近世紀行文紹介橘南谿「東西遊記」について
1 異世界と虚構
「東西遊記」について私はこれまで二度書いている。ひとつは「江戸の旅と文学」(ぺりかん社)の中の「仙境への旅」で、もうひとつは「江戸の紀行文」(中公新書)の中の「橘南谿と奇談集」である。
前者で私は、「南谿は異世界が好き、具体的には辺境と洞窟が好き」と書いた。後者で私は「南谿はけっこう話を創作する、今風に言うと『話を盛る』人で、資料としての正確さという点では信用はできない」と書いた。
橘南谿は京都の医師。医術修行のために全国をめぐった旅を題材として天明年間に書かれて出版された「東西遊記」は、当時からよく読まれており、近代以降も江戸の紀行文学の中では、芭蕉の「おくのほそ道」についで有名だ。「おくのほそ道」以外の江戸紀行がほとんど取り上げられることのなかった昭和20年代以降にも、比較的よく知られていたし(庄野順三の小説「夕べの雲」にも登場している)、それ以前の近代では「おくのほそ道」と並んで、江戸時代の紀行の代表作として扱われていた。緻密ですぐれた研究も多い。だが、それらの研究や解説でも、私が言ったこの二点を指摘した人はいない。というか、近世紀行の名作、代表作と言われるこの作品を、正確さの点では信用できないなどと失礼なことを言った人はいない。
ただ私のこれは、それなりにほめことばでもある。一定の枠組みにはめて、物語を作っている節があるからと言って、「東西遊記」がつまらない作品ということには決してならない。逆にその虚構性が何よりも、この作品を優れたものにしているし、それは、この作品の本質ともつながってくる魅力である。
2 書型と目録
実は近世紀行の研究を始めてすぐ、比較的有名なこの作品と会い、面白さも充分に感じて江戸時代の紀行の魅力を示すものとして紹介もしていたけれど、そうしながらいつもどこか居心地の悪い、気がかりのようなものを感じつづけていた。
私は我ながら几帳面な性格だと思う。(どこが、と言う人も多いだろうが。)この作品を紀行と呼ぶことに、何だかいつも落ち着かない気持ちになったのは、図書館の目録類と、実物の本との二つを見ていたからだった。
多くの図書館の目録で、「東西遊記」は紀行の部ではなく、読本や地誌といった別の部門に入っていた。それは、この紀行が、日時や経路の順に記されるのではなく、一人称で綴られてはいるものの、「剣の舞」「豆腐の怪」「葡萄嶺雪に歩す」などといった項目を立てて、短い挿話を並べるといった形式をとっているからというだけではない。当時の版本を見た時の外見が、紀行というより読本や奇談集の体裁だったからだ。
江戸時代に限らず、古典文学は活字になった現代の本を見ただけでは絶対にその性質が理解できないとよく言われる。本の大小、字体、紙質などが、おのずとその読者層や作者の意図を示しているからだ。江戸時代の紀行の場合、大抵の作品は今のA4サイズ程度の大本であるのに対し、「東西遊記」は、読本などと同じB5程度の半紙本のサイズである。
研究生活が長くなるにつれて書型と内容の関連の深さが実感されてくるにつけても、私はますます落ちつかなかった。従来の研究で、当然のように「東西遊記」が紀行と扱われていることに安堵して、いわばそれに甘えていたが、その一方で「よくこんな本を紀行として扱ってきたなあ。私は助かるけど」という印象がいつもあった。
3 奇談集に名を借りて
だが、最近、その疑問が少し解決できはじめたような気がする。
江戸時代の紀行の基礎を作ったのは、芭蕉と同時代の元禄期の、貝原益軒の「木曽路記」をはじめとする紀行類で、益軒はそれ以前の古典紀行の情緒的で感傷的な要素を排除して、江戸時代にふさわしい紀行を作るために、「正確で実用的な情報伝達」ということを紀行創作の基本にすえた。彼のこの姿勢は江戸時代の紀行作家たちに強く意識され、作品を作る際の大きな拠り所となっている。
実は南谿の「東西遊記」は、その点でやや微妙な作品である。スタイルとしては「旅先の豊富な情報を読者に提供する」という益軒紀行の姿勢をとっているが、前にも述べたように、その内容は読み物としての面白さが、正確な事実の報道とは言い難い誇張や虚構を生んでいる可能性が高い。同時代の古川古松軒がやはりすぐれた長編紀行「東西遊雑記」の中で、南谿の記述の正確さに疑念を投げかけたのも、当然であろう。
だが、たとえば「奥羽行」のような、内容は普通の紀行でありながら、「東西遊記」を意識したかに見える、どこか奇談集めいた作品を見ると、あるいは「奇談」といった形式を取ることで、出版が許されるという作者や版元の思惑があったのではないかという推測が生まれる。
「旅先の土地を観察し、豊富な情報を正確に記す」という益軒紀行が築いた姿勢と手法は、江戸時代の紀行の根幹をなす、絶対に譲れない本質であったが、これは考えて見れば、今でいうところの秘密保護法に完全に抵触する精神でもある。城下町の地理、土地の産物、人々の気風、といった紀行の題材となるあらゆる情報は各藩が外部に知られたくないものばかりだろう。
江戸時代の紀行の多くは写本で伝わる。版本つまり出版された本になった紀行の多くは、歌集や句集、漢詩集、もしくは実用的な案内記(益軒紀行は実際にはすべてこの体裁である)、そして「東西遊記」のような奇談集である。旅の実用書である案内記、架空の話を集めた奇談集、こういったものに姿を借りることで、江戸時代の紀行は各地の機密事項に触れるような記事を公表することを許されていたのではないか。
このあたりの言論統制や自主規制の実態について、私はまだ十分に調査していないし、正直言ってもうそのような研究をする時間がどこまで確保できるかは心もとない。とりあえず一つの推論として語っておくにとどめるが、南谿の「東西遊記」が奇談集の体裁を取るのも、それにもかかわらず紀行として扱われてきたのも、そのように考えれば理解できるし、必然の成り行きであったとも言えるのである。
4 内容紹介
最後に「東西遊記」の一項を紹介する。これは異世界好みや秘密保護法とは関係ない記事だが、南谿の語り口の巧みさと、あるいは脚色もあるかもしれない面白さとを味わっていただきたいと思う。あ、もしかしたら狭い船中という点ではこれも一つの異空間だろうか。
霧島山から帰る途中、大隅の新川という所から渡し船が出ていると聞いて、すぐそれに乗った。その夜は風もなく、しかも引き潮で船が出せないとのことで、満潮と風を待って停泊していた。乗合客は二十五人で大変にぎやかで、頴姪郡の女性が五六人その中にいたのを周囲の客たちが「西目歌は面白い。女たちよ、歌って聞かせてくれ」と頼むのを女性たちは恥ずかしがって最初は断っていたが、だんだんうちとけてきて、「頴姪郡の海門が嶽は、うけつな嶽だよ、雲の帯をしてにょきにょきそびえているよ」と声を合わせて歌った。田舎めいた曲の節回しが面白く、目が覚める気持ちがした。それから焼酎などを買ってきて、船客一同ざわめいて楽しく過ごした。しかしだんだん夜もふけて、満潮にはなったが風がないので船が出せず、皆退屈して「風があれば」と待ちわびた。
客の中に山伏が一人いて言うには、「こういう海の上ではどんなに知恵や勇気があっても発揮しようがないものであるが、私の修めている修験道では昔からこういう状態に効果があることができる。熊若丸(阿若丸。くまわかまる)を救った山伏は出港していた船を祈りで呼び戻し、武蔵坊弁慶は大物の浦で出て来た平知盛の幽霊を祈祷で退けました。私も今夜北風を祈りで吹かせて見せましょう」と自信たっぷりに言い出した。すると船の真ん中あたりにいた年齢は四十歳ぐらいで鼠色の旅合羽を着ていた男性が、長い刀のほこりを払って、「この刀は谷山安行が鍛えた名刀である。昔、航海する人が暴風にあった時、この安行作の刀で波を払ったら、すぐに風波が静まったため、その効果から『波の平の行安』という名をもらったということだ。今この刀を持っているからには、どんな暴風があろうとも、皆さん心配はいらないですよ」と同じように冗談を言ったので、私もわざとらしく声音を使って、「中世の名医師である曲直瀬道三が新居の海を静めたという話もあるから、医者だって航海の役に立たないとは言えない。特に、この袋にはいろんな薬品が入っているから、水(下痢)や風(風邪)を治めることもできる。どんな嵐にあっても山伏さんにはひけをとらない」と、めいめいが自分の専門のことにかこつけて、ふざけて言うので皆が拍手して大笑いした。
たしかに山伏の祈りの効果か、夜中過ぎから山々の嶺に雲が出て北風がどんどん吹き始めた。船頭は喜び、「気分のいい話をしていたから、いい風が来た」と順風に帆をいっぱいに張って船を出したところ、あっという間に二十キロか二十五キロぐらいの距離を走破した。ところが風はどんどん強くなり大波が何度も逆巻き、次第に風向きまで変わって、何やらどきどきする状態になった。帆柱の下にいた老船頭が、大きな声で「天気が変わるぞ。風もどう変わるかわからない。舵取りは油断するな」と呼ばわった。舵を取っていた男性は若くて頬髭が左右に広がって、前夜から荒々しげな男だったが、「この風が変わるわけがない。広い海の上で仕事をするおれに、舵の指導はいらない」と忠告を無視したのを、老船頭はますます心配して、「海の上は注意が必要だ。特に多くの客を乗せている。どんなに腕がいいからと言って甘く見てはいけない」と言うので、船客たちは皆恐ろしく心細くなって、「船頭の言うことがもっともだ。舵取りは最悪だ」と口々に言い出した。舵取りはなおも抵抗して「船の運航は素人がわかるわけがない。やかましい乗客たちだ」と失礼な発言をしたものだから、例の旅合羽の男性が激怒して、「無礼な舵取りだ。あいつを舵から引き離せ」と叫んだ。舵取りも激怒して「この男は乗合船のエチケットを知らない」などと、悪口の言い合いになった。短気な舵取りは七十センチほどの大脇差をぱっと抜いて、月光に稲妻のように輝く刃で、旅合羽の男性めがけて切りかかった。合羽の男性も刀をつかんで立ち上がる。船の中は煮えくり返るお湯のように大騒動になり、女や子どもは泣いて逃げ回る。しかし、ぎっしり客がつまった船なので、どこへも逃げて行きようがない。船頭二人がさっと舵取りと客の間に入り、ふとんを刃に投げかけた。客たちも皆折り重なって、とうとう舵取りを押さえこんだので、どちらもけがもなく、騒動は静まった。その間も風はますます強くなって船は矢を射るような速さで目的地に着岸した。
この騒動の間、船の舵をとっている者はなかったのに、ふしぎに無事に船が港に着いたのは神の助けという他ない。争った二人が、もう少し近くに居たら、おたがい切り合って負傷もしただろうに、距離が離れていたからこそ、大きなけがもなく取り押さえることができた。実に危ないことといったら限りがなかった。船から上がった後も、旅合羽の男性はまだ怒っていて、舵取りを手討ちにすると身構えていたのを、老船頭がさまざまに詫びて謝って、無事に事を収めた。私のような長途の旅をしている者は、もしとばっちりで傷でも負ったら実に予想外の災難になるところだったが、何も被害がなかったのは天の恵みというものだろう。(「西遊記」続編巻の五「剣の舞」)
わ、原文を書く間がなくなった。あとでつけます。まあ、図書館などにもある本なので、わりとどこでも読めますが。
(2014.12.12.)