近世紀行文紹介土屋斐子「和泉日記」の魅力とは

1 江戸時代の女流紀行

江戸時代の紀行文については「おくのほそ道」があまりにもよく知られていて、それに比べて他の紀行があまり注目されることがない。実際には少なく見積もっても二千五百点にあまる写本や版本の紀行が残っていて、その多くがまだ活字にもなっていない。歴史的資料としてのみでなく、文学作品としてすぐれたものも多いのに、これは残念なことである。
その中で女性の書いた紀行は、近年さまざまな女性研究者の精力的な研究によって、かなり紹介されはじめている。今回私が紹介するのは、その中の一つで堺奉行土屋廉直の妻であった土屋(三枝)斐子が、生れ故郷の江戸から夫の任地である堺に赴き、三年間を過ごした際の「和泉日記」という滞在記である。
なお、この作品と作者については、中公新書『江戸の紀行文』(二〇一一)でも一章を設けてかなり詳しく書いた。そこで私が紹介した斐子像に興味や愛情を感じて下さった読者もおられたようで、私のブログ「板坂耀子第二研究室」のコメント欄に、こんな感想を下さった近世文学の研究者もいた。

土屋斐子の紀行にとても惹かれた。彼女の個性、そして周囲のおそらく見当外れの中傷…。いつも変わらないな…と思うし、魅力たっぷりの人だなと思う。

ブログ「板坂耀子第二研究室」二〇一一年二月一六日

また雑誌「ガンダムエース」の私との対談で、富野由悠季監督は、次のように言って下さった。

「先生が紹介された江戸の紀行作家のなかでも、僕は土屋斐子さんという女性に惚れてしまいました(笑)。」
「(彼女は内面に奔放さや情熱を秘めているが、教養も身分もある人だから、何でも抑え込んでしまう、という私の発言に対して)そこがいいんですよ(笑)。先生の筆によって多少美化されているのかもしれませんが、時代のなかで慎ましく暮らしながら、女性性にあふれ、かつ私は私なのよねとちゃんと主張もする。そういう女性が江戸時代の中産階級にはたくさんいたんだということに、僕はあらためて気づかされたんです。」

「ガンダムエース」二〇一一年十二月号 対談「教えて下さい。富野です」

「作品の全文を読みたい」という感想もさまざまな方から多くいただいた。そういうこともあって今回は『江戸の紀行文』に書けなかった部分を中心に、この作品の魅力を紹介する。より関心を持たれた方は『江戸の紀行文』も読んでいただけるとありがたい。ちなみに、この本は近く絶版になるらしいので、今のうちに買っておかれた方がいいですよ(笑)。

2 旅行記と滞在記

「紀行」というジャンルはもともと、形式が自由で定義がゆるやかなため、日記や記録や案内記や歌集といった文学と厳密に区別がつけにくい。この「和泉日記」も一定の期間、ひとつの土地に定住した間の見聞や日常を記しているのだから、「紀行」とか「旅行記」とは言えないのではないかという違和感を抱く人もいるかもしれない。
だが、江戸時代の紀行の代表的作家ともいうべき貝原益軒の京都の案内記や、「菅笠日記」という名作を残した本居宣長の京都の滞在記などは、その執筆態度や表現のいずれをとっても、彼らが記した紀行とまったくといっていいほどちがいがなく、滞在記と旅行記の間に厳密な区別をつけることは難しい。たとえば幕末の紀行作家小津久足などは、その多くの紀行をいずれも「旅をしている」という明確な意識のもとに綴っているが、そこまで意識的に「紀行」を制作する作家は江戸時代にはほとんどいない。
とりわけ女性の場合には、男性に比べて自分の旅を管理し計画して周辺の土地を調査し把握することには限界があった。
街道を移動して行くという、線としての移動の旅であっても、江戸時代の紀行は中世以前のそれとちがって、より広い範囲を鳥瞰する、面としての印象を与えるのがひとつの特徴である。だが、こと女性の旅の場合、そのような印象を与えるものは少ない。中世以前の紀行と同じように、彼女たちは自分の目に見え心に映じたものを中心に、移り変わる風景を描き、印象を連ねることが中心となりやすい。
「和泉日記」のように、故郷とは離れた場所に一定期間滞在して土地の風物を観察し人々の生活に触れることによって、女性たちはようやく男性の旅人が獲得する豊富な資料を手に入れているかのように見えるのだ。

あるいは、それは近現代でも共通する面があるのか、と感じるのは、たとえば前川健一『旅行記でめぐる世界』(文春新書 平成十五年)の第三章(4)「妻たちの海外」では、谷口恵津子『マダム・商社』(学生社 一九八五年)と倉沢愛子『二十年目のインドネシア』(草思社 一九九四年)がとりあげられていることだ。これは滞在記で旅行記ではないのではないか、という疑問さえいっさいなしに当然のこととして、二つの作品は「旅行記」としてとりあげられている。この本には男性の滞在記も女性の旅行記も紹介されているが、特に一項を設けて妻たちの滞在記が収められているところに、豊富な観察や体験を描く旅行記の名作は女性の場合は滞在記として生まれやすいという実情が、自然に反映されている。そして、この項の冒頭にある著者の一文も、「和泉日記」で夫に従って堺に赴いた斐子の事情とほぼちがいはない。

夫が仕事で外国に行くとなれば、単身赴任は家族同伴かが問題になる。子供の教育を考えて、子供を連れて行くこともあれば、教育を考えて日本に置いていく場合もある。単身赴任では夫が不便だからしかたなく妻も同行する場合もあれば、妻が望んで同行する場合もある。(『旅行記でめぐる世界』第三章(4)「妻たちの海外」)
斐子の子供たちは「和泉日記」にほとんど登場しないが、同行しているようである。ただ「母一人子一人」の老母は江戸にのこしており、そのことを何度も斐子は嘆いている。またこの作品の最後では夫の廉直は長崎奉行になって単身赴任で任地に赴くことになっていて、これも斐子は深く嘆いている。

3 「旅の命毛」との関係

斐子には「旅の命毛」という東海道の紀行もあって、こちらは明治版帝国文庫の「続紀行文集」に収められていて、「和泉日記」より有名である。「国書総目録」や「高木家旧蔵地誌目録」など、紀行研究の際に基本となる目録類にも、この二作品の関係はあいまいで、同一の作品のような印象を与える解説もある。しかし「旅の命毛」は東海道の旅行記、「和泉日記」は堺の滞在記で、両者はまったく別の作品である。
ただし、時間的には「旅の命毛」が夫の任地に到着したところで終わっており、「和泉日記」はその到着場面から始まっており、更に前者の最後と後者の冒頭には結末や書き出しにふさわしい、あらたまった記述がまったくない。したがってあるいは二作品は連続した作品として書かれ、中には一冊にまとめられた体裁のものも存在するのかもしれない。「国書総目録」にあがっている諸本の中にはそういう形式のものはないが、それ以外にアメリカのバークレー大学に二点の「和泉日記」があって、これは私は見ていない。そのいずれかが、二作をまとめた体裁になっている可能性もある。

4 作者像

作者の土屋(三枝)斐子について、岩波書店『国書人名辞典』は次のように記している。

三枝斐子(さいぐさあやこ) 歌人 〔生没〕宝暦九年(一七五九)年、天保初年(一八三〇~)頃没。七十余歳。墓、江戸浅草海禅寺。 〔名号〕初め三枝氏、のち土屋氏。名、斐子。字、子章。号、茅淵・清風。 〔家系〕幕臣三枝主膳守保の女(むすめ)。堺奉行土屋紀伊守廉直の妻。 〔経歴〕和漢の学に通じ、歌文を能くした。

また『婦人文庫』の「旅の命毛」解題には、斐子について、

字は士章、清風と号す。又其の邸の江戸川茅が淵に臨みたるを以て茅園とも号しき。幼より慧敏にして読書を好み、聖経諸子百家の書通覧せざるなく、又国学を修め和歌を好くす。

と、号の由来などを記している。
当時から才媛として有名であったようだが、それだけに強い女性としてうとまれたり揶揄されたりすることもあったようで、彼女自身が「和泉日記」の中で、経済的に苦しかった婚家のために采配を振るったことで、批判されることもあって、それは自分の実像ではないと嘆いてもいる。

5 「和泉日記」の序文

「和泉日記」は全六巻でかなりの長編である。そのこと自体が女性紀行としては珍しいと言ってよく、内容の多彩さや考察の深さでも男女を問わず江戸時代の紀行の中では最も優れた作品の一つに数えられるだろう。
ただ何よりも惜しむらくは、彼女の教養深さが災いして全編が非常に読みにくい文体となっており、このことが今後作品全体を翻刻紹介する時の大きな課題となるだろう。
「和泉日記」の六巻がそろっているのは、無窮会文庫所蔵の写本で、これは斐子の友人の山中しう子という女性が、懇願して原本を借りて写したもので、しう子の長い序文がある。それを以下に全文、紹介してみよう。

としごろ、まうでつかふまつりなれぬるうへの、いづみのまもりどころにわたらせ給ひしのちは、いとたづきなきこゝちのみせられて、なにわざせむもはへなく、ひたふる雨の空のみ、うちながめられたるを、ふたとせあまりにて、かんのとの右にすゝませ給ひて、あづまにくだらせ給ふさだめとなりぬときくに、うれしともいへばさらなり。なほ日かずふるおほん旅路のほどをさへ、まちわぶるを、みたちにかへりわたらせ給ふときゝて、とりあへず、まうのぼりたるに、まだ旅のみてうどなどさへ、とりおさめたまはぬほどなりけり。かはらぬ、おほんうつくしみかうぶりて、それよりもなにかと、つもりぬることのかたはし、きこえさすついでに、「いでや、あがたのおほんすまひのほどの、おほんにきあらむを、とく見まいらせばや」と、ゆかしがるを、「いな、国のまつりごとなどは、おみなのしるべきわざにもあらず。つれづれなるものから、たゞあづまのことのみこひしう、しのばれて、むねもつとふたがりぬるに、こゝちむづかしうおぼえて、さるわざも、えせずかし」と、つれなくつくりの給ふを、「いかでか、さのみやは、おはしたらん。なほかく、ふかうかくひ給ふ、みこゝろの、へだてこそ」など、なくばかりきこゆれば、しかいかに、み心かはりて、「さは、人に見すべきほどの、くさはひにもあらねど、さすがに、ことさかひの、めずらかあることゞもを、わすれ草にしげからんも、ほいなしとて、かいつけぬるを」とて、むまきまで給はるを、もてまかでゝ、いぬるをさへわすれて、くりかへしつゝ見侍るに、国のてぶりふかきあとなどよりはじめて、ものゝ名御かはらめ、あるは名どころ、草木のたぐひにいたるまでも、何くれと、かいあつめさせ給うことゞもは、高しのはまの真砂よりもさはに、しのだの杜の千元よりもしげかれど、つゆみだれたるすぢなきにぞ、げにあまたとし、このみちに、み心よせさせ給ひぬるおほんらうのほども、おしはからるゝになん。ことには、やごとなきおほんかたがたにさしつどひての、みあそびわざ、こは、おのれらが、うらやみおもふべき、きわにもあらず。たゞいかなる、みすのひまもとめても、さるおもだたしう、みやびやかなるたゝずまひ見てしがなと思ふだに、いとかたしや。かゝるめでたき、おほん筆すさびを、ものゝかずともおぼさず、またさしつらぬきて紙ひねりひきとほしたるまゝなるも、げに人には見せじとや思しおきけむと、おしはからるゝ。さはれ、ひたすら、しみのすみかにやはなしはてんと、うつしとゞめんことをねがふに、とみにもゆるび給はず。しばしきこえさせしかば、「さな、かゝるかたほなるふみを、ひとめかす、あざけりのつみは、そこにおふせんを、そのわきたれか、いとぐちに、しるうしてよ」と、の給ふにぞ、いとものしうなりぬ。「そは、かへりては、ものそこなひにこそ」と、かへさひ申せば、「しかあらば、うつしとゞめんことをもゆるさじ」とあるも、いとわりなう、ひとへに、この文とゞめまほしきのみに、よろづのはゞかりをも、うちわすれて、たど  しき筆もて、たゞ「しらぬ」といふことを、かいつくること、しかり。

しう子、しるす。

この序文を読むと大抵の人がうんざりするだろう。まず、古典をそこそこ読みなれている人でも、ほとんど意味がわかるまい。江戸時代に教養ある人々が用いた、昔ながらの伝統的な古文に擬した擬古文という文体だが、日常使う文体ではないから、勝手に文法を変えたりしていて、なまじな平安朝の本来の古文より読みにくい。
かりにおおかたの意味が読みとれたとして、それはそれでまた、いらいらする。一応、大ざっぱな現代語訳を記しておくので、読んでみていただきたい。

親しくおつきあいしていた斐子さまが、和泉の役所に行かれてしまってからは、つまらなくて何もする気がせず、雨の空をながめてぼんやりしていた。二年あまりで、夫の廉直さまが昇進されて江戸に戻られることになったと聞き、大喜びして帰途の日々を待ちこがれていた。お屋敷に帰られたそうなので、急いで伺うと、まだ荷物も片づけてない状態だった。以前と同じく親しくお話して「あちらで書いた日記を早く見せて」と好奇心いっぱいで言うと、「いえ、政治のことは女はわからないし、することもなくて江戸が恋しいばかりだったから気分もすぐれず、何も書かなかった」と乗り気でない返事をなさるのを、「そんなことがあるはずがない。こんなに隠すなんて水くさい」と泣くようにして頼むと、お気持ちが変わったのか「これは、他人に見せるような作品ではないけれど、やっぱり他国の珍しいことのいろいろを、忘れてしまうのも残念で、書きつけておいたの」と六巻もあるのを貸して下さった。持ち帰って、寝る間も惜しんで何度も読んだところ、和泉の国のさまざまな文化や方言、名所や自然についてまで、浜辺の砂や森の草のようにたくさん書いておられて、しかも文章はみごとで、長い間書き慣れてきた方の才能がうかがわれた。中でも高貴な方たちとともに演奏会などなさった様子は、私などがうらやましがるのも身の程知らずなことだが、何とかしてそんな華やかで優雅な生活をのぞいて見たいと思うのも無理な話ではある。こんなすばらしい作品を、何でもないかのように、こよりで簡単に綴じたままにしてあるのも、人に見せる気持ちがなかったのだと推測できた。でもやっぱり、虫に食わせてしまうのは何とかさけたくて、写させてと頼んだが、すぐには許可してもらえなかった。何度も頼んでいると、「それなら、こんな未熟な文章を人目にさらして、皆に馬鹿にされる責任はあなたにとらせるから、その事情を本の最初に書いて」とおっしゃるので、また気が重くなった。「私の文章で序文なんか書いたら、この作品の価値が低くなる」とお答えすると、「それなら写す許可も出さない」とおっしゃるので、大変気はすすまないのだが、ただもう、この紀行を写し取りたいだけに、遠慮も忘れて、幼稚な文章で「何もわからない」ということだけを、このように書きつけておきます。

当時の人々、おそらくは特に女性のたしなみとして、ものごとをはっきり言わず、気持ちを正直に伝えず、遠慮し謙遜し、あくまでもいやいやながら承知する。頼む方もそれを承知で、あっさり引き下がったりしないで、ねばりづよく礼儀をつくして食い下がる。現代人の感覚では到底理解できない、このような日常の交際における礼儀作法は、しかしおそらく五十年か六十年も前にはまだまだ普通に残っていたろう。だから私も何となく想像できるし、この二人の女性が決して異常とは思わないですむのである。

前に述べたように、斐子は当時の人たちからも後世も、意志の強い気性の激しい女性として畏れられており、自分自身もそれを苦にしていた様子である。だが、そのような高い誇りがあるからこそ、逆にまた、当時の女性の美徳である控え目で我慢強い態度をあくまでも守り、「枝氏家訓」なる一書を著して、家族親族など身内の女性に説くという意識もまた彼女にはある。だからこそ、「和泉日記」の中にも何度も「自分の意志ではない、周囲に合わせた」という記述があるように、彼女は今の人から見るとうんざりするような、一見彼女らしくもない「遠慮深く慎ましい女性らしさ」を過度なまでに固守するのだ。

以前私は「スカートの逆説」という理論を述べたことがある。授業で男ことばと女ことばについて話していた時のことだった。つまり、男性社会で男性に伍して活躍する女性が常に抱くジレンマは、スカートや長い髪といった女性らしい服装や言葉遣いをすれば「弱い劣った女性」という目で見られてしまう一方、男性的な服装をして男っぽい言葉を使うと「一人前の大人になっていない子どもっぽい女性」と見られてやはり同等に扱ってもらえない、ということだ。現代では次第にそういう状況はなくなってきているとはいえ、まだ時にそういう雰囲気はある。
当時の女性としてはふさわしくないほど強い個性と高い誇りを持っていればこそ、「置かれた場所で咲くために」斐子は一段と女性としての美徳を追求しなければならなかった。それを思うと、くりかえすが彼女の気性からすると一見ちぐはぐにも矛盾しているようにも見える斐子のこうした立ち居振る舞いが、私にはよく理解できるのである。

6 「和泉日記」の内容とその魅力

「和泉日記」と題するように、この作品は夫の任地の堺周辺の自然や社会、風俗について多くの筆を割いている。その事自体、たとえば中世以前の古典紀行の作者たちが、都の外へ出たとたん不安と違和感にさいなまれ、望郷の念にかられ続けるのと異なって、旅先の各地をいわば支配者の目で鳥瞰し観察する江戸時代の男性紀行と同じ視線を彼女が具えていたことを示す。だが一方で、男性紀行にさえめったにない、自分自身の心理の深い分析や、関東と関西の二文化の比較など、その記事の豊富さと幅の広さは、同時代の男性紀行のみならず、現代の紀行と比べても何ら遜色はない。

あえて箇条書きに、その内容を区分してあげてみよう。

① 家族とりわけ夫の廉直との交流に関する記事

廉直の明るい豪放磊落な人柄が描き出されるのは、この紀行の大きな魅力の一つだ。斐子たちの音楽の練習をのぞいて、いっしょに歌って今にも踊り出しそうにするかと思うと、支配下の民衆にも停止されていた盆踊りを許可するなどして喜ばれている。それを斐子が夫の仕事としてうれしそうに書きとめているのもほほえましい。また、病気になった時には斐子にだけ看病させていたりして、妻に心を許しているのがうかがえる。

② 当時の社会情勢に関する記事

冒頭間もなく、ロシアのラクスマンが開国を迫った事件について、次のように記述するなど、斐子は国内外の情勢に強い関心を抱いていた。

六月になれど雨やまず。「いかなる天のおかしなりけむ」と、うちなげかるゝに、十日まりとなりて人のいゝさわぐをきくに、「いと遠きゑびすの船、この国をおこさむとて、北の国につきぬ」と、のゝしる。「こは、なに」と、まづ、うちなげかれて、ふるき代の「むくりこくり」とかやいゝけんも、ふとおもひ出られて、なを「さりとも」とたのもしう思ふを、なにがしのあそん、ゑびすしづむべき仰ごと給はり、とみに千嶋の旅に出たつときくに、むねとゞろきつゝ、「いかにや」ともきかまほしく、なやましけれど、「此あそんならんは、げにことたいらぎなまし」など、たのもしう思ひなりて、やがて其日より住よしの明神に、いのりはじめさせつゝ、なてものなどつかはす。

そして紀行の中盤、英国の軍艦フェートン号が長崎に寄港した問題で責任をとって長崎奉行が自害する。彼はまだ若く、斐子夫妻とも親しかった。どきどきしながら長崎からの知らせを待ち、詳細を知って嘆く夫妻の様子がよくわかる。そして夫の廉直は、斐子があまりに文学や芸術を好んで繊細な面があるのを気にして、自分も武士であるから、いつ家族を捨てて死ぬかもしれないから、その覚悟をしていてほしい」と温かく丁寧にさとす。「ここもまた海の近くで、その海は朝鮮や中国やもっと遠い外国にも続いているのだから」と語る夫のそのことばに心うたれた彼女は、その数日後、「かんのとのゝ『海のかよひおそろし』とありしところをも、よく見む」と、夫の語った、世界につながる海をこの目で確かめたいと、女性たちと浜辺の遊覧に出かける。この小旅行も女どうしの楽しさに満ちているが、その目的の一つに夫のことばを自分の目で確認しようとする意図があるのは、斐子の世界情勢への関心と夫への信頼、あえて言うなら男性的な視野と女性的な愛情があればこそであろう。

③ 当時の雅楽伝承に関する記事

斐子は音楽が好きで、夫の勧めもあって、滞在中に京都の貴族の屋敷へ琵琶を習いに行っている。当時は楽所という機関が雅楽の伝承を行なっていたが、「このほか絃楽器や催馬楽、朗詠などは、伏見宮家や西園寺家、綾小路家などの堂上の楽家が伝承した」(国立劇場編 小島美子監修『日本の伝統芸能講座 音楽』 淡交社)と言い、斐子が通ったのも、このような楽家の一つであったのだろうが、その名は記されていない。「今業平」のような若い美しい貴族に親密に指導されて陶然となる斐子の様子も面白いのだが、教授が一通り終わったあとで、その貴族が斐子のために催してくれた演奏会の模様が詳しく記されていて、雅楽伝承の実態を知る貴重な資料となっている。

けふは、みあそびとさだめ給はば、おんつたへは、ことになし。めされてまいる楽所のものどもには、窪ちかなか、東儀季政、林広済、くぼ近義、辻近敦、阿部季良、おなじく季徳、奥好古、おなじく好文等なり。是らは楽所の勘能あまたがなかにも、わきてすぐれたりときこへし人々をこそ、けふはゑらばれ給ける。近寿は七十のうへをいつゝむつかさねたる此道の一老にて、わきて筝の上手にて、いにしへの光源氏よりやつたへ給ひけむ、また明石の入道のおしへたてけむ、きんの琴をさへ、よくひきつたへて、あづまをさへ、すがゞきぬるが、けふ、わがつがひに筝の役なり。すへまさ、これにつきてをれり。みな、ひろひさしにさむらひて、みあそび、午の時よりはじまる。おゝ簾なかばおろして、おまへにおん所作、吾もおふなく、おん助絃さむろふ。近寿、季政、筝のこと給はりぬ。近あつ、広すみ、笙、好古、好あや、よこぶへ、すへはる、すへあつ、ちかまさ、ひちりきをつとむ。日向の介、しきぶなど、つぎ  たいこかたをつとむ。まづ平調かきあはせあり。これは、うへの、おゝんがくはじめの式を写させ給ふとぞ、きこへし。

これに続いて当日の演奏曲目など、演奏会に関する詳しい説明が、ここにあげた部分の数倍の長さで記されている。

④ 奉行の妻の日常に関する記事

当時の奉行の家族や妻が、どのように暮らし、夫の仕事に関わったかも、この作品から浮かび上がる。たとえば、夫が新しい命を受けて江戸に戻るとわかった日の描写はこうである。

きさらぎ中のむゆかに、うらゝかなるものから、常はおしまつきにむかひ、またはものなども、ぬふわざもすれど、「けふは」とて、みぎりにおりたちて、なづな、たんぽゝ、すみれなどのさきみだれたる中に、野ふしつ、いとうつくしうて、うちまねき、もすそにまとひなどするものゝ、よにすてがたきをとりて、もちつゝ、ふと、あなたを見れば、かんのとのゝ、つねにあたりちかふ、つかひならし給ふもの、れいより、あはたゞしう、こなたにはしりく。やがて吾まへに、つゐいて、「あな、めでた、いま、あづまより、めしぶみのさむろふ。『このこと、おまへにまうせ』とて、かんの殿より申させ給ふ」とばかり、いゝすてゝ、とく、はしりさりぬ。

庭で花をつんでいた斐子のもとに、夫の部下が走って来て、江戸へ帰る命令が出たことを告げる。夫が役所から使いを出して一刻も早く妻に知らせようとしたのだろう。この後、家中が喜びで騒然となるのを落ちつかせようとする斐子の努力や、帰宅した夫が浮かぬ顔なので一同がまた静まりかえる様子、やがて一足先に江戸に戻った夫からの手紙で、ひきつづき長崎奉行の任務が与えられ、今回は単身赴任であることがわかって深まる斐子の嘆きなどが細かく記され、さまざまな思いを胸に秘めたまま、てきぱきと屋敷を片づけて出発する自分は「人めばかりは、はればれしう、ものおもわしげにも見へず(他人の目からは私は何の悩みもないかのように見えるだろう)」、という述懐で、「和泉日記」は終わっている。

7 幸福な世界とは

田辺聖子氏はやはり江戸時代の女性紀行である小田宅子「東路日記」をもとに『姥ざかり花の旅笠』(集英社 二〇〇一年)という楽しい小説を書かれており、その中で斐子の紀行「旅の命毛」も取り上げて「(斐子は)和漢の教養ゆたかな女性で漢詩にも素養あり、文章は力強く老練である。道中の感懐も非凡で見識にみちている。それだけに自我も強く、ともすると鬱悒を発して、滾る憤懣がエキサイトするらしい」と評されている。また、のびやかで明るい宅子の紀行と比較して、斐子の「旅の命毛」の中にある旅を自分で管理できない女性の身を激しく嘆く文章にふれて、それは商家の女性と武家の女性の差でもあり、斐子個人の個性の強さでもあろうかと的確な考察をされている。

―どうも怒りっぽい女人らしい。(無窮会文庫蔵「旅の命毛」の表紙裏に書かれた小林歌城の揶揄めいた批判を紹介して)月なみ男の一般批評はどうでもよいが、大体に於て私の想像するに、武士の妻というのは当今の、ある種の専業主婦のようなものではないか。世間が狭く、自分からあたまを下げないといけないことが少ないゆえ、世間の怖さを知らない。右の斐子女史の、まさに筆誅ともいうべき舌鋒の鋭さは、年齢(四十歳前後)に似ず純粋な人となりを思わせもするが、また世間知らずの青臭味も感じられる。女ゆえに世間から薄遇されるというのでなく、おそらく斐子自身の個性が招きよせた不如意という傾向もあろう。
そこへくると、女ばかりの旅立ちをして、旅路早々に愉快がっている宅子さんなどはまさに九州女らしい磊落さである。

『姥ざかり旅の花笠』 「足も軽かれ 天気もよかれ」

たしかに『江戸の紀行文』でも書いたことだが、斐子の悩みや悲しみが女性ゆえのものか江戸時代だからか、それとも斐子の個性によるのかは区別がつけにくい。
ただ私は、『私のために戦うな』(弦書房 二〇〇七年)の中でも書いたのだが、女性に限らず、その生きた時代と社会にさまざまな不満や怒りを抱いた時、それを自らの中で解消して、置かれた状況を受け入れ、そうすることで安らかになって幸福になって何とか生き延びたからと言って、つまり、にこにことして幸福そうだったからと言って、その人が幸福とかその世界が幸福だとか思うことには、どうしても慎重にならざるを得ない。
近年、江戸時代が見直されて来ていて、特に幕末の日本社会を見聞した外国人の旅行記をもとに、当時の日本と日本人がどんなに好もしく美しいものだったかを描き出した渡辺京二『逝きし世の面影』が大きな反響を呼んだ。私はこのような見直しは必要だったと思っているし、この本は名著だと思っている。しかし、引用された文献の中には、引用されていない部分を見た時にちがった印象を生むものもあり、この本は一つの世界を描き出す文学として読むべきで、正確な研究報告として読むべきものではないと考えてもいる。
更に、この本で描き出されたような当時の世界が現実であったとしても、それは果たして私たちが求めるべき理想社会なのかと思うと、懐疑的にならざるをえない。現状を受け入れ、その中で分をわきまえた幸福を味わうことはその気になればやさしいし、個人も社会も快く楽でもある。だが、納得できないこと、現状では不可能に思える夢を心の中に持ちつづけ、そのことによって心身をすりへらしながら生きつづけ、周囲や自分を不幸にして行くこともまた、人類と個人にとっては欠かすことができない、重要で貴重なことではないだろうか。
与えられた環境と条件を受け入れ利用して不満を抱かず努力することで、あわよくば現状をも変えてゆくか、苦しみやいらだちに耐え、周囲を傷つけ自らも傷つけられながら、現状への疑問や問題意識を持つことをやめずに抗議しつづけるのか、両方がおそらく必要なのだろう。
この原稿を書きながら篠田節子の小説『第4の神話』を読んでいた。夭折した美貌の女性作家の伝記を書く中で彼女の人生の真実にふれていくジャーナリストの女性の話で、周囲との折り合いをつけつつ、運命と状況を受け入れたり利用したりしながら、自分の求める作品を書こうとする女性作家の、虚像も実像もまじえた苦闘が、なぜか斐子を思い出させた。どんな時代でもどんな社会でも、まだ今のところ女性の生き方と課題とはどこか似たものにならざるを得ないのだろうかと、あらためて実感させられたのである。

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