かと考えると、思い出すのはトロイ戦争の前に、英雄アキレスが、いくさにやって死なせまいとした母のテティスによって、何とかいう王様の宮廷の王女の中に女装してかくまわれていたところに、賢いオデュセウスが物売りに化けて訪れ、発見して連れ出すというくだりである。そんなかくまわれ方をして、いったいアキレス本人の気持ちはどうだったんだと突っこみたくもなるが、女装して隠れていられたのだから、美しい若者だったのだろうとは思う。
そう言えば日本古代の英雄ヤマトタケルも女装して宴席にしのびこんで、クマソを倒している。私の小さいころの日本映画で、ヤマトタケルを三船敏郎が演じていて、それでこの場面をやってたから、女装してベールの陰から血走った目がのぞく、ごっつい三船を、クマソが「おお美しいのう」とか言ってひきよせるという、あまりにも無理すぎる画面になっていたのを、今でもよく覚えている。というか、そこだけしか覚えていない。それに比べると、最近の映画「トロイ」のブラッド・ピットのアキレスなら、まだ何とか見られたかもしれない。
私はブラッド・ピットのアキレスなんてと、見る前はかなり心配していたのだが、実際の「トロイ」の映画を見ると、なかなかしっくりはまっていた。美しいがどこか常識はずれで型破りで変なやつという印象が、実際にそうかどうかはともかく、どことなく彼にはあって、それが伝説のアキレスを彷彿とさせた。ヤマトタケルもおそらくは、女装の似合う美しさと人間っぽくないアンドロイド風の冷たさや狂猛さを具えた青年だったのだろう。それは日本文学の中で、近松や馬琴が描く、牛若丸、馬琴の「八犬伝」の中の犬坂毛野などにつながる系譜で、これも実物はどうか知らないが、フランス革命時のサン・ジュスト、それをモデルにしたという「レ・ミゼラブル」のアンジョルラスなども、同じ流れのイメージだろう。
ところで、そのオデュセウスがアキレスを見つける話というのが、せっかくだから原典を引用しようと思ったら、これが死んでも見つからない。話自体は私が知ってるぐらいだから、もちろんやたら有名で、ネットでも書籍でも、どこにでも出てくるのだが、出典だけが記されていない。名画の題材にもいくつかなっていて、画像も見られて、それでもである。もどかしくって腹立たしい。
何しろ私も専門でも何でもないのに、ギリシャ神話関係の本はなぜかつい買っていて、阿刀田高の文庫本などはもちろん、何でまあこんなものまでというような本まで書棚から出てくる。平凡社ライブラリーのピロストラトス『英雄が語るトロイ戦争』では、アキレスの女装の伝説が事実でないと否定されていて、そこに「注」がついていたから、やった!と躍り上がった。国文学の演習などで調べものをしていても、こうやって、他人がつけた注から手がかりが見つかることがよくあるからだ。ところが、その注を見たら、
「彼をトロイア戦争に行かせないため両親がエーゲ海のこの島に女装させて住まわせていたが、オデュッセウスの計略で見破られけっきょく参加することになった、というのが普通のバージョン」
とある。あのさっ、そ、その「普通のバージョン」の出典は何かってことを、こっちは知りたいのっ!まあ、こういうのも、よくあることなんだけど。調べものをしていると。あらためて、図書館だろうとインターネットだろうと、情報の海の中に求める真珠は見つからないことを、山ほど真珠が見つかっても、ほしい真珠はないことを、思い知る。
しかたないから、私がそもそも最初にこの話を知った、児童文学の文章を引用しておく。
さて、幼少年時代のかれは、父の友人である半獣神ケィローンによって山間で育てられ、うまのごとく走ることと、やりを投げることとに、とくに長じた。そして、たくましい青年となって、父のもとにもどってまもなく、かれの参加を求める使者が、アガメムノーンから来たのである。
母のテティスは、もちろん、このことを喜ばない。使者が到着しないうちに、かれをスキュロス島の王城に送り、王リュコメデースの王女たちの間にかくした。
つたえ聞いた使者は、リュコメデースのもとに来て、王子たちの間をさがしたが、それらしい人影を見つけることができずに帰った。
なん度めかの使者が、むなしく帰ったあと、オデュセウスが使者として来た。かしこいかれは、王子たちの間をさがしてもいないと知って、王女たちに目をつけた。しかし、かの女らはみな、同じようなベールをつけ、同じような服装をしているので、見当のつけようがなかった。
いったん引きあげたオデュセウスは、老将ネストールとともに、商人姿となり、年ごろのおとめたちの喜びそうなベールだの、首かざりだの、化粧鏡だのを持って、もどって来た。そして、それらの品物の下には、一ふりの剣をかくしておいたのである。
王女らは、それぞれ、このみの品を手にとって、熱心にながめている。ところが中にひとり、それらの品物には少しも目をつけず、目ざとく剣に目をつけるやいなや、いきなりそれをとりあげ、むちゅうになって見いっている。そこで、オデュセウスはその王女が、めざす相手アキレウスの変装であることを知った。
アキレウスは出陣のすすめを聞いて、大いに喜び、さっそく父のもとにもどった。そして不敗をほこる勇敢な兵団ミュルミドーンと、例のよろいと、軍馬とを父からさずけられ、勇躍して旅だった。
(講談社版「世界名作全集」40 『ホメロス物語』 高津春繁)
小学生程度の読者を対象にした全集としては、高津春繁氏の執筆だけになかなか格調が高い。これでギリシャ神話を知った私は幸福だったと今でも思う。
で、これが、私が映画「トロイ」を見たときに、映画館で買ったグッズの「アキレスのかぶと」である。この映画、私は結局かなりはまって何度も見て、ファンフィクションもどきの小説までいくつか書くほど熱中した。このかぶとも、毎年五月のお節句には、わが家の飼い猫カツジのために、鯉のぼりのおもちゃと並べて、ちゃんと飾ってやっている。