近世紀行文紹介紀行「奥羽行」メモ(補充)

(現代語訳を補充しました。)

◇私は「福岡教育大学紀要」44号に「東北・北陸紀行の部」として平成二年に目録を発表している。ネットで検索したら読めます。これ↓で見られるかな?

1995年 近世紀行文紹介-その八(東北・北陸紀行の部)

で、ごらんになったらわかるが、その最後に、「これはまだ読んでいない」として、かなり多くの東北・北陸紀行を書名だけあげている。「奥羽行」は、その中の一冊だ。私は各図書館の東北紀行を何度かにわけて複写依頼して集めたので、この目録を作ったあとに手に入れた分の中の一冊である。
で、一口に言って、これは相当面白い。
一度学生が卒論で翻刻したのだが、時間が足りなくて全部はできなかった。その時にチェックかたがたつきあって読んだのだが、多分全部はその時は私も読んでいないと思う。

◇今回、『日本文学』という雑誌から、江戸時代の写本と版本の関係について考える特集を組むとのことで、原稿を依頼された。その時に資料として使ったので、初めてきちんと全部読んだ。このままだとまた忘れそうだから、ざっと内容を書いておきたい。

◇これは植田勝応(俳号は露月)と長沢茂好(俳号は存鬼)という二人の藩士が作者で、交互に筆をとっている。一度二人が別行動をとるが、その時はそれぞれが行った経路を記している。まあ二人で共作というのは江戸紀行でもないことはないが、それでもこういうかたちのはやっぱり珍しい。

もう一つ珍しいのは、この二人は藩から命令されて、東北の諸藩を偵察に行っているらしい。そのことをちゃんと冒頭の「凡例」に書いている。ただし、その密命がどんなものだったかは、さすがに書いていない。
一応、その凡例の全文を引用しときます。わかりにくいでしょうけれど、あとでまた、ぼちぼち説明しますんで。

凡例
一 密(ヒソカ)に藩中の 命を奉り、遠く北辺を探るの役、不肖の僕等、誠に其恐れなきにあらず。又且無益(ムヤク)の路用を費さん事、強ち素餐の罪を免れず。せめて往還せし道すがらをも書留め、重ねて僕等がごとく 命に依て初めて北地に入る人あらば、聊(いささか)その道しるべともなりて、ともに範中の役を助けんと願ふ事、筆を取れる志の源なり。
(藩主の密命を受けて、北方を探索する役目となったが、うまく果たせるかどうか不安である。無駄な旅費を使って公金を無駄遣いしたと言われるにちがいない。せめて途中の道の様子を記録して、また自分たちのように命令を受けて初めて北方に行く人がいたら、道案内の役にたってほしいと願ったのが、この書の執筆動機である。)
一 今度(コタビ)の役、其事しげくして斯(コ)ふやうの紀行抔も夜ごと夜ごとに用向終りて後、ふすべきいとまに旅硯もて少しづゝかい付置るのみなれば、洩れたる事も又多かるべし。城下々々も用なき所は一宿だにし得ざれば、古城旧跡等は元より側(カタワラ)に見過したる、又多し。
(今回の任務はすることが多くて、この紀行も毎晩仕事が終わってから寝てしまう時間に旅行用の筆記用具で少しずつ書いたから、書けなかったことも多いだろう。城下町でも用がない町は一泊もしなかったから古城とか旧跡はもちろんちゃんと見ていないことが多い。)
一 此記、もと奇談珍怪(キダンチンカイ)を記して覧者の興を求めんとにあらず。唯往還の村続、山川地理の趣を書留めて後人の道しるべたらん事を主意とす。故に村名のみ多くして見る人の煩はしきを厭はず。
(この記録は珍しい話や不思議な出来事を書いて読者を面白がらせようとするのではない。ただ道筋の村の順序、山や川の地形を記録して後で旅する人の道案内にすることを主要な目的としている。だから村の名ばかり多くて読者が面倒に感じるのは気にしない。)
一 不用の雑談たりといへ共、これを捨てずして白楮を汚すは、おのづから其土地の人情風俗等を察する一助にもと思ふの微意なり。
(役に立たない雑多な話題でも省略しないで白紙を無駄にしているのは、そういう話が自然と現地の様子がわかる助けにもなればと考えてのことだ。)
一 道すがら名所古跡も多かりければ、おのづから心に浮める発句腰折れの類ひも数々侍りしかども、唯いひ捨たるのみにて、たまたま帖端にかいつけたるものを此記に書入ん事、見るに煩はしければ別に小冊に記し置ぬ。
(途中には名所古跡も多いから、自然と浮かんだ俳句や和歌もいろいろあったのだが、とっさに作っただけで、偶然に手帳のはしに書きつけたようなものなので、ここに入れるのは目障りだから、別に一冊にしている。)
一 帖中更に文を属せずして見る人の嘲(アザケリ)なん漸く汗にたへずといへども、今又諸先生の手を労して改め正すべき程の書にもあらず。言のつたなく文字の違ひたらんは見る人、用捨なくんばあるべからず。
(文章の推敲もしていないから、読む人がバカにするだろうと恥ずかしいが、わざわざ偉い人に見てもらって直してもらうほどの本でもない。文章が下手で文字がまちがっているのは、大目に見ていただくしかない。)

◇いや、この凡例もね、細かく読むと突っ込みどころが満載なんですけど、それはおいといて。
まずやっぱり、何よりも、そういう密命を帯びているわけですから、他の紀行とはちがうところがあるだろうと思うんですが、これが全体としては、あんまりちがわないんですね。いや、だから普通に面白いんですけどね。川の水が汚いからか、やったら蟹が多く、でも臭いから食料にはならんとか。

是等の水源、葛塚潟をはじめ諸方の落尻にて、川水甚きたなし。此川の両岸に蟹の大小は究らねども聊すき間もなく穴を掘て出入する事、誠に夥しきこと也。木崎まで弐里余の通り両岸みなかくの如くにて、蟹のむれ居る事、幾数万ともいふべし。いかにも珍らしく覚て、里人に尋れば「腐れ水故に、よく生じ候と見へ候。其匂ひ、甚腐れ嗅くして食料にも用へず」と云。
(この川の源はあちこちの流れの合流であるので、水が非常に汚い。川の両岸には大小はいろいろだが、蟹が少しのすきまもなく穴を掘って出入りする、その数は実に多い。木崎まで二里あまりの岸は皆このようで、蟹の数は数万とも言えそうだ。珍しいと思って土地の人に聞くと、「汚い水だから蟹が増えるのだろう。腐った臭いがして食料にもならない」と言った。)

こういう、いろんな情報が細かく具体的に書いてある。これはだいたい、江戸時代のよくできた紀行は皆そうなんですが。

でも、そうは言っても何かそういう特殊な旅ならではの記事ってあるだろうと、読む方は期待しますよね。まあ、ないことはないです。そこそこあります。それもまあまあかなり面白いです。なぜかあんまり緊迫感はないのが、ちょっと不思議なんですけど。

◇まあ、時々、こういう記事もあります。「用向」の内容がちょっとはわかるかも。

(六月)十二日。今度往還の城下城下何れも深く探り置度所なれども、固より藩中の 命急にして主意とする所、爰にあらず。故に用向ある城下には一日逗留したる迄にて、用向調ぬれば半日にても先へ急ぎ、家中の様子探見たる所、甚稀にして中には道の繰合せにより一宿だにせざる城下あり。是のみ遺恨なりつれ共、長途をかゝえ用向殊に繁多にして誠に止事を得ざりき。当城下にも一日逗留せしかども、用向を終へて漸半時斗のうち町家中を経廻せり。謀をめぐらす暇なければ屋敷屋敷の名面、地行高、文武の芸者等探るに暇なし。此節城主参府の後、間もなく箱館加勢の人数を操出され、すべて町家中共に物騒しく、芝居相撲等は態と建置るゝといへ共、悉く不繁昌なりといふ。

十七日の本庄の番所ではちょっともめてます。これ、身分を隠して旅をしてるわりには、態度がでかいんだよなあ。それが逆にいいのかもしれないけど。

此処に本庄の番所ありて、往来の荷物を改め、諸役を取る事尤厳し。聊の風呂敷包にても、若(も)しも買荷にはあらざるかと咎め改むる也。僕等が着替の包みを持しをも見咎て、「何を仕入たり」と問ふ。「売物にはあらず。着替へ」と答ふれば、「時分柄にしては過分の着替へ、改むべし」といふ。存鬼怒つて「買荷にあらざる事は外より見てもしれたる事なり。何ぞ過分の着替といわん。着替にても役銀入ることならば改むるに及ばず。可遣(つかわすべし)」と云。露月いふやう、「随分御覧にも入るべし。着替弐つ三つづゝに白紙、短冊、俳諧の集、其外用向の事付のみにて候」といへば、至て気の毒げなる顔色にて「当所はすべて上の方より来るは絹糸の類多く、下より来るは真綿の類にて、かさにならざる品にて御地頭よりの吟味強き品の勝も、近来松本箱館御奉行印鑑の駄賃帳抔持ち、伝馬にて通る者にも売荷等有之(これある)故、無拠(よんどころなく)かくのごとく申せし也。各々の荷物は全く着替計(ばかり)と見ゆ。よしよし通り候へ」と云。
(ここには本庄の関所があって、行き来の人の荷物を調べ、金銭を徴収するのが厳重である。小さなふろしき包みでも、商売用に買い付けたものではないかと疑い調べる。私たちの着替えの包みも見とがめて「何を仕入れたのか」と聞く。「売物ではない。着替えだ」と答えると、「この季節にしては着替えが多すぎる。調べたい」と言う。存鬼は怒って「商売用の商品でないことは見ただけでわかるはずだ。着替えにしては多すぎるとはどういうことか。着替えでも税金がいるというなら調べるにも及ばない、金はやる」と言った。露月が「じっくり見て下さい。着替えが二三点ずつに、紙や短冊、俳諧の本、その他必要なものばかりです」と言うと役人は大変困った顔になり、「この地域は北の方からは絹糸の類、南の方からは真綿の類が多く持ちこまれる。大量でないものでも地頭からは調査が厳しく、最近では奉行の許可証を持って公式の荷物として通る者の中にも商売用の品物があったりするので、しかたなくこのように言ったのだ。たしかにあなたたちのは着替えだけのようだ。どうぞ通って下さい」と言った。)

ちなみに、江戸時代は「気の毒」というと、相手がじゃなくて、自分が困ることで、ここでも役人は作者たちに同情してるというより、自分が困惑してるのです。
十八日の夜にも宿屋へ役人が来て、宿泊客の用件や行く先を調べます。その確認の後宿から貰う手形がないと、この国(秋田)を出ることができません。ところで宿の主夫婦は妙に親切です。

おかしき事は、宿のあるじ如何心得けん、初めよりもてなし勝れてよく夫婦共に甚丁寧に奔走す。あるじは何を尋ねても片手を突て挨拶し、酒抔出すに各高き台にのせ、器物等きらびやかに改めたる様子なり。我等思ふに、「是迄ケ様(かよう)にあやしまれたる事もなく、唯商人或は恐山参詣行脚抔といへば、何方にても誠とせしに、是はかく取はやして過分の銭をとらん為なるべし。かならず此おつにのるべからず」などいひ合せ、猶あるじにいろいろの咄抔せさせて聞居しに、主じのいふ、「此度、蝦夷地一件に付、当家よりも御加勢を指向られ候間、諸方の御隠密、忍びの御役人様方、或は帯刀にて御逗留被成(ならるる)もあり、又は夫(それ)となく姿をやつして御逗留の御方もあり。此程も米沢侯の御聞合なりとて、帯刀にて私の所に御止宿被成、大キに心遣仕候。尤兼て当所にても左様の御方に麁忽無之様に可仕旨、此度改而申付られ、甚心遣に奉存候」といふ。露月答ふるには「いかさま此節左様の御方も有之(これある)まじき事にも候はず。宿屋を被成(なされ)候はゞ、扨(さて)々御心遣ひなるものにて候。私共事にははじめにも御断申候通、象潟松島をはじめ、名所旧跡を見物し、南部の恐山参詣を心懸て出候ものにて、元より路用の貯抔も薄く、艱難を致し候を志願に仕候へば、必左様に隠密類の人と思召被下(くだされ)御心遣被下候ては、甚迷惑致候。ケ様(かよう)の結構なる御城下は、又も拝見の出来申さぬ事なれば、何卒市中も廻り見申度候。必々御構ひ被下(くだされ)な」と断れば、主じも至極尤に聞請し様子なれ共、もてなしは聊おとらず、取はやされて痛入る事のみ多く、心のうちには又おかしくも覚ぬ。
(面白いのは、宿の主人はどう思ったのだろうか、最初から大変歓迎して夫婦でていねいに走り回って気を配る。主人は何を聞いても片手をついて対応し、酒など出すのにも台に乗せ、器もきらびやかである。私たちは「ここまでは特に怪しまれたこともなく、商売人とか恐山参りとか言うと、どこでも本気にしてくれたが、この宿でこんなに特別扱いするのは持ち上げておいて高い料金を取るのだろう。調子に乗らないようにしよう」と言いあって、更に主人にいろんな話をさせて聞いていると、主人が言うには「今回、北海道で騒動が起こり、この半からも軍勢を出したので、いろんな方面のスパイや役人が武士の姿や町人の姿で滞在されることがあります。この間も米沢侯の関係でお泊りになった方がいて大変気をつかいました。ふだんからそういう方には失礼のないようにするようにとのお達しがあって本当に気苦労です」と言う。露月は答えて「なるほど、そういう滞在客もいるでしょう。宿屋をしていると大変ですね。最初に言いましたように私たちは象潟見物をして恐山に参詣しようと旅に出た者で、所持金も少なく、ぜいたくはしないことを心掛けているので、そんなスパイのような者と思って気をつかわれては困ります。こんな立派なご城下は珍しいので、もう二度と見ることもないだろうから、市内を見物しますが、どうぞ気にしないで下さい」と言うと、主人はもっともですという顔で聞いていたが、やっぱりもてなしのていねいなのは変わらず、恐縮する一方で、おかしくなることも多かった。)

作者たち、けっこう余裕のようですが、主人、だまされてくれてるんですかねえ。私は見抜かれてるような気もするんですけれど。まあ一応無事に終って、この夜は遅くまで宴会、しかも床下に犬が子を生んで騒がしかったとか、それをまた、こまごまと書いてるんですよ。主人たちが「お客さんに悪いから早くひっぱり出せ」とあせったとか。

◇このあと、移動して越境するたびに、書類がどうたらこうたらと番所でひっかかってます。ちょうど今レマルクの小説で亡命者の話ばっかり読んでるから言うんじゃないが、まるでビザとかパスポートであれこれ問題になるみたいな感じ。
で、あいかわらず作者たちはかなり強気です。むしろ役人たちの方が弱気で、「いい人たちやん」と思いそうになる。作者たちは前にも書いた通り、素性を隠して普通の参詣人みたいな顔してるのですが、それでこうまで偉そうにするかな。その方がびくびくしてるよりいいのかな。
あまりに、そのごちゃごちゃが長いので、メインのとこだけ紹介します。でも長いけど(笑)。

「夫(それ)は何共迷惑なる儀に御座候。畢竟(ひっきょう)私共、不案内にて左様の事を不存(ぞんぜず)、昨夜宿の印形を取不申(とりもうさず)候。私共は恐山参詣并(ならび)に名所旧跡見物の者にて大間越御番所より切手帖面を貰て入りしには相違も無之(これなき)儀に候間、何とか御勘弁被下(くだされ)たし」と、切手と帖面を出し見たれば、いよいよむつかしき目付抔(など)して頭をかゝひ、「今暮に及び追帰せば野宿より外なし。されば迚(とて)印形なき者を留て万一の事あれば、我等が一分にかゝる事也。何れにも勘弁ならず」と云。両人いふには「御尤の事なり。併(しかし)ながら御番所の改をうけ御切手貰て入りし者に御座候へば、たとへ万一の儀御座候迚も御一分に懸り候程の儀も有之間敷(これあるまじく)、唯先宿の印形なしと申計(ばかり)の事にて、是迚(これとて)も私どもは他国の者にて御国法は不存筈(ぞんぜぬはず)の儀、夫(それ)ほど重き御法ならば、深浦宿にて人宿をも致候程のものが印形を致し不遣にしらぬ他国の者に難儀をかけ候はゞ、其罪私共よりも重きに当り可申候。深浦宿の者に存寄(ぞんじより)も御座候へども、今爰(ここ)にて彼是申候ても跡へも帰らざる事、よくも御推量被下候へ。日暮に及て何方へ向てふみ出し可申哉(もうすべきや)。爰は主人君の御情ならでは済不申。近頃出来がたき御事にも有之候へ共、今宵一夜は曲(まげ)て宿を被仰付被下(おおせつけられくだされ)、天明けなば何分とも御指図次第に致し可申」と、理をせめて頼みかくれば「扨々迷惑なる事かな。然らば万一の事あらば我等、其罪を蒙り候覚悟にて、今宵は宿をいひ付べし。明日は此所に逗留し、三人の内壱人深浦へ行き、印形を取帰て明後日出立あるべし」と云。
(「それは困ったことです。私たちは事情がわからずそういう規則とは知らなかったので、昨夜の宿で印判を押してもらっていません。恐山参りと名所見物ということで大間越の役所から通行手形を貰って入国したのはまちがいないので、どうか大目に見て下さい」と、手形を出して見せると、役人はますます困って頭をかかえ、「もう日が暮れるからあなたたちを戻らせると野宿させることになるし、かと言って印判のない人を滞在させて何かあったら私たちの責任になる。どちらにしても許可はできない」と言う。私たち二人は「もっとものことです。しかし役所の調べを受けて通行証をもらって入国したのですから、仮に何かあったとしても、あなた方の責任にはならないでしょう。ただ前の日の宿の印がないというだけのことであって、これにしたって私たちはよそ者で土地の法律を知らなかったのは当然なわけで、そんなに大切な手続きならば前の日の深浦で宿屋をしている程の者が、印判を押さないで、他国から来た私たちにこうして迷惑をかける方が罪が重いのではありませんか。深浦には知り合いもいますが、ここで何を言ってももう後戻りは出来ないことはおわかりでしょう。日も暮れるのにどこへ行けばいいというのでしょうか。ここはあなたのお情けがなくてはどうしようもありません。これまではなかったことかもしれませんが、どうか今夜だけは見逃して、ここに宿泊させて下さい。夜が明けたならどんなでも、おっしゃる通りにしますから」と筋を通して頼み込むと、役人は「困ったことだなあ。それなら何かあった場合は私が責任をとることにして、今夜はここで宿の紹介をしよう。明日はここにとどまって、あなたたち三人のうちの一人が深浦に戻って印判を貰って来て、明後日出発するように」と言った。)

同様の番所との行き違いは、この後にもけっこう出ます。当時の通行を許可する実態が、細かくよくわかる。
一方で星座の位置を確認したり、絵図を移したり、「探ることがあって逗留した」とあったり、探索している気配はあるんですが、普通にただ紀行として面白い情報を集めているようにも見えて、そこのところはよくわからない。

◇実は、この紀行のそこが、かなり気になる点なんですよね。「凡例」も、対象とする読者や、書こうとしている内容が何だか混乱している印象を受ける。
江戸時代の紀行って、それ以前のものとちがって、「旅先の土地の情報を詳しく書きこむ」という実用性が、そのまま文学性としても定着してるとこがある。なので、下手するとこの紀行に限らず、江戸紀行のすべては探索行と言ってもいい内容になり、当然出版は許されない。
だから、相当の名作や長編でも写本で流通することが多い。

この紀行みたいに、本当に探索の旅だった場合、文学的な紀行を普通に書こうという意識と、探索の仕事をしようという意識とは、両立するかもしれないけど、それ以上に、区別しにくくて整理しにくいんじゃないでしょうか。

◇もう一つ、ことをややこしくしてるのは、この紀行、橘南谿の「東遊記」を随所に引用してる上、「凡例」の書き方や、その前の「目次」も、どうやら奇談集の形式を意識してる。「東遊記」と同じような。
本文の内容は完全に紀行なんですが。

こういうの読んでると、もしかしたら南谿の「東遊記」も含めて、虚構を交えた奇談集というかたちでなら、幕府や藩の機密に触れる内容でも出版できる、って感覚が作者や書肆にはあったんではないかしら。江戸の紀行文学史における、非常に大切で重要な問題です。もう少しこの点を調べてみたいものですねえ。

◇最後に、経過した土地を記して、おしまいにします。
毎日泊まった場所を日付の下に書いているので、そこだけ書きます。簡単ですみません。地名の表記は原文のまま。
なお、所々に絵図もあります。簡単だけど、そこそこうまい。

新潟―真野―塩屋―村上―葡萄―中次―温海―鶴ケ岡―酒田―女鹿―汐越―本庄―秋田―湊―鹿渡―能代―岩舘―深浦―鯵ケ沢―弘前―目鹿沢―青森―野辺地―野田―野辺地―三厩―野辺地―三厩―野辺地―野田―野辺地―青森―野辺地―安佐虫―野辺地―七戸―朝水―福岡―小繋―川口―盛岡―花巻―水沢―高清水―松島―塩竈―仙台―葛田宮―福島―本宮―関脇―若松―野沢―津河―柴田

ついでに「目次」もあげときますか。見るとわかりますが、奇談集そのものです。本文は紀行の体裁なのに。

巻之一

柴田川の蟹  北地の(バイ。王へんに文)瑰花(はまなす)  乙の大日堂  磐船神社の五色蟹
村上  葡萄嶺の臭蛇  矢葺明神  温海温泉  濵厚見の磯伝ひ舟  靏ヶ岡

巻之二

大物忌の神社  うやむやの関  汐越町の祭礼  象潟  海豚  秋田の城下

巻之三

男鹿の八郎潟  秋田の馬  野代川  羽奥の境  岩舘の立岩  深浦辺の五色石  飛泉
金井ヶ沢の難儀  津軽の馬  弘前の城下

巻之四

青森の湊  北辺の天色  物の名  大坂より青森迄の計路  純静存鬼東西へ分る  柏嶺の道連
津軽南部の堺  野辺地  母衣月今別の石門  舎利浜  津軽国  三馬屋并大巌
義経風祈の観音  七夕祭

巻之五

外ヶ浜の風俗  津軽南部の地名  スホヤ  夘辰の餓死人  野辺地の牛馬
ウタフマヘの俤〔賽の河原〕  安佐虫の温泉  南部川内同名の名所  南部領の芝山 盆中の篝
南部領中並木の松  福岡町呑香稲荷の祭礼

巻之六

末の松山古貝殻  南部領名所歌集  俳諧みちのくぶり  南部領名所略図〔北上川〕
雪の浦しだり松

巻之七

金勢明神  森岡の虚無僧  南部仙台の堺  赤沼の大桜  平泉高舘の城跡  中尊寺  松しま

巻之八

多賀城跡壺の碑  燕沢邑弘安の碑  仙台城下并名所案内  甲冑堂  義経腰掛松
会津磐台の湖水  柳津虚空蔵堂  越後柴田に着

◇一応、これで終わります。すごく簡単でごめんなさい。詳しい中身その他ご質問のある方はコメント欄でご遠慮なくお尋ね下さい。

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