近世紀行文紹介森為泰紀行類のメモのメモのメモ
目次
国会図書館所蔵の「出雲紀行」22冊本のうち、森為泰のものだろうという紀行についての覚書です。原文を読みながら走り書きした文字通りのメモです。本来公開するようなものではありません。まちがいもきっと多いと思います。しかしまあ、私が突然死んだりしたら(笑)、こんなものでもないよりはましかと思うので、紹介しておきます。少しずつ、ちゃんとしたかたちにまとめて行きたいのですが、さて、いつになることやら。
森為泰「出雲国阿之折紀行」
中表紙題は「阿之折紀行」。作者の森為泰(もりためひろ)は、1811~1875の江戸後期~明治の国学者。文化8年二月生れ、出雲(島根県)の人。中村守臣、千家尊孫(たかひこ)に歌学をまなび,松江藩の皇学館歌学訓導となった。明治8年4月16日死去。65歳。初名は忠正。通称は左馬之丞。号は千竹園(前出の紀行のいくつかの表紙の名。蔵書か?)。著作に「出雲紀行」など。(←コトバンク)。
天保四年(1833)神無月、足の療治のために出発。松江から、くやの長池、はまつた、雨で朝日山も見えない。木の葉をかく子どもを見る。大墓(遭難者の合墓)、てらす、おうのうみ、雨で何も見えず、今様の歌を歌いながら行く。大野のうら、ぬの崎、渡しで舟の中で連れができる。その人は知人のところに泊りに行き、その後宿を取れずに苦労する。平田のくすし山口某の家に滞在。板戸の穴から若い女性たちをのぞき見する。主人の妻にたのんで仲介してもらって、一人とつきあう。ここに七日ほど滞在、足もよくなり、くすしの勧めで大原の牛尾に入湯に行く。つきあった女性に歌を残す。平田を出て、神郷郡と出雲郡のさかい大川の渡りを過ぎ、神立村、留守の神の集まる神社に参詣。知人宅に二泊。力持ちで男性的な美女に言いよって振られる。ここを出て簸の川の堤を上り、岩の下を走る高瀬舟をみる。大原の郡、草まくら(地名です)、のぶの、櫨原、かも川(ほんとに鴨が多い)、大竹の光明寺を土地の男に聞いて説明してもらっている内に、渡辺某の家のことを思い出し、倒木に腰かけて、渡辺の先祖が仏像を背負って国をめぐって光明寺を立てたことなどを書きとめた。仁王寺のあたりで、同じ牛尾に行くという十七と十ぐらいの女性二人づれをナンパして連れになり、途中でごつい男とも一時連れになる。下分で、二人の女性は川の向こうに渡って今夜牛尾でとか言って、どうやら逃げたもよう(と私は思う)、作者はちょっとがっかりしている。しつこいぞ。
で、牛尾に滞在。静かなところでちょっと淋しい。近くの弘安寺に参詣。先祖が幼いときこの寺に居て、鷹狩りに来た松江の城主に見こまれて家臣になった話を思い出す。古今集を持ってきているので毎晩読む。近くに住む女性を、宿の娘に仲介を頼んで誘ったら、夜中に裏の石垣を上って訪ねて来た。この女性と何度か会う。また、湯治客の猪谷という男性と友だちになり彼が帰るときに短冊に和歌をたのまれて書く。予定以上に滞在したが帰る日になり、女が嘆いて自分は歌がよめないから代わりに詠んでくれと言うので、彼女の分と自分のと別れの歌を詠んで別れた。牛尾から忌部をへて松江に帰った。
こんなんでいいのか、訓導が。機会をのがさず女性にコナかけて成功してる。こんなに女性との話が出る紀行もちょっと珍しい。面白いけど。作者はこの時22歳、まあ、しょうがないか(って何が)。
牛尾温泉は海潮温泉。島根県雲南市大東町に今もあって湯治地として栄えている。
森為泰「御島日記」
これは刈谷図書館と岩瀬文庫に、それぞれ自筆稿本みたいなのがあって、両者の関係はまだ不明。私が見ているのは刈谷本。でもこれ為泰の字じゃないなあ。読みやすいんで助かるけど。
そして万延2年(1861)三月の出発。1811年生まれだから、作者はこの時51歳。実はこれ以後がいきなり明治四年に飛んでるみたいなのが何だかなあ。間の作品は残ってないんだろうか。それとも書く間がなかったんだろうか。
中表紙に御島は松江城下より五里ほどとあり、そこへ松を見に、三月四日に出発。風土記と地理沿革図に松のことがあるので、現地の人に会うたびに聞いたら、昔のままの松とかそうでもないとか諸説があるので確かめたいと出かける。同行者は松井言正、三上吉利、土岐国彦、和多田伊予、息子永雅、って多いなあ。春日、法吉(鶯谷という名所)、佐陀橋、身澄池(絵がある)、休憩、にぎりめし食べる、大宮参詣、名分、古勝間松、ひよく塚、30年ぶりに見た松は意外に大きい。佐陀大社の絵あり。松の周囲を測る。松の子を持ち帰って植えようと息子に掘らせる(おいおい)。この松は三代目と土地の人が話す。腹がへったので、二見が浦のようなところで自在かぎをかけて昼食。来れなかった足羽美生がくれた茶をわかして飲む。楽しかった。六坊浦への道で若魚網見る。説明わかりやすい。芦尾、鎌田、魚瀬浦、御島を見る。海が荒れて船が出せないというので、海中を歩いて島まで行く。無茶するなあ。更に息子たちは崖をよじのぼったりするが、最終的にはあきらめて松のそばまでは行かなかった。いろいろと松のことを考察する。浜に帰って干してあるわかめを貰い、弁当を食べる。帰路の山路にかかって岩を飛び渡っている狐と会った。それから山路に迷って樵夫に聞くとここは秋鹿村とのこと、心細くて長江村に出ようと思ったが、古浦に預けたものもあったので、山を下って日没ごろ六坊にやっと出た。古浦への山路が暮れたらと疲れて心細く、舟人に勧められて舟に乗った。御島の陰陽石もちゃんと計測したかったが、時間もなくてはるかに見ただけだった。帰宅後(かな?)昔写した絵が出てきたので、それを使って絵を描いた。やっと本郷橋まで戻り、ある家に寄って湯をわかさせて夜食、松明をもらって生馬まで帰ったら松明がなくなった。ところで、御島の石を持って帰ると歯が痛むということを知らないで息子が石と松の根の破片を持って帰っていた。漁師に注意されて石は返したが松の根はまあいいかとそのままにしていたら、ずっと歯が痛んだ。それで御島の方を向いて祈願して、この間ずっと、歯が痛んだからその代わりに松の根はもらうから許してくれ(何かちがうよな)、もし治らなかったら歌を奉納し日記にこの霊験を書くと神に告げたら、やがて歯痛はひとりでに治った。勝間松の絵と文章あり。松は二代目か三代目かの考察をする。この松に関する文章がかなり長く5~7丁もある。
二見が浦もどきや御島や松など絵が多くある。
御島は今の「鞆前神社」の前の海にあった大岩で、本宮があったというが、もうこの紀行でも松しかないよな。このへんの海岸は改修工事が多くて、その大岩ももしかしたら、なくなっているかもしれない。ネットでは写真が見つからない。
森為泰「出雲国枕木詣」
中表紙題「まくらぎまうで」。明治四年十月九日、永雅、正永と出発。石橋縄手の武具屋で螺袋というのがあって珍しかったので値段を聞いた。買ったのかどうかよくわからない。福原を過ぎた川辺で休憩のとき、正永が石地蔵が臭くて汚いと悪口の歌を詠んだら、地蔵が返歌をした。高峯で近年作った石の不動堂を見て悪口を言っている。この紀行では作者は気が荒いのか口が悪いのか。根本堂で永正が、幼いときの病を治してもらったことと父母の思い出を語る。顧みた高峯の紅葉が美しい。錦木を抜いて持ち帰る。本庄に宿ろうとしたが、枕木寺で、冷たい弁当となまぬるい茶を飲んだので風邪気味、どぶろくを出してもらい、つまみは夜鳴貝、珍しい。一泊すると明日が心配なので、夜道を長く歩いて帰宅した。
具合が悪いから強行突破で帰宅という精神は珍しい。
臭い石地蔵、螺袋は不明。
森為泰「出雲国佐陀詣」
中表紙題「佐陀詣」。明治四年十月二十四日、佐陀の神在祭に詣でるため出発。家を出てすぐ振りかえった松江城の松の古木が皆伐採されている風景をいたく嘆いている。これは貴重な資料だなあ。その後、佐陀詣の人で街道がにぎわい、路傍でみかんを売る女性も描かれる。身澄池で宣就に会って、風景をスケッチしてもらう。これがそれかな、とてもきれいな絵。原本は色つき?ちがうか? 二人いっしょに、大宮御祭所に着き、神主の家で昼食を御馳走になる。そこを出て、人丸神石を持っている人の家を訪問、ここの人間関係よくわからんのだけど、井山次郎左衛門という主人で、宣就は知っているけど、為泰は知らないようで、宣就が紹介している? で、珍しい文書がいくつもあって見せてもらえたので、二人で分担して書きうつす。人麻呂神影石の一文とか。後半の大半はその写し。この紀行は添削が非常に多く、書写の部分はそれがないので、すぐ区別がつく。その書写の部分の後に、今の世は漢文を学べと言われて和様はすたっているが、自分は漢文は苦手なので、字の形を適当に写したとか、草がなと漢字がまじって写しにくかったとか説明している。そこを出たところで、やはり佐陀詣に来た嫁や孫に会い、他の家族にも会い、一緒に帰る途中柘植正常の母と妻に会い、東京の様子を聞き、孫を見せてほめられる。一家で西原の堀まで帰り、夜食を食べて帰宅する。
松の木の切られた城の様など、時代を感じさせる貴重な紀行。最後の家族と会うくだりもあまりない珍しい情景。短い紀行だが、すべての記事に個性があって面白い。
松江城の松についての記事はなし。人名もすべて検索できない。
森為泰「出雲国産土詣」
中表紙題「産土詣」。明治四年七月二十二日、遠藤鐸の誘いで直江に行く。船で来待の浜に着いて遠藤宅に泊る。二十三日、日吉社に参詣、子どものみやげに金魚鉢を買う。完路から湖を船で庄原の浦へ。昔の旅のことを思い出す。直江で芝居を見るが女形が下手でつまらなかった。二十五日、大宮に詣で、夕方相撲を見る。芝居はつまらなかったので、踊りを見る。二十六日、直江から神立へ。万九千大明神参詣。二十七日、産土社の祭日なので行ってみたら、まだ準備中だった。日吉社に行ったらやはり早すぎて人がいなかった。相撲場はにぎわっていたようだ。塩治八幡宮に参詣、神主秦氏に会いに行ったが取次が不快で戻る。古志川を渡る。今市参詣の人が多い。男女の服装を描写し、今の世は四民平等になって上下の区別がなくなりすぎるのも見苦しいと批評。山本権市宅で昼食。「唐人」のところより、ここがいいと先の秦氏を悪口。屏風を見せてもらう。二十八日、朝両社に参詣(八幡宮と高倉宮)、高倉宮で後から老人が来て、八十二歳だとのこと、会話していると昔の自分を知っている人で奇遇だった。岩坪に帰って古い棟札を書写。神道がのんきだから仏教にいろんなものを奪われたことを惜しむ。二十九日、自分の家のことを長歌に詠む。内善宅に行く途中、遅いというので迎えが来た。夜遅くまで語り明かした。三十日、知井神社に参詣。八月一日。神立から直江に行き、福田宅に行くと「是見よ」と廃藩置県の通達を見せられ、衝撃を受ける。直江を急いで出て、来待に帰り身を清めて日吉社に参詣、今後のことを祈った。二日朝また詣でて歌を詠む。朝五つに来待を出て昼ごろ帰宅した。
湖は宍道湖か。四民平等、廃藩置県の実態がリアルタイムで書かれていてとても面白い。みやげの金魚鉢や老人との交流も。転換期の貴重な資料である。
森為泰「菅原詣」
中表紙題による。「まくらぎまうで」と合冊。明治五年三月十一日、菅原天満宮へ和歌を納めるために時子、菊子と出発。二人が持ってきた雨傘が風でさせず荷物になるので、岡田豊年宅に預けて空腹だったので食事もしたら出るのが遅くなった。遠藤宅をはじめ、あちこちで歓待される。歌を奉納して神主菅野薫宅に行く。留守だったので夜食を食べ、帰宅した主人と遅くまで歓談する。十二日、狩野宅に行くと、硯石の山に行ってわらびや椎茸を取ろうと誘われる。菓子餅の葉にタラの芽のあえもの出る。薫の母の案内で横見に来たとき、武田と会って感動のあまり抱き合いもみあうのを見て、時子たちは驚いていた。十三日、また御馳走になった後、横見から菅原に帰る。宝物の菅原聖廟記読む。京都から持ち帰られて菅野宅に預けてあった手紙を、菊子に書写させる。八つ時になったので、菅野宅へ行き、天満宮もまた拝む。
武田と行きあって感動してハグするしぐさの描写はやたら細かい。
森為泰「出雲国大宮詣」
中表紙題「大宮詣」。右端に「東京に奉りし」とある。明治五年四月十八日朝、松江を出て来待村の遠藤宅に着き、日吉社参詣、夕方に成相立敬に会い、菅原社の聖廟記を写する価値について問答。十九日、立敬の学校に行き、菅原社に行く。ここで一昨年の紀行の清書をする予定。二十日、大社詣の清書にくたびれて知人を訪問。二十一、二十二日も。二十三日、聖廟記を書写した道外と功が帰るのに、できた分の清書を持たせた。二十四日に一宮に行く予定なので、出発する。大山峠で雷雨。二十四日、一宮に向う。雨で水が氾濫している川を越えて夕刻に着く。二十五日、一宮参詣、歌会を催す。三刀屋町に行く。二十六日、一宮に帰り、また歌会。重古が風邪気味なので、須佐には息子の秀知が同行することになる。二十七日、朝、庭の椎の大木を見る。朝食後、一昨日松江に着替えを頼み出産の様子を聞く手紙を出していた返事が来て、永雅の妻の中女が男児を安産したとのこと。気にかかっていたので安心して出発し、掛合宮内村の日倉神社に参詣、弟子の申し込みもある。加倉田村で滝を見物、原伝九郎宅で昼食(いきなり訪問して無茶だなあ)、泊れと言われるが出発、深谷、仏が峠、朝原村、鎌ヶ谷、堀坂、須佐の為田村で滝を見る。二十八日、大宮参詣、歌会。二十九日、袴腰に登る。案内の美賀は、長なめらという坂道では鎌で草を切りはらい、口をあけていたまむしを危うく切り捨てる。頂上で鶯と郭公を聞く。山々の眺望がすばらしい。三瓶山の形が特に良い。茶をわかし弁当を食べ、尻が冷えるまで歌を詠んで、あたりに生えた蕗も取って帰途につき、昔上った三瓶山の犬戻しのような難所をいくつも通る。長なめらで、美くら(賀?)が石で竈を作って茶をわかしてくれた。下って素稽川のかじかを聞き、羽山という地名にかけて歌を詠んだ。三十日、画讃を頼まれ、聖滝の題を皆に出す。明日は掛谷に帰ると言うと皆が名残を惜しんで、また歌を詠みあう。(滝の絵と歌)五月一日、須佐を出る。松笠村で休んでいると日蝕になる。滝を見物。出谷峠で郭公を聞く。掛合村で田植えを見、夜は蛍を見る。二日、狭長社に参詣。田植えを見て、田植え歌を書きうつし、長歌を詠む。三日、掛合から原峠、源所村の八幡宮を拝み、中野村の永井宅に行き、去年焼けた家や土蔵の新築を見て歌を詠む。家を建てた大工も来て歌を望むので詠んでやる。四日、雨、光命宅に行き、猿と桃の絵に讃を書く。夕方、田植えを見て「つか苗子」という言葉を知る。五日、三刀屋めざして出発、宅和村、佐藤宅訪問、引きとめられたが帰心がつのり先を急ぎ、三刀屋に着く。六日、雨、天満宮参詣。酒屋の主人の病気平癒の歌などいろいろ所望される。七日、簸の川の端がなく、富門が瀬踏みして、それについて渡る。里方村の八本杉を拝んで山方村、佐世保村(学校を訪問)、佐世社参詣、夜食後に歌会。八日、佐世社参詣、入門希望者あり。飯田村、大東町、清田村、世利太野社参詣、熊野神社参詣、入門者もあり、引きとめられて、いろいろ予定を検討し、明日の夕方までとどまることにする。九日、世利太社に十九世仕えて、今度移動する千原氏に頼まれて歌を詠み、とどろきの渕、姫が丸の古城跡、安徳天皇のほこらなど見物、夕方出発して大東町の宮沢宅に着く。田植えを頼んでいた人の訪問。(ここ意味が不明。)夜食後、蛍を見に行く。十日、加多社参詣、新居村、十一歳の少年が歌をほしげなので、書いて説明して与える。昼過ぎに出発、山田村で見送りの人たちと別れる。富門は松江までついて来た。十三日に帰宅。
長い紀行。実際に長途。あいかわらず人々との交際がはんぱない。どこでもいきなり訪問しては歓待されて引きとめられて、宿にも食事にも従者にもまったく困っていない。こんな旅なら楽だろうなあ。忙しくて紀行の清書ができず、神社にこもって清書するが、それも失敗しているような。しょっちゅう歌会を催すし、大工や少年まで歌を望む。日本の文化度の高さがすごいっちゃあすごい。田植え歌を写しているし、マムシは出るし、日蝕はあるし、興味ある記事が満載。これだけ内容が盛りだくさんでは、久足風なじっくり描写や考察はそりゃできないだろう。だが、面白い記事を面白く書くセンスは、すごくある人ではある。
明治五年五月一日には本当に金環食になっている。袴腰山は徳島県鳴門市のそれか。全国に同名の山があるが。「つか苗子」は不明。
森為泰「出雲国鹿聞紀行」
明治五年九月十九日、時森標樹・寺田心典と鎌佐田の入江元紹宅に行き、秋鹿町、あすか谷、多久村、岡田、福村、田人と本庄村で落ちあい、通伝寺で一泊、二十日、寺に参詣、本庄から万田、古津浦で一泊、二十一日、常福寺から常光寺(拾った石のこと)、鰐渕寺で一泊。二十二日、天皇誕生日、歌詠む。二十三日、摩多羅神社、児が渕見物、入門希望者のこと。二十四日、神門郡へ。遥堪坂の古木が切られ鹿の姿が消えたこと。二十五日、八幡宮、高倉社、岩坪、碁石がたわ、小野木松の見物、七十六歳の知人の母が案内。二十六日、野尻村の牛尾氏訪問。神西から知井神社、山本権市訪問、重病で会えず。馬木の川堤で弁当。鮎の干物の値段。鞍掛岩見物、道に迷って遠回り。石はたけ、要害山、野尻に着いて牛尾宅で、雉子を撃ちに行く準備をする。二十七日、雨。箱に上書きを頼まれる。二十八日、野尻、稗原、(雉子撃ちは雨でやめたのか?)高橋(岩倉)という大家を見に行き、歓迎される。稗原村の児が渕見る。舟津村、里いものごちそう、石塚、久留原堤、神立村に一泊。社司から秋なのに生えた竹の子の歌を頼まれる。二十九日、大津の高西に行き、中山辰兵衛の母(六十一歳)と話す。六人の孫・ひまごの世話が忙しくて歌が詠めないとのこと。帰途に雲根社や神立大明神で神事花を見る。竹になった竹の子も見物。七十五歳のおたかさんが会いに来る。十月一日、神立を出て、荒神松見物、倒れていたのが地震で反対側に倒れて前よりましになったようだとか。直江、庄原、錦木を掘る。酒屋で休んでいたら、座敷に服装はいいが柄の悪い客がいて、今夜泊まる予定をかえて、すぐ店を出た。その後あちこち行ってもいろいろあって宿を取れず、決心してこの地をはなれ、柳井まで帰って食事をし、たいまつをかかげて夜中に帰宅した。
スケッチをよくするようになって、何枚か絵図がある。遥堪坂の文章がよい。最後に宿がとれないのもリアル。育児にまぎれて歌が詠めない老女も印象に残る。
「鹿聞」は地名ではないのか。鹿の声を聞く旅ってこと?聞いてないけど。
遥堪坂は現在出雲市大社町遥堪峠。神事花は出雲市大年神社で祭礼の時に今でも作る。小野木が松は1939年に干ばつで枯死。鞍掛岩は現存。
森為泰「出雲国天満宮詣」
中表紙題「天満宮詣」。明治五年八月二十三日、僕和太郎を連れて出発、玉造、田根を行く。この和太郎がなかなか最初から活躍。梨や柿の値段が上がっているとか空腹で弁当を早めに食べるとかの記事で。
菅原天満宮に参詣、大山の弥平さ越という坂路からの眺望よし。幡屋、仁和寺、秦家で休憩、赤川、立原の川を渡る。大川を灯籠をつけて渡る。きび団子を食べる。三刀屋の大下宅に泊る。二十四日、
二十五日、天満宮参詣。競馬の神事あり、梅の作り花もらう。二十六日、夕方相撲を見に行く。二十七日、牛市に牛が来ている。二十八日、風邪気味なので、和太郎を松江に返して休息。二十九日、松尾宅に行くと、永井が来ていて、何かわからないが、民の苦しみとなるから再願という話になって閙しいのでそこを出て、広沢宅など訪問。三十日、朝、大下を出発、飯石と大原の境の大川を渡る、下分、大東の宮沢宅に泊る。来客(楠寛正)と歌の話をして相手は俳諧をたしなむとのことで一句詠んでもらった。他の客も来て、竪うたを教えて声がしゃがれるまでうたって、飽いた。九月一日、かだ社参詣、竪うたをうたいたい人たちに引き止められたが出発。加多坂、山田はた、ひよどり、和名佐抔の大山を越えて、大谷、日吉社参詣、玉造、湯町、安部山を越えた所で顔は知っているが名はしらない人の家で休憩、頼まれて歌を書く。
ちょっとおかしな所で終わっているが、いいのか?
あいかわらず人間関係が複雑で多くて、ちょっとうんざりだ。
「立歌」は「たちうた」で、雅楽のひとつ、歌い手や演奏者が皆立ったまま歌う歌のことだって。へええ。
森為泰「出雲安来紀行 菅原詣」
中表紙題「安来紀行 菅原詣」。明治五年三月六日、安来(やすぎ)の花見に行く。津田の松原を過ぎ、多賀山を見ると木立は伐られていたが、桜だけはまだ残っていてうれしかった。井奥(いのく)の茶屋で雨宿りして休憩。平浜八幡宮の梛の葉の思い出。楫屋の御社を過ぎて雨がやまないので、ある家に休憩、うたたねして、雨がやんだので荒嶋に行く。昔は扶持をもらっていた松だが、人の扶持さえとりあげられる時代だから枯れかけて見える。富田川、江尻、野口宅に泊る。七日、下山大明神参詣、姫崎の花を見る。安来の町を見物、祇園社に参詣。庭の糸桜が美しい。社日丘の花を見に行く途中で野間一玄らと会って、ともに丘に上る。雨がふってきたので帰って酒盛りをして花の歌を皆で詠んだ。夕方、愛宕山に登って四方を見る。野口宅に泊る。八日、野口宅を出て江尻川、戸田川の堤から見ると、一昨日赤みがかっていた花は白雲のように満開だった。富田川の堤から見た東江の金藤唯三郎邸という美しい屋敷を(連れの一人の知人だとのことで)訪問し、蕎麦と昼食をごちそうになる。まったくもう。荒崎の中佐屋宅で酒を飲み、味醂酒を土産にする。それからあちこち立ち寄って、酒も飲んで、帰途についたが、津田の松原付近で日は暮れてしまった。
以上が「安来紀行」。花見なので、いつもほどは歌会はないが、やはり行く先々で歌を所望されている。人間関係もあいかわらず濃い。
社日丘は社日山、今の安来公園 現在でも山陰有数の桜の名所。姫崎は姫塚か? ここも桜の名所だが今は古木が多いとか。
後半の「菅原詣」は、前出の「菅原詣」と同じ内容。こちらはかなり添削してあるので、前出の方が清書本か。形は前出の方が小型の横本、こちらは半紙本だが。
森為泰「出雲国六日記」
中表紙題「六日記」。左下に「芝岡鰤」。これ誰? 年号不明。神門・飯石両郡の宗門改めのため、五月二十五日に松江を出発、玉造、大谷、上東海、和名佐、下分、養加、佐世、佐世の社の佐世の木の由来わからず。簸の川を船で渡る。三刀屋、天満宮参詣。二十六日、滞在。二十七日、歌をいろいろ頼まれる。夕方、改めで浄土寺より迎えが来る。宗門改め無事終わる。客と交遊。二十八日、三刀屋を出る。人足が石峠は暑いだろうと話している。大谷の山路で源兵衛が山吹の花を折ってくれる。郡境に役人たち出迎え。さるまさ山を見る。休憩している間に一行の人数を数える。計二十五人。選ばれた人足で矢のように坂を下る。松江育ちの従者は遅れる。馬木川を渡る。高倉社山の通路を掃除したと聞く。正八幡宮、高倉神社、岩坪の神跡に参詣。江戸の鈴木重胤が岩坪の歌を集めているが集まらない話。(なので自分の歌も出す。)庄屋重一郎一家の話。家が絶えかけたのを再興したので、歌を詠んでくれと頼まれる。夕方から塩冶へ行き、日暮れに布野郡十郎宿に着く。二十九日、夕方、白枝村の願楽寺で宗門改め。簸の大川で思い出にふける。神立村で休憩、完路で昼食、郡十郎宅に戻り一泊。三十日、塩冶を出て今市、大津(ここで終わる。末尾は欠落か)。
宗門改めに回っているようだが、これは為泰か? 弁当を食べるとか「きその夜」という言い方とか、この交流ぶりとかはそうらしいが。江戸末期はたしか。あまり面白い記事はないが、一行の人数を数えているのは珍しく貴重な資料。人足のことなども。
森為泰「出雲国鳥上山日記」
中表紙題「鳥上山日記」。「明治五年十月十八日より十一月朔日まで」とも表紙にあり。
冒頭に師尊孫の武隈の松を詠んだ歌のことがあり、それが40年前のことで、また島上山に登ろうと思って森標樹、寺田心典と出発するとある。乃木村の善光寺の松が伐採されて三本だけ残っているのを見て師の歌を思い出す。松の周囲を測る。玉造、山の名を農夫に聞く。玉造湯社の遠藤大賀久が入門したのに来ないわけは公務が忙しく新体制に無理があるかららしい。大谷村で刈っていない田を見る。和名佐で昼食、大東の加多社で神官と出雲琴の稽古をして夜ふかしをする。19日、八重垣社の主石原浜路宅で、佐多久雄の祖父に会い、宿泊し歓待される(こればっかしだな、本当に楽な旅だ)。途中の茶店でかけた茶碗で茶を飲んだ話を披露して、受ける。20日、居玄大明神へ参詣、歌詠む。久雄も登山に加わることになり、一行四人で三和、郡村に行き、島上、サンコホリ、竪枕村の山、玉峯山など見る。町の酒店でガイドを雇い、山路にかかって覚融寺の石橋から山をスケッチする。玉峯山の雌雄の滝を見て、飛峯町の女弟子おたねを訪問。追って来て別れを惜しむ。鹿谷で提灯を借り、山路を越えて下り松に至る。寛正の家に来客があって主は留守だったので、夜道を歩いて大呂の卜蔵宅に着く。21日、鳥上山に登る。栗や杉の大木を計測する。鳥上滝をスケッチ。甚兵衛が三人連れて追ってきて人数が増えて賑わしくなる。眺望がよいが老眼で今ひとつだった。天狗の相撲場で栂の木に詣でて、前に枝を折ったとき詠んだ歌を木の穴に入れておいたのを探したがなかった。雨露にぬれても紙は残りそうなのに不思議だなあ、とか言っている。高峯で薪を集めて火をたいて茶をわかして弁当を食べる。皆で歌合戦をする。のんびり山を下りて、卜蔵宅に帰る。22日、天候が悪いので、大工に作らせた琴を甚兵衛に教えたり、歌を教えたりした。23日、雨で歌と琴を教えて過ごす。人の出入り、いつもながら多い。24日、雨がやんで元屋敷に行き、庭をスケッチ。田辺鎌策という医者の家が立派だったので、いきなり訪問。主が留守だったので歌を詠んで残す。雨の中、あぜ道で木履の緒を切ったり傘を落としたりしながら岩屋寺の毘沙門に参詣。引きとめられたが出発して、夜更けに着いた家の主は留守で、息子が無愛想で追い返された。(珍しい。)後で聞くとこの息子は村でも評判が悪かった。その後雨の中、家をさがしてさまよい、灯火の見えた家に快く泊めてもらった。大谷のはずれの委細浜の和十という人の家。(して見ると、為泰の名と関係なく、この地方は皆こうやって気軽に宿を貸すのかよ。)25日、雪の中、連れ三人は傾城岩見を見に行く。その後出発して、和十が泊めてくれなかったら大変だったと言いあいながら糸原権造宅に着き、問いただされて昨夜の苦労を話して笑う。歓待されて、のんびりすごす。26日、雨川を出て三所の佐多に帰る。からさて餅の雑煮を食べる。菅日山のスケッチ。27日、三成へ向かう。案内の翁が67歳なのに元気なので、長生きの人の話で盛り上がる。山を越えて井谷鎌に出て下久野の内田宅に行き昼食。14歳の息子が給仕。下久野境の大山の頂上までは雪をなめて渇きをとめつつ登ったが、大原に降りる時は雪がなかった。ここが雪の境目らしい。案内の翁と別れ、19日に通った立石、右久野、横田、左久野、広瀬道に出た。黒豆の握り飯を食いながら焼飯岩を見物、スケッチ。蓮華寺、観音堂、ここは永雅の幼時の病気をさき子が祈った所。食事をして金坂、清田に着いて泊まる。28日、歌会を開く。要害山を眺める。29日、清田を出て大東に行く。30日、加多社に参詣。知人を訪問しながら松江に向かう。鏡岩を見物、スケッチ。平家山もスケッチ。忌部道の険しさに行きなずみ、峠の家で松明をもらい、和田饒穂の家にたどりついて一泊。11月1日、平浜の石倉宅を訪問、その後、山路の悪路に悩みながら乃木の那屋に行き、説教を聞き、日暮れに家に帰った。
長途の盛りだくさんの旅。わりと宿の苦労が多いのがこの作者では珍しい。また、夜遅くまで歩くのも紀行としては珍しい。スケッチが多い。細かくなっているが、美しい絵と言うよりは記録として正確に描こうとしている感じである。相変わらず、他にはあまり見ない面白い記事をピックアップするのが、この作者の才能。人間関係もいらんことまで書き過ぎるが、そこが面白い所でもある。
鳥上山は今の船通山。鳥上滝の写真をネットで見たら為泰のスケッチとそっくりで泣ける。
森為泰「出雲国清水詣」
中表紙は「清水詣」。冒頭2丁「清水詣入用」の金銭メモ。柿や弁当の料金もわかる。明治六年十一月六日、清水寺参詣のため家を出、竪町、津田の松原、八幡坂、平鎌八幡宮、武田神社、大門で空腹になり、小家に立ち寄り茶を所望して握り飯食べる。実は主と知己だったことがわかる。出雲郷、櫛屋、荒嶋、三人扶持をもらう大岩、(絵あり)、東赤江で一泊。六日、祇園社に参詣、清水寺に着き、御堂に一泊。八日、花月庵で塔の由来を聞く。安田の八幡宮に参詣、風が強い。かきをの老松、富田川、同行の時女、千代女、足痛んで難渋。広瀬の内藤家で一泊。九日、旧友らと交流。富田八幡宮へ参詣。水害のあとを見る。岩倉寺へは洪水のため行けず。吐月糖を作る菓子屋に立ち寄って帰る。十日、広瀬から富田の川堤を下り、休憩してぼた餅や柿を食べる。雨にぬれ、東江の金藤宅に着く。雨後の風景美しい。夜、主に洪水の被害の話を聞く。十一日、付近の見物をすすめられるが出発、楫屋、八幡坂、津田の松原を経て帰着。
洪水の話がリアルだが、あまりこれといった記事はない。人々との交流が実に多い。
森為泰「出雲国旅伏詣」
中表紙は「旅伏詣」。明治七年三月二十九日に出発。浜佐田村の社司入江虎紹宅に寄る。九鳥法師らと三人旅。秋鹿町、大垣、(茶屋で独身主義の女性との会話、面白い)、小境、鹿園寺、ここで一泊。三つ子の母に関する身の上相談。三十日、雨の中を園村、多久谷、岡田、本庄、ここで一泊、姥桜と児桜のこと。(さまざまな交流関係が登場。盗賊の話など村の話題も多い。宿泊は大抵が知人の家。)三十一日(もう旧暦じゃないのか)。一日和歌の添削。四月一日、釈迦や荘子の相撲の画の讃のことなどのどかな話題。二日、雨で画讃などし、午後から晴れたので、万田、奥宇加、川下村に行き、夕方に鰐渕寺(がくえんじ)参詣。留守の僧の語る寺の窮状、苦労話。三日、犬谷からうねこしして旅伏に参詣するため、材木越の峠からの眺めを楽しみ、(絵あり)旅伏に到着。社司千川と会う。(絵あり)坂を下り、国富村の糸桜、要石など見物、本庄村に帰る。四日、石橋道基らの入門。五日、本庄村を出て、人々と別れ、国富村の中川、西代村、兼談の川、(あら、御杖桜だって。植え代えて若木が満開)、林木、武志、栃嶋、萩原、稲岡、高岡。ここの社司永田年夫宅に一泊。奇談を聞く。「耳袋」収録の話も。六日、八幡宮に納歌。高岡を出て矢野村の矢野神社へ。よつき、朝山神社、桃園を見物、杵築に一泊、大社に参詣。七日、山から石見の海や高津を見る。園村、古志の川、秦伊佐美を訪問、留守。長浜神社参詣、出嶋、神西村、一泊。八日、八幡宮、高倉社に参詣(絵あり)、岩坪の神跡、為泰の生地の芝岡を見る。鶯を聞く。桜も満開。九日、神西村を出て、智井宮村の山本家に立ち寄り、先主は死んで当主は留守、客で混雑していたので、茶を飲んですぐ出て、古志の洪水跡を見て、塩冶、今市、大津の中山よし子宅に寄り、神立村で一泊。洪水後の被害の様子。非常に詳しい、ほとんど災害記。十日、神立村を出て、千家村、富村、やがしらの一里塚、この辺も洪水の跡。上庄原の川岸でたばこをふかしていたら、馬方が川を渡ってきて、たのしそうですねと言うので「花見ながらに出て、杵築大社へまうでて、妙見山の桃みてかへるなり」と答えたら、今は金をかせぐことばかりで、せちがらい世の中を、のどかでいいですねと感心した。(ここの文章よいわあ)祈川を、昔下女にきいたはやり歌を大声で歌ってかち渡りして、夕方に意宇郡本待村の社司遠藤鐸の家に一泊。十一日、日吉社に参詣、菅原神社へ子どもたち参詣。遠藤宅にまた一泊。十二日、「衆議制の会日」なので帰りを急ぎ、米まち、林村から松江に帰る。
盛りだくさんで、かなりぐちゃぐちゃだが、特に最後の方はやたら絶対、面白い。作者は「松江の御家中」らしい。歌の添削をよくし、画讃も請われている。行く先々で知人(社司が多い)を突然訪問し、当然留守も多いが、家人が歓待して泊めてくれている。後になるほどパワーアップしている印象。でさ、結局作者って誰よ? 「千竹園主人」でいいのか? 中表紙題の。ちがうよね?
最初は一行三人。途中で一度五人になる。何度か出入りもある。人の交流がやたらと多くにぎやかな旅。
旅伏(たぶし)は今は無人駅。近くに名所も特にないが、作者は結局どこに参詣したんだろう?「杵築大社」なの? あ、杵築大社は今の出雲大社か。矢野付近の桃園は今はなさそう。
松江は明治六年八月に洪水にあっている。これかな。
森為泰「石見国高津詣」(上)
高角山神社千百五十一年の大祭に赴く。明治七年四月十八日に出発。全体も長いが出発までもかなり長い。そしていつものことだが、人名がやたらと多く、もう誰が誰だか状態。あいかわらず行き当たりばったりに知人を訪ね、歓待されてひきとめられて宿泊している。弁当もあっちこっちでよく食べている。スケッチがだいぶうまくなって、挿絵が多い。橋の上で参拝者や巡礼に接待をする地元の夫婦や、地震の被害の話や、訪問の日程に苦心する話や、山奥で織っている布や、つつじが満開の山や、十七歳の旅の僧と道連れになる話や、霧の中で道に迷って山を回ったり、道を聞く人がいなかったり、歌の添削の様子とか、いろいろ面白い話もあるがどれも短く、いまひとつかと思っていたら、後半になって同行の清興という人物への批判が噴出し、もう一人の同行者林夏とその悪口を言って、何とか別れようと画策をする(最後は別れる)くだりが、やたら詳しくて面白い。道連れになった三人の女性までが、清興の批判をしている。この紀行はそうおいそれと他人に見せられないんじゃないかなあ。うまく清興と別れて、上有福村の湯谷入湯し、清見、伊沢、大山峠、市山、川戸に着くあたりで、上巻終わり。
清興は石見尓摩郡波積人、多田清興。林夏は矢上村の田中林夏、だって。
高角山人丸神社は島根県江津市。千年の大祭が享保8(1723)なので、千百五十一年祭は1874、明治7年か。
多田清興は石見国羽積郷人。当世百歌仙の著あり。林夏は不明。
森為泰「石見国高津詣」(下)
清興と縁を切ったからか、交遊も遊楽も何事もなく快調に進んでいる模様。皆に引きとめられ歓待されている。歌の添削や茶箱やなんかに歌を書くのも忙しそう。絵も多い。林夏に描かせたりもしている。十二日(五月?)長尾の枕が滝を見物、上から見たり下から見たり描写詳しい。杜駿との交流。十五日、静の窟は遠いので見物を断念。十六日、林夏、足の豆に水が入って歩けなくなり見送りを断念。しかし大人(森)がこうならなくてよかったと言う。林夏の末男光次が見送り、静が窟の松の皮で作った細工物などくれる。林夏の家は大家で、子が十二人、孫が三十人いる。小林四郎雅氏宅に休んだが、めずらしい出陣の様子を記した和文の懸物があった。魚断の稲荷神社に参詣。十九日、川本を出て乙原、柳瀬、吾郷(アカウ)、三瓶山を見る。狛渕の林章九郎静久の別荘、亀遊亭に行き、亀のことを書いた軸が面白かったので写した。(けっこう長い。文久三年のもの。)二十日、主と八重琴、出雲琴の合奏。(直吉が出雲琴を大工に作らせることを提案して、作らせて合奏した。)二十一日、人丸の画像を開帳して歌会。二十二日、静久がつけた別荘の家来のアドバイスで早朝に出立。河合町で宿る。二十三日、神西めざして出立。直吉が荷物持ちをしてばてる。手こり一つ持ったことがないのに、荷物をかつごうとしたのは「開化」で「時勢にそむかぬ志」と耕十郎に笑われる。大池村の蛇池・蓮池を見る。神西に宿る。二十四日、直吉は杵築に参詣。二十五日、神西を出て、今市、大津、神立。神西からの僕を返して新しい荷物持ちに忠平を雇う。十八日の郵便で二十五日までは帰らないと言っていたので、家では二十五日以降だと言って待っていた。
人間関係が多彩でややこしいが、そこがまた面白い。「郵便」「開化」「時勢」など、少しだが明治も感じられる。足の豆や荷物持ちの確保など、他に見えないリアルな記事もある。直吉は何者?
枕が滝は江津市桜江町今田。「2段型の滝で、上段約15m、中段に滝壺、下段約10mで滝幅が約10mある」そうな。蛇池・蓮池は出雲市湖陵町大池に現存、周囲は今ゴルフコースになっている。静が窟は静間川河口。現在崩落により近寄れない。亀遊亭は名前もそのまま今は美郷町狛渕で立派な旅館になっている。
※この他にも「大社詣」というのがあって、私はまだちゃんと読んでいない。
※20代の「阿之折紀行」の後、ずっと紀行がなくて、明治になってから増えるのは、その間には「日記」を書いていたからで、中には面白いものもあるが、多くは和歌のメモ風のもの。