近世紀行文紹介紀行「妙海道の記」メモ(4)
◇この紀行の中の、ちょっと面白い部分を紹介しておきます。
ま、最初はやっぱり龍かな。でもこれ、今の「たつまき」なんじゃないかしらん。
本庄の、きのもとへいらむとする所の磯辺をゆくに、空はれながら、海面一村にはかにくもると見れば、大きなる龍、ひとりのぼりけり。薄雲おほひたれば、目いろこ(うろこ)などまで、さやかには、みえわかねども、頭の大きさ、たけの長さなど、さだかにすきとほりて、みゆ。中空迄のぼるとみる程は、空はれて雨もふらざりしに、俄に空は墨をすりたるやうにくもり、雨は水をこなすが如く、いといみじうふりくれば、はしりゆきて、きのへにいたりつき、町屋にいりてやすらひをるに、とみに向側のわらやの屋根や(破)れこぼれ、ちりあくた、ほのほの如く立あがりて、人々さわぎあひければ、おそろしけれど、軒端に立出て見渡せば、例の龍、横さまに、とほりゆくになむ有ける。其いきほひはげしく、おそろしきこと、いへば更なり。
音にのみありと聞つゝ年経たる龍をまさめにけふは見そめつ
わだつみにひそめる龍の折を得て今や雲ゐに立のぼるらむ
さて、其龍の過ゆくまゝに、雨やみて空はれぬ。其とほり筋にあたれる所々は、いづれも皆、人の家はやね門などやぶれ、野山などは木の枝たふれたれば、身をそこなひける(けがをした)人もあらむかし。
しなどへもおかみもよりてつかふれば龍はかしこき神にざりける「越路の月見」7月27日
◇順不同、思いつくままに書きますよ。
東海道の「伊勢物語」で知られる、八橋の現状がわかる部分。
あ、ちょっとその前に、赤坂で遊女のことを書いてるのも、坊さんにしちゃ珍しいかもしれない。もっとも見る目がいやに冷たいのは、坊さんらしくないのか、らしいのか、いやこれ冷たいんじゃなく同情してるのか、いろいろ、よくわかりませんが。
こゝ(赤坂)は昔より、うかれめのおほかる所ときゝしにたがはず、今も猶おほかめり。いでや世にうまれては、すぎはひのわざ(職業)おほかる中に、うかれめの身ばかり、あはれにはかなきものはあらじ。此世には、うきめをつみて(憂き目を積みて)、後の世にはならく(奈落)の底にしづみぬべし。前の世の、えにし(縁)の程も、おもひしられて、いとあはれなり。
「都のつと」7月9日
で、八橋ですね。
しばし行て、来迎寺といふ寺のある所に、八橋へゆく道しるべの石文たてり。昔の跡のゆかしさに、右にをれてたづねゆけば、八橋村といふ村に八橋山無量寺といふ禅寺有。いりてみれば、仏殿のなからに、観音のみかた(
御像)有。其左に阿保親王のみかた、右に業平の中将のみかた有。いづれも皆、業平の中将が、てづからつくり給へるみかたなりとぞ。庭の池に、かきつばたもあれど、そは、あらぬ所に後の人の植たるなめれば、昔をしのぶつまとは、なり難し。「さて、そのかみ(昔)八橋のありし所は、いづこぞ」と問へば。あるじのぜにし(禅師)いふやう、「そは、こゝより西ざまへ四丁ばかりはなれて、逢妻川といふ川に、土橋のかゝれる所なり」と、をしふるまゝに、ゆきて見れば、沢めくさまにはあらぬ、広き田面のあはひに、せばき(狭き)川一筋ながれたれど、更に「くもで(「蜘蛛手にものを思はするかな」の歌にある、放射状にかかった橋)と見ゆる面影もなし。いさゝかはなれて、彼中将の墓あり。「都のつと」7月9日
この後、漢詩や歌もありますが省きます。うーん、普通に面白い紀行やん、と思われてそうで不安だわ(笑)。
※八橋の無量寺のあたりは、今はきれいになってるようで、「かきつばた祭り」の頃の雰囲気でもどうぞ。
◇とにかく全体が長いですからね。そりゃ、たまに出る面白いとこでも、拾って行けばけっこうあるんですよ。
「越の雪踏」なんか、もうそろそろ歌ばっかりで、ろくすっぽ記事はないんですけど、そう思って油断してると、親不知の難所で、突然なかなか詳しい記述があるし。
起いでゝ見れば、雪ふりて風吹しきたり。こゝより行先には、駒帰、親不知、などいふ危き所ありときけば、「けふの風には、こえ難くやあらむ、いかにぞ」と家あるじ(宿の主人)に問へば、こたへていふやう、「かばかりの風には、こえ難きことは侍らねど、只ひとり物し(「物す」は英語のdoみたいなもので、行くとか食べるとか休むとか何でも使います。ここでは「出かける」「旅する」「通過する」みたいな)給はゞ、所のあない(案内)しり給はぬによりて、あやまちし給はむも、はかり難し。これによりて、道しるべするものを一人やとひて、めしつれ給はゞ、うしろやすかるべし」といふに、うべなはれて(肯う。納得できて)、人ひとりやとひて、其しりにつきてゆく。里際立はなるれば、左の方は幾尋ともはかりしられぬ高き岩山立つゞき、右の方は、きはみ(極み)も見えぬ広き海原にて、其あはひの真砂路をゆくより外に、道筋はなし。さて、駒帰といふ所に至りて見れば、高き磯山の海際に、さし出たる所にて、道せばくして、馬はとほりゆくこと、え(得)かなはねば、名におへり(その名がついた)。
重荷をば人におはせてこゝよりは本の駅に駒かへり哉(かな)
そこをこえゆく時、しるべのもの教へていふやう、「浪のよりくるをみては、磯山に岩屋のやうに、いくつも穴をほりうがちたるを見とめていり、浪のひくを見ては真砂ぢを、はしり給へ」と、いふまゝに、ものしつゝ、からうじて、ことなくこえはてぬ。それより親不知といふ所に至りてみれば、彼(かの)駒帰と大方おなじさまながら、殊の外、海の岸に、さしいでたる所なれば、うちみるより身の毛も、いよだつばかり、おそろし。そこを、こえゆくにも、例の道しるべのものゝ教のまゝに、物しつれど、腰迄(まで)浪かゝりて、ようせずば、わだ中(海中)に、さそはれていりぬべうさまなれば、おそれまどひて、いきたるこゝちなし。
一方峭壁一方湾 沙路纔通両岸間 海捲波瀾山簸雪 人懸縷命不堪艱
雪ふゞき浪立さわぎいけりともなくなくこゆる親しらず哉
親しらず子しらずこゆる冬の日のくるしさ身をも忘られにけり
浪にぬれたるはつらけれど、ことなくこえはてける、うれしさも、こよなし。「越の雪踏」11月23日
「親不知」の様子はこちらで。
◇宣長の家とか鎌倉の大仏とかの記事は、短くてどうってことないけど、一応書いておきますか。
鈴屋翁のことを、とひきかまほしさに、うみのこ(子孫)の家を、とぶらひければ、もりめ(守り女、侍女)ひとりいでゝ、「此頃家こぞりて、風のけ(風邪)に、ふされ侍れば、かさねてとひきませ」といふに、すべ(術)なくて、いづ。
神の道ふりおこしてし鈴の屋の跡はいかにやならむとすらむ「伊勢路の日記」2月9日
しかし、妙海って坊さんで、しかも大概偉い人らしいのに、国学者の宣長への、この肩入れのしようはいったい何なんだ。仏教と国学って下手すりゃ不倶戴天の敵のはずなのに、考えてみると不思議だ。
初瀬村の大仏は、堂もなく、おほひだになくて、土の上にましませり。かたへに仮初なる僧坊一坊有て、守る法師独(ひとり)をれり。南都東大寺のに、くらぶれば、いたう、ちひさし。
「都の追づと」4月27日
その一日前の横浜の記事の方がおもしろいかな。
横浜にゆきて、亜墨利加、魯西亜、和蘭、英吉利、仏蘭西などの国人の、をるたち(館)を見るに、いとうるはしう、つくりなして、見所有。人々のさまも、いろいろにて、めづらかなる、みものなり。
「都の追づと」4月26日
この程度の記事まで書いてると、きりがないので、そろそろ終わる。だいたいの雰囲気はおわかりになったことと思う。しかしこの、面白くないのに面白いような、奇妙な魅力(と、とうとう書いちゃったよ)は、いったい何なんでしょうかねえ。
近所の寿司屋さんが、毎月まめに「通信」みたいなチラシを入れてくんですよ。奥さんとか店員とかが「海に行きました」「子どもの運動会でした」とか、近況を一言書いて。そこの奥さんが海に行ったからってそれが私にとって何なんだと思いながら、つい「そうか海に行ったのか」とか思ってしまう。その感覚に似ているのかな。宣長の子孫の家に行ったら、「今日は皆、カゼで寝てますから出直して下さい」と言われて帰ったとか、実にどうってことではないのに、「ああ、この日、宣長の子孫の一家は皆カゼを引いてたのか」と、遠い昔のその一日の、他の日と同じようで、かけがえのないその日のことを記憶にとどめてしまう。書き留められて100年以上後の私たちの目にふれることになった、その日とその場所を思う。
そこには、もしかしたら、紀行と言う文学の根本になる何かがあるのかもしれず、こんな地味な紀行だから、逆にそれが浮かび上がって来るのかもしれず。