近世紀行文紹介森為泰の紀行

※これは「學士會會報」901号にエッセイとして発表したものですが、引用部分に現代語訳を補充してあります。(二〇一四・一〇・二三)

幕末から明治初期における「紀行」の魅力
―出雲の歌人・森為泰の場合―       板坂耀子

一 作者と諸本

江戸時代の紀行は、芭蕉の『おくのほそ道』以外はあまり知られていない。だが実際には二五〇〇点を超える版本や写本が現存している。『おくのほそ道』以上に面白いのではないかと思う作品も数多い。
芦田耕一氏「江戸時代の出雲歌壇」(2012年3月 山陰研究ブックレット1)によると、森為泰(もり・ためひろ 1811~1875)は、松江藩士森洞之助の嫡男として松江に生まれ、国学者で歌人であるとともに、武芸や八雲琴にも優れた「文武両道の文化人」であった。文久二年に「代官役」に、翌年には松江藩校文武館(のちの修道館)の「調役」、慶応二年には隠岐国の「郡代」、明治三年には藩校皇学館の歌学の訓導に任ぜられている。明治四年に家督を嫡男永雅に譲り、以後は和歌と琴に没頭した。また「出雲歌集」選集の命を受け、編集を行なったが明治八年六十五歳で没したため、この歌集は未刊に終わった。
江戸時代の紀行の多くと同じように、彼の紀行はまだ活字にはなっておらず、すべて写本で残っている。国会図書館の「出雲紀行」二二冊本(現在web公開されていて、国会図書館ホームページ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2561181?tocOpened=1
などで閲覧することができる)の中には、他人の作品も数点あるが、大半は彼の紀行で、長短あわせて十七編の紀行が収録されている。この他に刈谷市中央図書館と西尾市岩瀬文庫に写本が一点ずつ残る「御島(おしま)日記」があり、さらに岩瀬文庫の「森為泰歌日記」(「千竹園日記」とも言う)一二冊の中にも、東海道を旅した際の紀行などが混在している。
どの紀行もそれなりに特徴があって面白いのだが、特に今回紹介する、出雲地方を旅した国会図書館所蔵の紀行は非常に興味ある記事が多く、観察や描写もすぐれていて、質量ともに江戸時代の紀行の中で注目すべき存在である。

二 三つの魅力

森為泰の出雲紀行の魅力は、おおむね三つある。

1 中国地方の旅

第一は島根付近の限られた地域とはいえ、中国地方を題材としていることである。江戸時代の紀行を地域別に分けた場合、おそらく一番少ないのは中国地方の紀行であろう。当時の旅人は九州に向かうとき、この地域を陸路で通過することがほとんどなく、大抵は瀬戸内海の船旅である。四国はまだ金毘羅参詣や八十八ヶ所巡礼などで赴く人がいるのだが、中国地方の内陸部を旅した紀行は実に少ない。
通過する旅人ではなく、地元の人が描く近郊遊覧紀行という点でも、関東の香取・鹿島周辺、箱根・江の島への遊覧、東北における現地の人々の松島紀行といった紀行類の中で、一人の人物が同一地域をこれだけ集中して描いた紀行は珍しい。出雲大社を初めとして、雲南市大東町で今も湯治地として栄える牛尾温泉(阿之折記行)や、出雲市大社町の遥堪峠(鹿聞紀行)、美郷町粕渕の旅館亀遊亭(石見国高津詣)など、他に描く紀行がほとんどないさまざまな場所の、当時の様子も詳しく描写されている。

2 幕末から明治へ

第二は幕末から明治初期の社会の変化が読みとれることである。幕末から明治にかけて紀行を書いた人々は何人もいるが、一般に個人の場合も紀行文学全体でも、明治維新の前後で作品の雰囲気がそれほど大きく変化することはない。だが、為泰の明治以後の紀行には、しばしば時代の変化に関する記事があり、彼が藩の政治に関わってきたことも影響してか、変わり行く時代を観察しようとする明確な視線が常に存在する。

佐陀の神立祭に詣(もうず)とて、朝五つ半時、家を出て塩見縄手より御城を拝奉るに、三百年以来生立栄えける古木、をしげ(惜しげ)なく伐たふして、稲荷社さへ現れ出し事、よ(世)の成行(なりゆき)とは言ながら、余りにも心なき業と思はれて、悲しみにたへざりけり。(明治四年 出雲国佐陀詣)
(佐陀の神立祭に参詣しようと朝の九時に家を出て、塩見縄手から松江城を拝見すると、三百年このかた栄えていた古い松の木をあっさり伐採してしまって、その木に隠れていた稲荷神社まであらわに見えているのが、時代の流れとは言いながらも、あまりにもひどい処置に思えて、悲しくてたまらなかった。)

ここでは、松江城の松の木が伐採され、城内の稲荷神社もあらわに遠くから見えるようになったことを悲しんでいる。

塩冶を出て古志川わたりて行に、今市にまうづとて、出くる人むれたり。為泰が若き比、世の諺に「在郷姉さん化粧顔みれば、春の焼山、霜がふる」とて、黒き顔に白粉所まだらにぬりて、着物は空色の紋付、裾に模様ありて、表は紅染に定りし物なりしを、近き年比(としごろ)は風俗、松江ものめきて心驕れる事になれり。今日むれたる見るに、赤き二布の長きをたれざるもなく、唐もめん、或は絹類の着物ひらめかさぬはなかりけり。又、男子はふくれん(ごろふくれん。舶来の毛織物)の帯しめて紫羅紗の紙入、上かへ(上部)より出し懸(かけ)などして、両天傘(晴雨兼用の傘)持ざるは稀なり。今の世は大名も家老も百姓もおなじ人なりとて、穢多も鉢屋も、やがて平人に交るべき勢とは申しながら、上品は下品に落すぎ、下品の上品に成過たるも見苦し。(明治四年 出雲国産土詣)
(塩冶を出て古志川を渡って行く時に、今市に参詣するということで、出かけて来る人が群衆になっていた。自分が若いころは「田舎の娘さんの化粧した顔を見ると、春の野焼きをして黒く焦げた山肌に白く霜が降りたようだ」と世間で言ったように、色黒の顔におしろいをあちこちまだらに塗って、着物は青地に紋がついていて、表は紅染めと決まっていたものだったが、最近は服装や化粧なども都会の松江の女性風でぜいたくになって来ている。今日集まっている女性たちを見たところ、皆が赤い下着をのぞかせ、唐の生地や絹物の着物をひらひらさせていない者は誰もない。男性の方はというと、外国産の毛織物の帯をしめ、紙入れ(財布)は紫色のラシャ、それを着物の上の方からちょっと見せ、晴雨兼用の傘をほとんどの人が持っている。現代では大名も家老も百姓も同じ人間と言われていて、もっと下層の人たちも次第に一般に溶け込みそうな流れが見えるが、上品な人が下品になり過ぎるのも、その逆もみっともない。)

ここには、為泰のこのような慨嘆はさておき、劇的に変化して行く社会と、「おなじ人なり」という考え方が確実に広まり定着している様子、それを生き生きと楽しむ人々の姿が鮮やかに浮かび上がっている。
他にも、このような時代の変化を意識している部分が多く、「産土詣」では、廃藩置県の通達を見せられて衝撃を受ける場面もある。

3 和歌のある暮らし

第三は当時の出雲歌壇を初めとした、和歌をとりまく状況がよくわかることである。おそらく出雲地方の歌人について調査しようと思う人には、この紀行は当時の歌人たちの人間関係や動向を知る上で有益な資料となるだろう。
ただし、そのために読み物としての完成度はやや犠牲になっているかもしれない。私は江戸時代の紀行を最終的に最高の水準で完成させた紀行作家は、伊勢の商人小津久足(おづ・ひさたり 一八〇四~一八五八)と考えている。久足の文章が和文調なのにひきかえ、為泰の場合はもっと実用的な俗文に近く、執筆姿勢も無造作であるものの、どの紀行にも久足と共通する、膨大な事実の中から、読者の興味をそそるであろう、特色あるものをあやまたず選択して注目する才能が鮮やかにうかがえる。だが、数知れず登場する人名とその交流関係の記事は、この方面に関心がない読者にとっては煩雑で退屈だろう。
しかし、そのような読者にもおそらくは充分に実感できるのは、江戸時代の多くの紀行と異なって、為泰が宿泊や食事にまったく苦労していないことである。行く先々で歌作を介した知人友人弟子が居て、前触れもなく突然訪問しても大いに歓待され、主人が留守でも家人が代わって大歓迎する。そしてどこでも歌会が催され、旅立つ時には誰かが入れ替わり立ち替わり常に連れだって同行する。その人脈の豊かさと濃厚さには驚く他ない。
しかも時には軋轢も生じていて、「石見国高津詣」(明治七年)では同行した多田清興、田中林夏の内、清興への不満がつのり、林夏と言い合わせて途中で清興とうまく別れるまでのいきさつを詳しく書いているのも、他の作品にはあまり見られない珍しい記事である。
更に、これは出雲地方がやや特別なのかもしれないが、当時の人々の生活の中に和歌が深く浸透している様子がよく伝わる。
たとえば、ある知人の屋敷が一年前に焼けて、新築したのを訪問したとき、例によって為泰も主人も歌の応答をする。そこへ居あわせた、この家を建てた大工も為泰に歌を所望する。

是は去年夏五月、家も土蔵も納屋も建物一所ものこらず焼うせけるを直(すぐ)に建あらためて秋八月引移れる新宅なりけり。内外行見めぐりて、
山のごと動かぬ宿は梁(うつばり)も柱もふとくたくましくして
此家作りし大工来居(きい)て、一首を望めれば、
速かになれる此家飛騨人にあらぬ工みの力ゆゑ也(明治五年 出雲国大宮詣)
(この家は去年の五月に家も蔵も土蔵も納屋も全焼したのを、即座に改築して秋に移転した新宅である。家の中や外を見て回って、
「山のようにどっしりと安定したこの家は梁も柱も太くて立派である」という和歌を詠んだ。この家を建てた大工もやって来て、「私にも一首詠んで下さい」と望むので、
「あっという間に完成したこの家は、飛騨の匠で有名な飛騨の出身でもない、ここの大工さんのすばらしい力量の証明です」と詠んだ。)

同じ紀行には、十一歳の少年が歌を欲しそうにしているので与えた話も登場する。

新庄村なる古瀬法之進、今年十一歳なるが、学事に精出して、きのふ夕つかた登賢に従ひて清田に来りて夜かへりしが、けふ又とく清田に来りて、爰に案内し、かたはらはなれずして、歌ほしげに見ゆれば、「高しとてのぼらざらめや梺(ふもと)よりわけ見よふじのやまと言の葉」と季鴈の詠歌、又「立そめし志しだにたゆまずば龍のあぎとの玉もとるべし」と隆正のよめる歌などの事かたらひきかせて、よみて遣しける。
心ざし高くはかけよ天にのぼる龍のあぎとの玉もとるべく(同上)
(新庄村の古瀬法之進は、今年で十一歳だが、勉強熱心である。昨日の夕方、登賢についてここ清田に来て、夜になって帰った。今日はまた早くからここに来て、私を案内してくれた。私のそばにずっといて、和歌を詠んでほしそうに見えるので、
「高いからとても無理と最初からあきらめて登るのをやめることがあるだろうか。とにかく山のふもとから分け入って行ってごらんなさい、富士の山のような大和言葉の歌の道を」という賀茂季鷹の歌を教えてやり、また「最初に思い立った時の気持ちさえ忘れなければ、絶対に奪えないという龍ののどもとの玉だって手にすることができるにちがいない」という大国隆正(出雲の歌人)の歌のことも話して聞かせた。そして私自身も、
「目標は大きく持って羽ばたきなさい、龍ののどもとの玉も奪うつもりで」と詠んで短冊に書いてやった。)

大工も少年も歌を望み、何かあるごとに人々は歌で心境を詠みかわす。ちなみに登場する歌人には女性も多く、為泰と同行する者もいれば、「孫とひまご六人ありて、その世話のみに月日送りて歌よむ事思ひ絶(たえ)たり」(孫と曾孫が六人いて、その世話をしているだけで時が流れ、和歌を詠むこともやめてしまった)と語る六十一歳の「中山辰兵衛の母」なる女性(「出雲国鹿聞紀行」 明治五年)もいる。出雲周辺あるいは当時の日本での和歌の日常生活への定着ぶりは、俳諧と並んでなみなみならぬものであったと言えよう。

三 ぜひどこかで出版を

国会図書館の「出雲紀行」二二冊の中には、為泰の若い時期の作品は、天保四(一八三三)年、二十二歳の時の「阿之折記行」しかない。足の療治のために牛尾温泉に行く紀行だが、途中で若い女性たちの集まりをのぞき見したり、同じ方向に行く女性たちと道連れになろうとしたり、滞在中に近在の娘と交遊したり、これまた珍しいほど女性との関係が多く描かれている。いささか度が過ぎるようにも見えるのだが、あるいはこれは歌を詠むのと同様の優雅な営みと言う感覚なのかもしれない。

ともあれ、このような森為泰の出雲紀行類は江戸時代の紀行の中でも出色の面白さであることはまちがいなく、近世の和歌史や出雲の郷土史、幕末の地方史を知る上で、まさに資料の宝庫であろう。しかも読み物としての面白さも充分にある。
先に述べた小津久足の紀行類は今年、皇學館大学神道研究所が出版を開始しており(神道資料叢刊「小津久足紀行集(一)」)、大変ありがたいのだが、この為泰の紀行類もしかるべきところから、出版していただけないものだろうか。地元の自治体や大学や新聞社や図書館などで、どなたかが企画して下さるなら、本当にうれしいと思うのである。
なお、引用した文章には今日では人権に抵触する表現があるが、当時の資料を正しく理解するために原文のまま記している。ご了解を乞う次第である。

Twitter Facebook
カツジ猫